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∽3∽[一途]の役割
§26[自然]
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次の日の授業で私は体育を見学した。頭がぼうっとして、とてもスポーツができる状態じゃなかったからだ。原因はもちろん分かっている。心配するような視線をいくつか感じたけれど、私はそれすら心苦しかった。スポ大で競技に参加することになっていたら、申し訳なさで隠れる穴を探していたかもしれない。
口づけを交わした日はママの顔さえ見れないと言うけど!
知識としては知っていても、深いのなんて分からなかった私には、刺激が強すぎたみたいだった。まだ、心が落ち着いていない。相談もできない。こんな事を相談できるのは、絵美里くらいしかいなかった。
今朝呆然としたまま作っていたお昼ご飯のサンドイッチを手にベンチで火照る顔を冷ましていたら、ふっと人影が差した。
「きみ、何かあったよね」
「な、何も……ない、です」
私は円居先輩から、そっと目を逸らした。
「いや、目逸らしてるし」
「それは」
「話しにくいんだけど」
「うう……」
「何。誰かに、僕が刺青入れてるとでも言われた?」
「えっ?」
顔を向けたら、円居先輩はニヤッと笑った。
「嘘」
人の顔を見ても思ったより自分が動揺していないことに気づいて、私は深く息をついた。ちゃんと顔を合わせる。
「すみません、取り乱していました」
「そうだね」
「タトゥーをどこにどれくらい入れてようが人の勝手ですよね」
「話ずれてる。……で、何かあったの?」
「……言うような事は、何も」
言えるわけがない。
「そ」
それ以上は聞かずに、円居先輩はベンチの隣に腰を下ろした。カバンからマフィンと水筒を取り出している。野菜ばっかり見えるけど、お肉とかチーズとか卵とか入ってないんだろうか。
「昔ボディステッチを付けっ放しにしてた。で、噂だけ一人歩きして刺青入れてるって言われてた時期があった」
「ぼでぃーすてっち?」
「知らないならそのままで良い。ちょっと閲覧注意案件」
彼は不気味な笑みを浮かべるから、刺青に似た何かだと思うことにして私は考えるのをやめた。
「何か、あったんですか? そういうのを始めたのって」
「何も。ちょっとした苛立ちとか、思いつきとか、反感とか。きみにわざわざ聞かせるような高尚な理由は、何も無かった」
棒付きキャンディを煙草みたいに咥えて、円居先輩は脚を投げ出した。
「不良にでもなってみたかったのかな」
「そういえば、初めての図書委員会の時、少し不良っぽく見えました」
「あれね。僕が隣に座ると嫌がるだろ」
「嫌な人でも、委員会で隣に座るくらいなら……」
「今思えば、ね。ついこの間まで、そんな些細な所まで勝手に気にして、とことん人との接触を避けてた。結果がこの、どうしようもない孤立だよ」
友達を作らない方法は知っている。逆は知らない。それは、私も同じだ。
「なら……私たち、友達になれるでしょうか」
「ふふっ。なら、『まずは友達から始めようか』」
「……?」
「まずは呼び方を変えようか?」
「あの……その言い方……」
私は人並みに察しが良いつもりだ。そこまで色恋沙汰に疎いわけじゃない。だから、今まで円居先ぱ……円居さん……レンさ……円居さんの示したいくつものサインに気づいていなかった訳じゃない。異性がパーソナルスペースで意味もなく耳元で囁いたり、口以外とはいえキスしたり、「友達から始める」って言い回しとか、そういう行動に意味がないとは思えない。
それでも、彼は[誘惑]だから。からかうように、仕事として、そうしてもおかしくは、ない。そのはずだ。
「もちろん、いずれはもっと、深い関係を目指してるけど」
明言されて、私は飛び上がりそうになった。ここで「そうですね、親友になりたいですね」なんて誤魔化せる訳がない!
