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§03 樹待外れな擬態フラワー

水無月梅雨にダンピングオフ

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 こんな日が来るなんて、思いもしなかった。
 ツタと桜が纏わりついた、黒い人型の異形と向き合っている。
 裸で。

 そもそも経験などないのに。いや経験がないから、ここまで膳立てが済んでなお動けずにいるのだろう。どうしたらいいのか分からず、そっと異形の胸に触れれば、腕まで泥のような感触に沈み込んでしまう。
「……あ、悪い、つい」
「積極的なのは好ましいですが、私を人間の女のように『ほぐす』必要はありませんよ」
「そっ……ういうつもりじゃあ、なくて、これは」
「と言いつつ、しばらく固まってますが、きみ、本当に私と繋がる気があるんですか?」
「なっ……無かったら、こんな余裕のない顔、している訳がないだろう……!」
 顔が熱い。こんな表情を見られたくなくてうつむこうとすると、顎を持ち上げられた。
「本当だ。可愛い」
「やめてくれ……」
「………………気が変わりました。私がきみを抱きます」
「え」

 目の前がぐるりと動く。寝具に押し倒されて、上からゆっくりとのしかかられていた。

「ま、待ってくれ、影、の」
「待ちくたびれました」
 腕が太いツルに優しく拘束される。胸を、自分がやろうとしたように撫ぜられる。感じるはずがないのに、くすぐられるような感触に思わず声が出た。
「あっ……は、話が違う……」
「口約束は破るためにあるんですよ」
 黒い影は、口を細く細く歪めて笑んだ。
「ふふ、やっと始められる。私に良い悲鳴をくださいね」







「~~~っ!」
 賢木さかきひびきはベッドから勢いよく起き上がった。それから、瞬きを数回して、先ほどまで寝ていたことに気づく。
「……夢……」
 一瞬安心してから、やはり現実に残る感覚に響は青ざめる。そっと布団を持ち上げて下半身を確認して、……がっくりとうなだれた。
「最悪……」
 窓には、つい先ほどまで降っていたらしい蜘蛛の糸が垂れたような細雨の跡がある。6月に入って、この澄谷すみがや町も梅雨の季節になっていた。



「おはよう、響くん。今日は朝からシャワーなんて浴びてどうしたんですか?」
「別にいいだろ何したって……おはよう」
 我が物顔で家に現れ、話しかけてきた居候? の化け物、美路道ミロドウカゲに一言入れて、響はトーストをトースターに放り込む。
「今日の予定は?」
「何もない日……あ、ゴミ出さないと」
 今日は休日。この地区は水曜と土曜がゴミ出しの日だ。
「ついでにゴミ出し場の掃除当番に声掛けてくる。焼けたらトースト取って食っていいから。ヨーグルトとジャムとスープはそっち。あと足りなきゃ好きに食え」
「きみを食べたいです」
「黙れ」
 口を縛ったゴミ袋で影の手を打って、響はキッチンを飛び出した。
(……いや、あいつととか無い。絶対無い)
 そっと空いている手で二の腕に触る。薄くなってきた布越しに、鳥肌が立っているのがはっきり分かる。
 響は植物恐怖症ボタノフォビアだ。それ以上に、蝕橆ショクブツと名乗る影のような化け物のことを恐れている。
(なのに、なんであんな)
 ため息をついて、響は水色の傘を差した。アスファルトの隙間の雑草を避け、アパートのすぐ近くのゴミ捨て場に向かう。悩みに頭が囚われていても大して時間は掛からない。ゴミを放り込んで、さっさと帰ろうとする。



「N・T・M・Y」

「え?」

None・The・Most・Yieldingまったく譲歩の気配なし.では、誅伐ちゅうばつと参りましょうか」



 のーんざもすといぇるでぃんぐ。ちゅうばつ。どういった意味の英語か、どんな漢字がその読みに振られるのか、そもそも背後から聞こえる変声期前のような高い男の声が何なのか、響はとっさに分からなかった。
 だから、いや決してだからではないが、背後から首を絞めつつ脚を蹴って地面に尻を着かせ、同時に傘を払いのけて的確に胴を腕ごと縛るという早業に、何も対応できなかった。
 反応できるようになった瞬間にはもう動けない。

「騒ぐのはなしですよ。手荒な手段を取る用意もできています。あなたのすることは頷くか無反応の二択。聞こえていますか?」
 耳元で囁かれる言葉に、響は濡れていく頭を振って頷く。というより、それしかできないと理解する。ぎりぎり声は出せそうな力加減だが、いつでも絞め落とされそうな状況で細い声でわめいても無駄だろう。
「あなたは賢木響ですね?」
 頷く。
「この状況に心当たりは?」
 ……心当たりは、ある。

『現在の貴様は、傍目には強力な呪いを振り撒く害悪。化け物の手先にも見える。危険分子たる貴様をころ……排除せねばならない、と考える者がいても不思議ではない』

 小折こおり春樹はるき、あの「御降おおり綾取呪師あやどりじゅし」とか名乗る先輩の言葉によれば、そういえば、響は命を狙われかねない状況だったのだった。そんな状況で、考え事なんかしながら不用心に歩いていたターゲットはさぞや間抜けに見えただろう。
 しかし原因が想像できたところで、今できるのは頷くことだけだ。
「話が早いのは結構。わたくしのことも分かりますね?」
 それは分からない。首を振ろうとしかけて、(そういえばNOは「無反応」か)と止める。
「……分からない? 御降からわたくしの話は聞いていないんですか?」
「……」
 無反応で待つのも辛い。
「……はあ、なるほど。どうしてこの世は思い通りにいかないことばかりなんでしょう」
 男は地面に仰向けになるよう響を引き倒す。体格は小柄なようだが力が強い。そして、回り込むと響を正面から見下ろした。

