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∽3∽[一途]の役割
§27[多情]
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「やぁだ、レンったらガツガツしてるのねー、あなた苦労してるでしょ?」
「黙って、スズ姉。すみれ、こいつに返事することないから」
「ちょっとぉ、ガールズトークに男が混ざらないでよ」
「はぁ。出禁にして」
「それは当店のコンセプトに反するので」
「スメラギと楽しそうな事の為なら出禁されてもあたしは突撃するわよ!」
「最終手段は出禁ではなく排除です」
「良いね、それでよろしく」
「ちょっとぉ?」
円居さん、スズさん、店長さんのやり取りをよそに、私はプリンをつついていた。
「第一、『身体は女』で安心させといてレズ隠して近づくってどうなの」
「あたしはレズじゃないわ。性別関係なく好きになるだけ」
「こういう時に大事なのは受け取る方の問題でしょ」
「あら、案外余裕は無いのね? あたしなんかを警戒するなんて」
「恋人にバラすよ?」
「レンが連絡先知ってる彼女も彼氏も、もういないわ」
「清算が早いね」
……何だか私を差し置いて異世界の言葉が交わされている気がするけど私には聞こえない。硬めのプリンが美味しい。モカとよく合う。「どうぞ」と店長さんが円居さんの注文したカップを置いたのはなぜか私の隣の席だったけれど関係ない。円居さんは当然のようにそこに座ると、またスズさんと話し続けた。
「そもそも、性懲りもなく猫に会いに来たわけ?」
「だってぇ、何ヶ月会ってないと思ってるのよぉ~?! 補給しないと倒れちゃう~」
「0.5ヶ月だよ。その構い過ぎの結果が、ストレスによる抜け毛なんだけど」
「うっ……でも、たまに会うくらい良いじゃない……」
「たまに、の頻度がスズ姉はおかしい」
「一途なだけよ、私は」
その単語に、ぴくりと動いてしまったのを、気付かれただろうか。
「まあスズ姉は置いとくとして。書類渡してくれた?」
「は、はいっ」
円居さんは私に顔を向けて薄く笑う。これは多分、意地悪な笑みだ。
「で?」
「……『円居さん』」
「それ、他の人にも使ってる呼び方だよね」
「『先輩』って逃げられない呼び方なだけ、頑張ってるんです……」
円居さんは「ふふっ」と笑うと、私のプリンアラモードからチェリーを奪った。これで許してくれるのか、それともただの気まぐれだろうか。
「(あら嫌らしい)」
「(スズ姉?)」
「(冗談よ。はいはい、黙ってるわ)」
円居さんはチェリーをそのまま口に入れて、笑みを浮かべたスズさんと何かヒソヒソ話をしている。妙に気まず……ううん、私の話じゃないに違いない。私は話してるお二人の隣にたまたま座ってるだけだ。なぜかガラ空きの店内の4人掛けのテーブルにまとまってるだけ。
「じゃ、ちょっと店長と話つけてくるけど……スズ姉、何かしたら承知しないから」
「しないわよぉ?」
ヒラヒラと手を振るスズさんの手の向こうで、べっ、と舌を出して円居さんは店長と共に奥に消えた。子供っぽい仕草が、やけに目に残る。いつもは、もっと冷たい顔をしているから。
「……随分感情豊かですね」
「あの子外じゃ見栄張ってるんでしょ? あたしに対してもそうよ。こうやってペースを崩してやって、ようやく感情出すの」
つい口をついて出た言葉は、スズさんにしっかり拾われていた。
「クールぶろうとするというか、いっそあれは露悪的よね」
スズさんは、指を優雅に組み合わせた。
「愛想尽かさないであげてね、あの子に」
「愛想?」
私はきょとんとしてスズさんを見た。
「自覚するのはそのうちで良いけど。ふふふ、レンの弱点見つけちゃったわぁ~」
「あ、あの、何か勘違いを」
「まあ、若いうちって素直になれないものよね」
「違うんです」
「あら、カーワイイ。そんなに真っ赤になって否定しなくても良いのよ?」