「じょ、冗談ですよね……?」
「さあ、どうだろうね。僕は[誘惑]だから」
不意に、円居さんは顔を私に寄せた。
「冗談か、仕事か、本気かはさておき。僕は[誘惑]だから、きみが[一途]だろうと、遠慮する気はないよ」
どうして、そう言うんだろう。「本気だ」とだけ言われれば、「[誘惑]だからそう仰るんですね」と、逃げられるのに。「仕事熱心なんですね」と、その真剣な顔から目を逸らさずに済むのに。
「……わ、分かり、ました……」
「意識してくれた?」
「イケメンの顔が近づいてきて、赤面しない人はいないと思います……」
「格好良いと思ってくれてるんだ?」
「客観的に、客観的に判断して、です」
円居さんはクスクスと笑った。その声を聞いていたら、なぜか胸が少し苦しくなった。
「わ、私、そういう経験無いんです」
「そう見える」
「今、悩んでいたのに、こんな、追加で爆弾落とさないでください」
「僕に言うような悩みじゃないんでしょ。なら、僕が何しても文句は言えないよね」
「ど、どうしてそうなるんですか……」
その後十分近く、私達はくだらない会話をして、お昼を食べながら友達みたいにそこに座っていた。甘い会話をした後なのに、不思議と彼とはその後自然に接する事ができる。
「……ところでそのマフィン、何が挟まってるんですか?」
「レタスとトマトとレッドオニオンとアボカドとドレッシングとゴマのペーストとからしバター」
午後には久し振りのスポ大準備の時間があって、私は先輩方や経験者の言う通りにあれこれ雑事をこなすことになった。いつか絵美里が言っていた事は本当で、「事件」のせいで減った準備期間の分、私の部署は前倒しで戦争が始まってしまったのだ。しばらくして私はパソコン画面とにらめっこする事になった。
「これ、どうでしょうか」
「良く出来てるね。こっちも同じ雰囲気で作れる?」
「が、頑張ります」
ぐちゃぐちゃになった頭には、何も考えずに仕事に集中できる環境が心地良かった。気がついたら二時間くらい経っていて、解散している部署も出始めている。私はゆっくり首を回した。
「町角さん上手いじゃん。じゃあここも……って言いたい所だけど、もう時間か」
「先輩、私持ち帰ってやってきましょうか?」
「いいの? データコピーするね」
「お願いします」
言って背伸びをしたら、脇から冷たい缶が差し出された。
「よっ、お疲れ」
「お疲れさまです……九祖先輩」
「ここの班だったんだな。そういえば、競技は?」
「運動は得意ではないので、その分裏方を頑張ろうと思ってます」
「そっか、お互い頑張ろうぜ」
「はい」
私は軽く話題を切り上げると、パソコンに向き直った。持ち帰る仕事はコピーデータに書き込むから今作業する事は無いのだけど、ちょっとした「忙しいのでお話しできません」アピールだ。何故そんな事するかなんて、ここにいればすぐに分かる。①九祖先輩は今の私には直視に堪えないイケメンで、②仕事か用事があるのか生徒が後ろに控えていて、③おまけに九祖先輩の近くに女子が寄るのを良しとしないファンクラブの皆さんが遠巻きに目を光らせている。これだけ揃っていて話し続ける理由はない。九祖先輩も、すぐに後ろの生徒と打ち合わせみたいな用事を話しながら離れていった。気配が消えてから、私は深く息をつく。なんとか九祖先輩親衛隊の皆様方には目を付けられなかったみたいだった。
「……あれ、猫の時と違って思いっきりそっけなくね?」
放課後、五月雨さんの所に行くと、またちょっとの時間だけ猫ちゃんの様子を見させてもらえた。円居先ぱ……さんに会った時に渡されていた封筒を渡すと、「ほう」と中の書類を興味深そうに見ていた。
「その書類って何なんですか?」
「知らないのか。簡単に言えば、猫の多頭飼いをするのに問題ないという証明書だ。無くとも飼えるが、これがあれば尚安心して引き渡せる」
「そんな証明書があるんですね」