スズさんの言わんとしていることが分からないほど鈍くはない。何を言ってもかわされてしまうのに、それでも私は、言わずにはいられなかった。
「あの、本当にす、好きなんかじゃないんです」
「分かるわ、その気持ち」
「本当に!」
つい声を荒らげてしまって、私は下を向いた。
「……私は、[一途]だから。他の人を好きになるなんて事、ありえません」
目の端に、戻ってきた円居さんが見えた。
冷たい沈黙が降りてきた。私は顔を伏せたまま、カップをソーサーに落とした。
∽
「すみれ」という名の女がフラフラと店から出ていくのを、「スズ」は、円居レンに本気でデコピンされた額に手を当てながら見送った。その彼はといえば、彼女を見送る気でいたようだが断られて店内にくすぶっている。珍しく感情を出しっ放しで、そのほとんどは「スズ」に向けた非難だった。
「……」
「……」
「ねぇ、レン坊、お節介は承知で言うわよ?」
「坊は余計だけど、何、スズ姉」
「道ならぬ恋、って奴じゃないの?」
円居レンは、直接は答えずただ、カランとグラスを揺らした。
「流石、不倫マスター」
「そんな不名誉な名つけないでよ。女の勘よ。……あんたにそんな器用な事できるの?」
「無理。最悪、スズ姉の世話になるかも」
冗談っぽく覚悟を聞けば、すぐに否定されて「スズ」は戸惑う。しかも、「世話になる」と言った。この反抗期真っ盛りのような子が失恋や世間からの悪評を受けた程度で自分に頼るなどありえない事を「スズ」は知っているし、そも、何をしろというのか。
「失恋したらお姉ぇさんになぐさめてほしいって?」
「それだけは無い。むしろ立ち直るまで離れてて」
冗談だ。円居レンは血縁では無いが、「スズ」にとっては家族同然。一夜を共にするような気は起きなかった。反抗期の「弟」も同じ考えだろう。
となれば、世話というのは、心のケアでは無いだろう。それに、先ほどのあの女子の言葉……とてつもない厄介事の気配がする。
「……なぁに、あの子訳アリ?」
「スズ姉、一つ聞きたいんだけど」
「何?」
続く言葉に、「スズ」は嫌な予想が当たっていたと顔をしかめることになる。
「[一途]の[役割]の役割って、何?」
∽
「私……どうしちゃったんだろう」
私はフラフラと歩いていた。一応寮に向かって足慣れた道を歩いているけど、勝手に歩いているような変な気分だった。
私は、ずっと翻弄されてばかりだ。でもそれは、私の立ち方が悪いから。そうでなければ、こんなに言葉一つ二つで振り回されて、優馬さんとのキスと同じくらい、彼の言葉に振り回されるなんてあり得ない。私は、仮にも[一途]なのに。
霞がかった頭を正気に戻したのは、額に落ちてきた雨粒だった。
「傘……」
運悪く、忘れてしまったのか傘がない。慌てているうちにも雨粒はどんどん増えていって、コンクリートの上に水玉模様を作っていく。私は走りながら辺りを見回して、近くの公園の屋根付き東屋に駆け込んだ。一拍遅れて、本降りになる。タブレットを見ると、急な雨の報せ。この後は止んだり降ったりの繰り返しになるみたいだ。
「……弱まったら帰ろう。それか、近くのお店で傘を買って……」
雨を浴びて寝込んでしまったのはまだ記憶に新しい。このまま帰る気にはなれなかった。
(予報になかったとはいえ、いつもなら、曇り空を警戒していたし、タブレットで確認していたのに)
ここ数日、私は授業以外でタブレットに触ることが、ぐんと減っていたかもしれない。
(絵美里とは、よく話してたから)
そっと、絵美里とのメッセージ履歴をなぞって、どんどん昔のデータを見ていく。たった一ヶ月遡るだけで膨大な文字列が記憶を引っ掻くように流れていく。これだけ話していたら、急な雨の予報を見逃す事も無かった。
(……無心にならなくちゃ)
ふと、そう思った。今の私は冷静じゃない。絵美里が居なくなって、優馬さんが少し怖くて、円居さんもいつもと様子が違って、感情の整理がついていない。こういう時に落ち着かないと、不意に馬鹿なことをしてしまう事がある。