「某動物愛護団体が発行しているだけあって基準は厳しい」
店長さんは相当の猫好きらしかった。
「猫ちゃんの様子はどうですか?」
「調子は良好。一週間ほど念のため様子を見るが病気にも罹ってない。ただ相当寝るのが好きらしいな」
猫ちゃんは黒い毛並みを光らせて今もすぅすぅと寝息を立てていた。可愛い。
「じゃあ、明日また来ます」
「今日はあのうるさいのは来ないのか」
「どうでしょう……先輩の予定は私には分からないので」
コンビと思われていそうだったので誤解を解こうと強めに言った。
「そうか。また何か見つけたら死体以外拾って来いよ」
「は、はい」
「死体はやめとけ。ゴム手袋とゴミ袋持ってて服と髪が汚れない時だけにしておけ。病気感染る事もあるからな」
とても役に立たないアドバイスを受けて私は退室した。その頃には、もう普段通りの調子に戻っていたと思う。
そうだ、と思いつく。あのカフェに、久し振りに行ってみよう。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
マンホール下のカフェでは、相変わらず店員……店長さんが、出迎えてくれた。違ったのは店内。ボサノヴァが流れる穏やかな空気の中に、一人、お客さんがいた。後ろ姿しか見えないけど、長い金髪を編み込んで垂らしたスタイルの良い女の人だ。知らない人がいる所で店長さんに話しかけるのは気が引けて、私は示された席に座って無言でメニューを見た。
「モカとプリンアラモードお願いします」
「かしこまりました」
「ねえ、ちょっと」
そう言って奥に行こうとした店長さんに、女の人が話しかけた。甘えるような、少しトゲのある口調だ。
「何か」
「スメラギに会わせてよぉ、今日こそ」
「……残念ですが」
「その気はないって? 薄情ねえ」
「ただ今営業中です」
「じゃあ上がった後で」
「……」
「ちょっとぉ~。あんたあたしを何だと思ってるのよ」
「カフェのお客様だと」
「もうっ」
絡まれてるみたいだ。いざという時はサイレント通報も必要だろうか? 私はハラハラして様子を伺っていた。
「スメラギに会わせなさいよって言ってんの。何度目だと思って」
「残念ですが」
「何がダメなのよ?」
「……情操教育上の問題が」
「はぁっ? 大人にジョーソーキョーイクも何もないでしょうが! 仮に教育が必要だとして、あたしになぁんの問題があるのよぉ?!」
店長さんは、安心させるようにチラリと私に向けて頷いて見せた。
「他のお客様の迷惑をお考えにならない所とか」
女の人は、バッと私の方へ後ろを振り向いた。
後ろ姿の想像を裏切らない、モデルさんでもおかしくないくらいの綺麗な人だ。ぱっちりとした目は明るめの茶色で金髪が地毛かどうかは分からないけど、日本人系の美人な気がした。そして、その美しい顔と首もとには、桜の形のタトゥーが入っていた。
その人がちょうど私と目が合い、一秒ほど見つめ合う事になる。
「~っ、やっ、やだごめんなさい~っ!」
そこで、ようやく私は違和感の正体に気づいた。この人、いわゆる「オネェ口調」でずっと喋ってたんだ。
「あたし、◼︎◼︎街の真ん中で、ちょっとした記者やってるのよ」
「記者さん……?」
「そ。ウェブ雑誌のモデルとか近くの店のヘルプとかイベントの企画とかアプリ開発のアドバイザーとか他にもやり過ぎてて時々本業分かんなくなるけどね」
この人は、女の人だった。小さい頃そういう口調の人に囲まれて生活していたから、この口調が馴染むらしい。
「まー、今時LGBTTQQIAAPなんて珍しくもないしね。あたしはそれが育て親とか近所に多かったってだけで」
ちなみにタトゥーは「首のは本物で、頬のはシール」だそうだ。
「この店、こういう客多いでしょ? って、だから迷惑掛けられても黙ってなさいってコトじゃないわよ。ごめんねぇ~」
「いえ、もう、気にしてません」