(……絵美里も、まっさらになりたかったのかな)
精神性麻薬なんてしないけれど、気持ちだけは分かる気がした。
その時、ぽつんと雨粒がタブレットに落ちた。
「え……」
顔を上げても、東屋に雨漏りがあるようには見えない。タブレットの表面をなぞったら、つるりとした画面が触れるだけ。濡れてなんていない。私が戸惑っている間にも、雨粒は画面にぼたぼたと落ちて流れては画面を濁らせていく。
「まさ……か、ウィルス?」
私の……というより、学校のタブレットは、一般人用の最高クラス電子ウイルスセキュリティソフトが入っている。今までこのタブレットの挙動がおかしくなった事なんて無かった。
「どうしよう、業者さんに連絡しないと」
見えにくい画面でなんとか電話を掛けようとしても、表示が水に溶けたインクみたいに崩れてうまくいかない。
「お、音声認識なら、『タブレット修理の連絡を繋いで』」
バチャンッ、と、水中にタブレットが落ちたような音がした。同時に画面が、一瞬水しぶきを映して、水中から見ているみたいにぼやける。もちろん実際には落ちていないし、もし水たまりに落ちても壊れたりしないくらいの防水機能はあるはず。でも、画面にはゴポゴポという泡が流れるような音、エラー音、警告の通知が出て、音声認識ができない。まるで、音声認識しようとしたのに気づいて邪魔してきたみたいなタイミングだった。画面を操作しようにも反応してくれない。
「直接修理に持って行かないと」
『……レバナラナイ』
立ち上がろうとした時、雨音とは違う音がタブレットから零れた。ノイズ混じりの声だ。
「?」
『……ミトメラレナイ……ユルサレナイ……ワレワレハイチド、マチガエタ。モウアヤマチハユルサレズ、ヤメルコトモユルサレナイ……ケース32ニソナエヨ。ハイジョセヨ……キロクハ、ホゾンサレナケレバナラナイ……』
女の人の、感情のない、ぞくりとするような声だった。どこかで聞いたことがあるような声でもあり、無個性な合成音にも思える。画面からは警告音も水音も消え、電源を落としたみたいに真っ暗になっている。ただ、声だけが流れていた。
(何……?)
『ニドメノシャカイニゲンザイノトコロ……ハ、ナイ……オロカニモ……ハ、ホゾンサレナケレバナラナカッタ……トウタ…………ユルサレナイ……キロクハ、ホゾンサレナケレバナラナイ……』
そこで、ノイズが大きくなると無線かラジオのチューニングを失敗したみたいに音が聞こえなくなった。
「……」
調子のおかしい機械が電波を傍受してしまう事は、無いわけじゃない。あるタイミングで架空の電話に掛けると幽霊の声が聞こえるなんて都市伝説もよく聞く。ウイルスの影響でどこかに繋がってしまったのか、それとも、ウイルスに仕込まれた意味のない音だったんだろうか。
(ケース32って、何だろう)
ふいに、ノイズが小さくなった。
『ちやほやされて、満足ですか? [一途]』
流れてきたのは……今度こそ、聞き覚えのある声だった。
『彼氏の監視を滅多に受けないなんて、良いご身分ですよね。帰った翌日には浮気でしたっけ? 顔赤くしてましたよね。まあ、なんてお盛んで』
「ち……違う……」
これが電話になっているのか、一方的に話しかけられているのか、いつかの愚痴なのかは分からない。ただ、何か言わずにはいられなかった。
『言い訳くらいはしますよね。本当ラッキーですよね、心の中の事はなんとでも言い訳できますから。他の[役割]と比べて楽してるのくらい誰でも知ってますよ。で、[誘惑]邪魔する意味ありました?』
「私は……本当に……」
『……あーもう、[一途]が何です、移り気じゃありませんか。浮気性、多情者、不埒、不潔。脳内生殖器詰まってんですか? はは、ありそー』
「……」
『想うのは自由? 知りませんよ、[一途]なんだから。[役割]持ちの特権アレコレ使い倒してんでしょ。生意気に違反してんじゃねー。私は許さない。文句とか聞いてませんよ聞きませんよ、悪いのはお前でしょ?』
今度こそブツン、と音が途切れて、タブレットが機能停止する。強まってきた雨音が、やけにはっきりと耳に響き始めた。
「黙って、スズ姉。すみれ、こいつに返事することないから」
「ちょっとぉ、ガールズトークに男が混ざらないでよ」
「はぁ。出禁にして」
「それは当店のコンセプトに反するので」
「スメラギと楽しそうな事の為なら出禁されてもあたしは突撃するわよ!」
「最終手段は出禁ではなく排除です」
「良いね、それでよろしく」
「ちょっとぉ?」
円居さん、スズさん、店長さんのやり取りをよそに、私はプリンをつついていた。
「第一、『身体は女』で安心させといてレズ隠して近づくってどうなの」
「あたしはレズじゃないわ。性別関係なく好きになるだけ」
「こういう時に大事なのは受け取る方の問題でしょ」
「あら、案外余裕は無いのね? あたしなんかを警戒するなんて」
「恋人にバラすよ?」
「レンが連絡先知ってる彼女も彼氏も、もういないわ」
「清算が早いね」
……何だか私を差し置いて異世界の言葉が交わされている気がするけど私には聞こえない。硬めのプリンが美味しい。モカとよく合う。「どうぞ」と店長さんが円居さんの注文したカップを置いたのはなぜか私の隣の席だったけれど関係ない。円居さんは当然のようにそこに座ると、またスズさんと話し続けた。
「そもそも、性懲りもなく猫に会いに来たわけ?」
「だってぇ、何ヶ月会ってないと思ってるのよぉ~?! 補給しないと倒れちゃう~」
「0.5ヶ月だよ。その構い過ぎの結果が、ストレスによる抜け毛なんだけど」
「うっ……でも、たまに会うくらい良いじゃない……」
「たまに、の頻度がスズ姉はおかしい」
「一途なだけよ、私は」
その単語に、ぴくりと動いてしまったのを、気付かれただろうか。
「まあスズ姉は置いとくとして。書類渡してくれた?」
「は、はいっ」
円居さんは私に顔を向けて薄く笑う。これは多分、意地悪な笑みだ。
「で?」
「……『円居さん』」
「それ、他の人にも使ってる呼び方だよね」
「『先輩』って逃げられない呼び方なだけ、頑張ってるんです……」
円居さんは「ふふっ」と笑うと、私のプリンアラモードからチェリーを奪った。これで許してくれるのか、それともただの気まぐれだろうか。
「(あら嫌らしい)」
「(スズ姉?)」
「(冗談よ。はいはい、黙ってるわ)」
円居さんはチェリーをそのまま口に入れて、笑みを浮かべたスズさんと何かヒソヒソ話をしている。妙に気まず……ううん、私の話じゃないに違いない。私は話してるお二人の隣にたまたま座ってるだけだ。なぜかガラ空きの店内の4人掛けのテーブルにまとまってるだけ。
「じゃ、ちょっと店長と話つけてくるけど……スズ姉、何かしたら承知しないから」
「しないわよぉ?」
ヒラヒラと手を振るスズさんの手の向こうで、べっ、と舌を出して円居さんは店長と共に奥に消えた。子供っぽい仕草が、やけに目に残る。いつもは、もっと冷たい顔をしているから。
「……随分感情豊かですね」
「あの子外じゃ見栄張ってるんでしょ? あたしに対してもそうよ。こうやってペースを崩してやって、ようやく感情出すの」
つい口をついて出た言葉は、スズさんにしっかり拾われていた。
「クールぶろうとするというか、いっそあれは露悪的よね」
スズさんは、指を優雅に組み合わせた。
「愛想尽かさないであげてね、あの子に」
「愛想?」
私はきょとんとしてスズさんを見た。
「自覚するのはそのうちで良いけど。ふふふ、レンの弱点見つけちゃったわぁ~」
「あ、あの、何か勘違いを」
「まあ、若いうちって素直になれないものよね」
「違うんです」
「あら、カーワイイ。そんなに真っ赤になって否定しなくても良いのよ?」
スズさんの言わんとしていることが分からないほど鈍くはない。何を言ってもかわされてしまうのに、それでも私は、言わずにはいられなかった。