どちらかというと私は、未知の世界に触れて少し混乱していた。知識で知っていても、私の住んでいた田舎には、少なくともこういう人は居なかったから。よく考えてみれば、このお店で見る初めての別のお客さんだ。他のお客さんも、私の常識外の人が多いのかもしれない。
「やだもぅ~あんた、なんでこんなカワイイ子が来てるって教えてくれなかったの」
「普通に来店されてましたが」
「そうゆうトコロよ、あんた!」
「ごゆっくり」
店長さんは女の人の言葉を躱してお店の奥に引っ込んでしまう。
「あの、聞いてもいいですか?」
「ん? あたしも聞きたい事あったから、質問し合いっこしよっか?」
「え、私に質問、ですか」
「うんうん。ラテアートの猫ちゃん壊せなかった噂の子って、あなただったりする?」
私はプリンスプーンを落としそうになった。
「えっ、そ、なんでそれ」
「あははっ、ごめんねぇ~。レンから無理矢理聞き出したのよぉ。同じ制服だし、あなたかなぁ~って」
「レンって……円居先輩ですか?」
言うと、女の人は「あはははははっ」と大笑いし始めた。
「レンが『円居先輩』、先輩って! あの子学校じゃそんな大人ぶってるのぉ~?! あはは、あははははっ」
「あの、えっと、その」
「うんうん、分かるわぁ。年齢上なら『先輩』だもんねぇ?」
「あの、本当にお世話になってて」
「良いのよ良いのよ、ココじゃ、本音で話して。何たって、聞き耳立てる奴は居ないもの。直接話を聞き出す人は居るけどね?」
アイスコーヒーの入ったグラスををくるりと回して、女の人はまた笑った。
「で、あなたの質問はなぁに?」
「あの、答えにくい事なら良いんですけど、スメラギさんって」
「あら、見る?」
女の人はぱっと小さなタブレットを弄って(全体がデコられていた)、画面を私に向けた。そこに写っていたのは……。
「猫ちゃん?」
「そっ。エンペラー皇、三歳。可愛カッコイイでしょ~? うちのエンペラー三国の子供なんだけど、育てきれなくて預けてるのよぉ」
真っ白な毛並みの猫ちゃんは、私には可愛いばかりに見えたけど、確かに少し凛々しい顔つきもしていた。スライドショーが動いて、様々なポーズやエンペラー三国さん? らしき猫ちゃんとのショットも流れてくる。
「わっ、かわ、可愛い、です……」
「でしょでしょー? それなのにあいつときたら、滅多に会わせてくれないんだからぁ」
じとっと顔を奥に向ける様子を見て、私も心から笑ってしまった。
「実は私も、この間拾った猫ちゃんを育てられないのでこちらの店長さんに今度引き取っていただくんです」
「ホント? やだぁ、どんな猫ちゃん?」
「黒猫で……あ、写真ありました」
「やだ、産まれたてじゃない。カーワーイーイー!」
九祖先輩から送られていた写真を見せて話していたら、お店のドアがカランコロン、と鳴った。来客者は、ドアを開けて私たちを見ると、しばし動きを止めた。
目の前には、猫ちゃんの写真を映した二台のタブレット、椅子を寄せ、私に半分寄りかかってスキンシップを取っている女の人、(どうしてこうなった?)と疑問符を浮かべながら固まっている私。
「……何してんの、スズ姉」
「あらぁ、円居パイセンのお越しじゃな~い?」
「えっと……こんにちは」
「なるほど、完璧に理解したよ」
あっ、わるーい事を考えている時の笑みになった。腕まくりをして小指をほんの少し動かすだけでパキリと指を鳴らすと、私から女の人……スズさん? を、簡単に引き剥がす。
「やっ! もう、男衆はデリカシー無いわね」
「スズ姉のどこに気を遣えっていうの」
そして、私に笑顔のまま向き直る。
「さて。呼び方変えようかって言ったよね? すみれ」
「っ?!?!」
「あらまぁ」と口元に手を当てて微笑むスズさん、笑顔を崩さない円居せん……円居さん、どんな表情をしているのか自分でも分からない私……この構図は、店長さんがオーダーを取りに来るまで続いた。
口づけを交わした日はママの顔さえ見れないと言うけど!
知識としては知っていても、深いのなんて分からなかった私には、刺激が強すぎたみたいだった。まだ、心が落ち着いていない。相談もできない。こんな事を相談できるのは、絵美里くらいしかいなかった。
今朝呆然としたまま作っていたお昼ご飯のサンドイッチを手にベンチで火照る顔を冷ましていたら、ふっと人影が差した。
「きみ、何かあったよね」
「な、何も……ない、です」
私は円居先輩から、そっと目を逸らした。
「いや、目逸らしてるし」
「それは」
「話しにくいんだけど」
「うう……」
「何。誰かに、僕が刺青入れてるとでも言われた?」
「えっ?」
顔を向けたら、円居先輩はニヤッと笑った。
「嘘」
人の顔を見ても思ったより自分が動揺していないことに気づいて、私は深く息をついた。ちゃんと顔を合わせる。
「すみません、取り乱していました」
「そうだね」
「タトゥーをどこにどれくらい入れてようが人の勝手ですよね」
「話ずれてる。……で、何かあったの?」
「……言うような事は、何も」
言えるわけがない。
「そ」
それ以上は聞かずに、円居先輩はベンチの隣に腰を下ろした。カバンからマフィンと水筒を取り出している。野菜ばっかり見えるけど、お肉とかチーズとか卵とか入ってないんだろうか。
「昔ボディステッチを付けっ放しにしてた。で、噂だけ一人歩きして刺青入れてるって言われてた時期があった」
「ぼでぃーすてっち?」
「知らないならそのままで良い。ちょっと閲覧注意案件」
彼は不気味な笑みを浮かべるから、刺青に似た何かだと思うことにして私は考えるのをやめた。
「何か、あったんですか? そういうのを始めたのって」
「何も。ちょっとした苛立ちとか、思いつきとか、反感とか。きみにわざわざ聞かせるような高尚な理由は、何も無かった」
棒付きキャンディを煙草みたいに咥えて、円居先輩は脚を投げ出した。
「不良にでもなってみたかったのかな」
「そういえば、初めての図書委員会の時、少し不良っぽく見えました」
「あれね。僕が隣に座ると嫌がるだろ」
「嫌な人でも、委員会で隣に座るくらいなら……」
「今思えば、ね。ついこの間まで、そんな些細な所まで勝手に気にして、とことん人との接触を避けてた。結果がこの、どうしようもない孤立だよ」
友達を作らない方法は知っている。逆は知らない。それは、私も同じだ。
「なら……私たち、友達になれるでしょうか」
「ふふっ。なら、『まずは友達から始めようか』」
「……?」
「まずは呼び方を変えようか?」
「あの……その言い方……」
私は人並みに察しが良いつもりだ。そこまで色恋沙汰に疎いわけじゃない。だから、今まで円居先ぱ……円居さん……レンさ……円居さんの示したいくつものサインに気づいていなかった訳じゃない。異性がパーソナルスペースで意味もなく耳元で囁いたり、口以外とはいえキスしたり、「友達から始める」って言い回しとか、そういう行動に意味がないとは思えない。
それでも、彼は[誘惑]だから。からかうように、仕事として、そうしてもおかしくは、ない。そのはずだ。
「もちろん、いずれはもっと、深い関係を目指してるけど」
明言されて、私は飛び上がりそうになった。ここで「そうですね、親友になりたいですね」なんて誤魔化せる訳がない!