「あの、本当にす、好きなんかじゃないんです」
「分かるわ、その気持ち」
「本当に!」
つい声を荒らげてしまって、私は下を向いた。
「……私は、[一途]だから。他の人を好きになるなんて事、ありえません」
目の端に、戻ってきた円居さんが見えた。
冷たい沈黙が降りてきた。私は顔を伏せたまま、カップをソーサーに落とした。
∽
「すみれ」という名の女がフラフラと店から出ていくのを、「スズ」は、円居レンに本気でデコピンされた額に手を当てながら見送った。その彼はといえば、彼女を見送る気でいたようだが断られて店内にくすぶっている。珍しく感情を出しっ放しで、そのほとんどは「スズ」に向けた非難だった。
「……」
「……」
「ねぇ、レン坊、お節介は承知で言うわよ?」
「坊は余計だけど、何、スズ姉」
「道ならぬ恋、って奴じゃないの?」
円居レンは、直接は答えずただ、カランとグラスを揺らした。
「流石、不倫マスター」
「そんな不名誉な名つけないでよ。女の勘よ。……あんたにそんな器用な事できるの?」
「無理。最悪、スズ姉の世話になるかも」
冗談っぽく覚悟を聞けば、すぐに否定されて「スズ」は戸惑う。しかも、「世話になる」と言った。この反抗期真っ盛りのような子が失恋や世間からの悪評を受けた程度で自分に頼るなどありえない事を「スズ」は知っているし、そも、何をしろというのか。
「失恋したらお姉ぇさんになぐさめてほしいって?」
「それだけは無い。むしろ立ち直るまで離れてて」
冗談だ。円居レンは血縁では無いが、「スズ」にとっては家族同然。一夜を共にするような気は起きなかった。反抗期の「弟」も同じ考えだろう。
となれば、世話というのは、心のケアでは無いだろう。それに、先ほどのあの女子の言葉……とてつもない厄介事の気配がする。
「……なぁに、あの子訳アリ?」
「スズ姉、一つ聞きたいんだけど」
「何?」
続く言葉に、「スズ」は嫌な予想が当たっていたと顔をしかめることになる。
「[一途]の[役割]の役割って、何?」
∽
「私……どうしちゃったんだろう」
私はフラフラと歩いていた。一応寮に向かって足慣れた道を歩いているけど、勝手に歩いているような変な気分だった。
私は、ずっと翻弄されてばかりだ。でもそれは、私の立ち方が悪いから。そうでなければ、こんなに言葉一つ二つで振り回されて、優馬さんとのキスと同じくらい、彼の言葉に振り回されるなんてあり得ない。私は、仮にも[一途]なのに。
霞がかった頭を正気に戻したのは、額に落ちてきた雨粒だった。
「傘……」
運悪く、忘れてしまったのか傘がない。慌てているうちにも雨粒はどんどん増えていって、コンクリートの上に水玉模様を作っていく。私は走りながら辺りを見回して、近くの公園の屋根付き東屋に駆け込んだ。一拍遅れて、本降りになる。タブレットを見ると、急な雨の報せ。この後は止んだり降ったりの繰り返しになるみたいだ。
「……弱まったら帰ろう。それか、近くのお店で傘を買って……」
雨を浴びて寝込んでしまったのはまだ記憶に新しい。このまま帰る気にはなれなかった。
(予報になかったとはいえ、いつもなら、曇り空を警戒していたし、タブレットで確認していたのに)
ここ数日、私は授業以外でタブレットに触ることが、ぐんと減っていたかもしれない。
(絵美里とは、よく話してたから)
そっと、絵美里とのメッセージ履歴をなぞって、どんどん昔のデータを見ていく。たった一ヶ月遡るだけで膨大な文字列が記憶を引っ掻くように流れていく。これだけ話していたら、急な雨の予報を見逃す事も無かった。
(……無心にならなくちゃ)
ふと、そう思った。今の私は冷静じゃない。絵美里が居なくなって、優馬さんが少し怖くて、円居さんもいつもと様子が違って、感情の整理がついていない。こういう時に落ち着かないと、不意に馬鹿なことをしてしまう事がある。
(……絵美里も、まっさらになりたかったのかな)
精神性麻薬なんてしないけれど、気持ちだけは分かる気がした。