「じょ、冗談ですよね……?」
「さあ、どうだろうね。僕は[誘惑]だから」
不意に、円居さんは顔を私に寄せた。
「冗談か、仕事か、本気かはさておき。僕は[誘惑]だから、きみが[一途]だろうと、遠慮する気はないよ」
どうして、そう言うんだろう。「本気だ」とだけ言われれば、「[誘惑]だからそう仰るんですね」と、逃げられるのに。「仕事熱心なんですね」と、その真剣な顔から目を逸らさずに済むのに。
「……わ、分かり、ました……」
「意識してくれた?」
「イケメンの顔が近づいてきて、赤面しない人はいないと思います……」
「格好良いと思ってくれてるんだ?」
「客観的に、客観的に判断して、です」
円居さんはクスクスと笑った。その声を聞いていたら、なぜか胸が少し苦しくなった。
「わ、私、そういう経験無いんです」
「そう見える」
「今、悩んでいたのに、こんな、追加で爆弾落とさないでください」
「僕に言うような悩みじゃないんでしょ。なら、僕が何しても文句は言えないよね」
「ど、どうしてそうなるんですか……」
その後十分近く、私達はくだらない会話をして、お昼を食べながら友達みたいにそこに座っていた。甘い会話をした後なのに、不思議と彼とはその後自然に接する事ができる。
「……ところでそのマフィン、何が挟まってるんですか?」
「レタスとトマトとレッドオニオンとアボカドとドレッシングとゴマのペーストとからしバター」
午後には久し振りのスポ大準備の時間があって、私は先輩方や経験者の言う通りにあれこれ雑事をこなすことになった。いつか絵美里が言っていた事は本当で、「事件」のせいで減った準備期間の分、私の部署は前倒しで戦争が始まってしまったのだ。しばらくして私はパソコン画面とにらめっこする事になった。
「これ、どうでしょうか」
「良く出来てるね。こっちも同じ雰囲気で作れる?」
「が、頑張ります」
ぐちゃぐちゃになった頭には、何も考えずに仕事に集中できる環境が心地良かった。気がついたら二時間くらい経っていて、解散している部署も出始めている。私はゆっくり首を回した。
「町角さん上手いじゃん。じゃあここも……って言いたい所だけど、もう時間か」
「先輩、私持ち帰ってやってきましょうか?」
「いいの? データコピーするね」
「お願いします」
言って背伸びをしたら、脇から冷たい缶が差し出された。
「よっ、お疲れ」
「お疲れさまです……九祖先輩」
「ここの班だったんだな。そういえば、競技は?」
「運動は得意ではないので、その分裏方を頑張ろうと思ってます」
「そっか、お互い頑張ろうぜ」
「はい」
私は軽く話題を切り上げると、パソコンに向き直った。持ち帰る仕事はコピーデータに書き込むから今作業する事は無いのだけど、ちょっとした「忙しいのでお話しできません」アピールだ。何故そんな事するかなんて、ここにいればすぐに分かる。①九祖先輩は今の私には直視に堪えないイケメンで、②仕事か用事があるのか生徒が後ろに控えていて、③おまけに九祖先輩の近くに女子が寄るのを良しとしないファンクラブの皆さんが遠巻きに目を光らせている。これだけ揃っていて話し続ける理由はない。九祖先輩も、すぐに後ろの生徒と打ち合わせみたいな用事を話しながら離れていった。気配が消えてから、私は深く息をつく。なんとか九祖先輩親衛隊の皆様方には目を付けられなかったみたいだった。
「……あれ、猫の時と違って思いっきりそっけなくね?」
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「その書類って何なんですか?」
「知らないのか。簡単に言えば、猫の多頭飼いをするのに問題ないという証明書だ。無くとも飼えるが、これがあれば尚安心して引き渡せる」
「そんな証明書があるんですね」
「某動物愛護団体が発行しているだけあって基準は厳しい」
店長さんは相当の猫好きらしかった。
「猫ちゃんの様子はどうですか?」
「調子は良好。一週間ほど念のため様子を見るが病気にも罹ってない。ただ相当寝るのが好きらしいな」
猫ちゃんは黒い毛並みを光らせて今もすぅすぅと寝息を立てていた。可愛い。
「じゃあ、明日また来ます」
「今日はあのうるさいのは来ないのか」
「どうでしょう……先輩の予定は私には分からないので」
コンビと思われていそうだったので誤解を解こうと強めに言った。
「そうか。また何か見つけたら死体以外拾って来いよ」
「は、はい」
「死体はやめとけ。ゴム手袋とゴミ袋持ってて服と髪が汚れない時だけにしておけ。病気感染る事もあるからな」
とても役に立たないアドバイスを受けて私は退室した。その頃には、もう普段通りの調子に戻っていたと思う。
そうだ、と思いつく。あのカフェに、久し振りに行ってみよう。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
マンホール下のカフェでは、相変わらず店員……店長さんが、出迎えてくれた。違ったのは店内。ボサノヴァが流れる穏やかな空気の中に、一人、お客さんがいた。後ろ姿しか見えないけど、長い金髪を編み込んで垂らしたスタイルの良い女の人だ。知らない人がいる所で店長さんに話しかけるのは気が引けて、私は示された席に座って無言でメニューを見た。
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「ねえ、ちょっと」
そう言って奥に行こうとした店長さんに、女の人が話しかけた。甘えるような、少しトゲのある口調だ。
「何か」
「スメラギに会わせてよぉ、今日こそ」
「……残念ですが」
「その気はないって? 薄情ねえ」
「ただ今営業中です」
「じゃあ上がった後で」
「……」
「ちょっとぉ~。あんたあたしを何だと思ってるのよ」
「カフェのお客様だと」
「もうっ」
絡まれてるみたいだ。いざという時はサイレント通報も必要だろうか? 私はハラハラして様子を伺っていた。
「スメラギに会わせなさいよって言ってんの。何度目だと思って」
「残念ですが」
「何がダメなのよ?」
「……情操教育上の問題が」
「はぁっ? 大人にジョーソーキョーイクも何もないでしょうが! 仮に教育が必要だとして、あたしになぁんの問題があるのよぉ?!」
店長さんは、安心させるようにチラリと私に向けて頷いて見せた。
「他のお客様の迷惑をお考えにならない所とか」
女の人は、バッと私の方へ後ろを振り向いた。
後ろ姿の想像を裏切らない、モデルさんでもおかしくないくらいの綺麗な人だ。ぱっちりとした目は明るめの茶色で金髪が地毛かどうかは分からないけど、日本人系の美人な気がした。そして、その美しい顔と首もとには、桜の形のタトゥーが入っていた。
その人がちょうど私と目が合い、一秒ほど見つめ合う事になる。
「~っ、やっ、やだごめんなさい~っ!」
そこで、ようやく私は違和感の正体に気づいた。この人、いわゆる「オネェ口調」でずっと喋ってたんだ。
「あたし、◼︎◼︎街の真ん中で、ちょっとした記者やってるのよ」
「記者さん……?」
「そ。ウェブ雑誌のモデルとか近くの店のヘルプとかイベントの企画とかアプリ開発のアドバイザーとか他にもやり過ぎてて時々本業分かんなくなるけどね」
この人は、女の人だった。小さい頃そういう口調の人に囲まれて生活していたから、この口調が馴染むらしい。
「まー、今時LGBTTQQIAAPなんて珍しくもないしね。あたしはそれが育て親とか近所に多かったってだけで」
ちなみにタトゥーは「首のは本物で、頬のはシール」だそうだ。
「この店、こういう客多いでしょ? って、だから迷惑掛けられても黙ってなさいってコトじゃないわよ。ごめんねぇ~」
「いえ、もう、気にしてません」