その時、ぽつんと雨粒がタブレットに落ちた。
「え……」
顔を上げても、東屋に雨漏りがあるようには見えない。タブレットの表面をなぞったら、つるりとした画面が触れるだけ。濡れてなんていない。私が戸惑っている間にも、雨粒は画面にぼたぼたと落ちて流れては画面を濁らせていく。
「まさ……か、ウィルス?」
私の……というより、学校のタブレットは、一般人用の最高クラス電子ウイルスセキュリティソフトが入っている。今までこのタブレットの挙動がおかしくなった事なんて無かった。
「どうしよう、業者さんに連絡しないと」
見えにくい画面でなんとか電話を掛けようとしても、表示が水に溶けたインクみたいに崩れてうまくいかない。
「お、音声認識なら、『タブレット修理の連絡を繋いで』」
バチャンッ、と、水中にタブレットが落ちたような音がした。同時に画面が、一瞬水しぶきを映して、水中から見ているみたいにぼやける。もちろん実際には落ちていないし、もし水たまりに落ちても壊れたりしないくらいの防水機能はあるはず。でも、画面にはゴポゴポという泡が流れるような音、エラー音、警告の通知が出て、音声認識ができない。まるで、音声認識しようとしたのに気づいて邪魔してきたみたいなタイミングだった。画面を操作しようにも反応してくれない。
「直接修理に持って行かないと」
『……レバナラナイ』
立ち上がろうとした時、雨音とは違う音がタブレットから零れた。ノイズ混じりの声だ。
「?」
『……ミトメラレナイ……ユルサレナイ……ワレワレハイチド、マチガエタ。モウアヤマチハユルサレズ、ヤメルコトモユルサレナイ……ケース32ニソナエヨ。ハイジョセヨ……キロクハ、ホゾンサレナケレバナラナイ……』
女の人の、感情のない、ぞくりとするような声だった。どこかで聞いたことがあるような声でもあり、無個性な合成音にも思える。画面からは警告音も水音も消え、電源を落としたみたいに真っ暗になっている。ただ、声だけが流れていた。
(何……?)
『ニドメノシャカイニゲンザイノトコロ……ハ、ナイ……オロカニモ……ハ、ホゾンサレナケレバナラナカッタ……トウタ…………ユルサレナイ……キロクハ、ホゾンサレナケレバナラナイ……』
そこで、ノイズが大きくなると無線かラジオのチューニングを失敗したみたいに音が聞こえなくなった。
「……」
調子のおかしい機械が電波を傍受してしまう事は、無いわけじゃない。あるタイミングで架空の電話に掛けると幽霊の声が聞こえるなんて都市伝説もよく聞く。ウイルスの影響でどこかに繋がってしまったのか、それとも、ウイルスに仕込まれた意味のない音だったんだろうか。
(ケース32って、何だろう)
ふいに、ノイズが小さくなった。
『ちやほやされて、満足ですか? [一途]』
流れてきたのは……今度こそ、聞き覚えのある声だった。
『彼氏の監視を滅多に受けないなんて、良いご身分ですよね。帰った翌日には浮気でしたっけ? 顔赤くしてましたよね。まあ、なんてお盛んで』
「ち……違う……」
これが電話になっているのか、一方的に話しかけられているのか、いつかの愚痴なのかは分からない。ただ、何か言わずにはいられなかった。
『言い訳くらいはしますよね。本当ラッキーですよね、心の中の事はなんとでも言い訳できますから。他の[役割]と比べて楽してるのくらい誰でも知ってますよ。で、[誘惑]邪魔する意味ありました?』
「私は……本当に……」
『……あーもう、[一途]が何です、移り気じゃありませんか。浮気性、多情者、不埒、不潔。脳内生殖器詰まってんですか? はは、ありそー』
「……」
『想うのは自由? 知りませんよ、[一途]なんだから。[役割]持ちの特権アレコレ使い倒してんでしょ。生意気に違反してんじゃねー。私は許さない。文句とか聞いてませんよ聞きませんよ、悪いのはお前でしょ?』
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