どちらかというと私は、未知の世界に触れて少し混乱していた。知識で知っていても、私の住んでいた田舎には、少なくともこういう人は居なかったから。よく考えてみれば、このお店で見る初めての別のお客さんだ。他のお客さんも、私の常識外の人が多いのかもしれない。
「やだもぅ~あんた、なんでこんなカワイイ子が来てるって教えてくれなかったの」
「普通に来店されてましたが」
「そうゆうトコロよ、あんた!」
「ごゆっくり」
店長さんは女の人の言葉を躱してお店の奥に引っ込んでしまう。
「あの、聞いてもいいですか?」
「ん? あたしも聞きたい事あったから、質問し合いっこしよっか?」
「え、私に質問、ですか」
「うんうん。ラテアートの猫ちゃん壊せなかった噂の子って、あなただったりする?」
私はプリンスプーンを落としそうになった。
「えっ、そ、なんでそれ」
「あははっ、ごめんねぇ~。レンから無理矢理聞き出したのよぉ。同じ制服だし、あなたかなぁ~って」
「レンって……円居先輩ですか?」
言うと、女の人は「あはははははっ」と大笑いし始めた。
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「あの、えっと、その」
「うんうん、分かるわぁ。年齢上なら『先輩』だもんねぇ?」
「あの、本当にお世話になってて」
「良いのよ良いのよ、ココじゃ、本音で話して。何たって、聞き耳立てる奴は居ないもの。直接話を聞き出す人は居るけどね?」
アイスコーヒーの入ったグラスををくるりと回して、女の人はまた笑った。
「で、あなたの質問はなぁに?」
「あの、答えにくい事なら良いんですけど、スメラギさんって」
「あら、見る?」
女の人はぱっと小さなタブレットを弄って(全体がデコられていた)、画面を私に向けた。そこに写っていたのは……。
「猫ちゃん?」
「そっ。エンペラー皇、三歳。可愛カッコイイでしょ~? うちのエンペラー三国の子供なんだけど、育てきれなくて預けてるのよぉ」
真っ白な毛並みの猫ちゃんは、私には可愛いばかりに見えたけど、確かに少し凛々しい顔つきもしていた。スライドショーが動いて、様々なポーズやエンペラー三国さん? らしき猫ちゃんとのショットも流れてくる。
「わっ、かわ、可愛い、です……」
「でしょでしょー? それなのにあいつときたら、滅多に会わせてくれないんだからぁ」
じとっと顔を奥に向ける様子を見て、私も心から笑ってしまった。
「実は私も、この間拾った猫ちゃんを育てられないのでこちらの店長さんに今度引き取っていただくんです」
「ホント? やだぁ、どんな猫ちゃん?」
「黒猫で……あ、写真ありました」
「やだ、産まれたてじゃない。カーワーイーイー!」
九祖先輩から送られていた写真を見せて話していたら、お店のドアがカランコロン、と鳴った。来客者は、ドアを開けて私たちを見ると、しばし動きを止めた。
目の前には、猫ちゃんの写真を映した二台のタブレット、椅子を寄せ、私に半分寄りかかってスキンシップを取っている女の人、(どうしてこうなった?)と疑問符を浮かべながら固まっている私。
「……何してんの、スズ姉」
「あらぁ、円居パイセンのお越しじゃな~い?」
「えっと……こんにちは」
「なるほど、完璧に理解したよ」
あっ、わるーい事を考えている時の笑みになった。腕まくりをして小指をほんの少し動かすだけでパキリと指を鳴らすと、私から女の人……スズさん? を、簡単に引き剥がす。
「やっ! もう、男衆はデリカシー無いわね」
「スズ姉のどこに気を遣えっていうの」
そして、私に笑顔のまま向き直る。
「さて。呼び方変えようかって言ったよね? すみれ」
「っ?!?!」
「あらまぁ」と口元に手を当てて微笑むスズさん、笑顔を崩さない円居せん……円居さん、どんな表情をしているのか自分でも分からない私……この構図は、店長さんがオーダーを取りに来るまで続いた。
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