「では無駄ですが教えて差し上げます。わたくしは『馬喰ばくろニム』。探偵事務所『ビーセトルド』所属の怪異探偵です」

 驚くことに、細身の美少年だった。洒落しゃれたスーツのようなものを着ているがせいぜい中学生だろう。あれほどの力を出せるとは到底思えない体格だ。プラチナブロンドの真っ直ぐなミディアムボブで、長い前髪の分け目から片方だけ、挑発的な深い青色の目がのぞいている。
「……外国人?」
「喋る許可は出していませんが?」
 馬喰と名乗る少年は急に表情を険しくした。響を捕らえた縄の端を掴み、上半身を持ち上げる。
(あ、これ、顔殴る体勢……)
 響は反射的に目を閉じ、はしない。こういう時とっさに目をつぶってしまう方が怖いと思っている。
 とはいえ、この至近距離で避けられるはずもない。ホームの黄線ギリギリから走ってくる新幹線のように、素早い拳が確かに顔へと繰り出されるのを、ただ見るしかない。例えを続けるなら、列車が来た時ホームに吹く風そのもののように、突風が正面から吹きつけてーー突風?

(あれ、この風、いつかと同じ感覚)
 校舎の屋上、そういえばあの時も殴られそうになっていてーー気づいたら今のように、周囲の人が吹き飛ばされていた。
 時間が止まったかのような一瞬が過ぎて、舞い上がっていた落ち葉が一斉に落ちる。雨音が再び聞こえ始める。

「なっ……なぜ、わたくしが……」
 小折や取り巻きと違って馬喰は、少し後ずさりよろめいた程度だった。すぐに体勢を整え、響に近づくが、見るからに動揺している。
「これほどの自動反撃オートカウンターが……」
 何事か呟きながら、縄を掴んで響を立たせる。
「……あなたのせいで余計な手間が増え、予定時間も少し過ぎてしまいました。移動します。くれぐれも、余計な行動を取らぬようーー」

「そこまで」

 聞き覚えのある声とともに、胴の縄があらぬ方向に強く引かれた。胴を抱えて担ぎ上げられる。馬喰ではない、とすぐに分かった。なぜ分かったかといえば、抱えられた瞬間、二つの柔らかなものが背中にぶつかったからなのだが……
 響を馬喰から奪い引き離した人物は、すぐさま響を高く放り投げる。宙に浮いた一瞬、目に入ったのは、見覚えのあるマッシュヘアだった。
(あれ、確か末留那まどなって呼ばれてた……)
 と考えている間にも体は落下する。縛られている響はろくに受け身も取れず、地面に叩きつけられ……
「掴まれ!」
 ……ようとしたところに真っ赤なオープンカーが通りかかり、中から伸びた手が響を受け止めた。
「ぐぁっ」
「痛いのは私だ、賢木響! 落ち方は選べ……!」
「この状態で掴まったり上品な着地できるわけないだろ! ……小折センパイ」
 響を受け止めたのは、小折春樹だった。
 座席に乗客が増えたのを確認するや否や畳んでいた屋根を広げた車は、急加速する。あっという間に近所を抜けて知らない道を爆走し始めた。小折の隣席に下ろされた響は、ひとまず息をつく。

「……あいつは」
「もう追ってきていないな。流石の魔憑きでも、スポーツカーを追う機動力はないだろう」
「魔付き」
「後で奴……馬喰については説明する」
「……そうだ。置いてきた、確か末留那って取り巻きは」
「心配要らん。馬喰もプロだ、邪魔された程度で御降の直属を害する報復をする馬鹿ではない。馬鹿だったとして末留那だ、問題なく離脱するだろう」
「……今言うのもなんだけど、末留那って女だったんだな」
「気づいていなかったのか? 学校では男装させている」
「なんでだよ」
「桃音が居ながら女を侍らせるわけにはいくまい。……ところで貴様、アレは?」
 小折の声のトーンが変わる。アレとは美路道影の事だろう。
「家に置いてきた」
「そうか。貴様、絶望的にジョークのセンスが無いな」
「お互い様ですね」
「そんな貴様を仕方なく我が邸に招待してやろう。狩留羅かるら、伍番邸は空いていたな?」
「御意」
 運転席のツイストスパイラル髪が軽く頷く。保健室の一件ではかなり苦しそうにしていたが、絶対に事故れない状況で爆走運転できるくらいには復調したらしい。
「……そっか、影ってそんなヤバいのか」
「どうした今更。襲われてやっと気づいたか?」
「いや、その、狩留羅だっけ。屋上で弁当食べてた時には居なかっただろ。あの、ピオニィの話した時。あの時はまだ休んでたんなら、オカルトの専門家が治療してるにしちゃ長いんじゃね? って思った」
「貴様……妙な所には気がつくのだな」
 小折はなぜか微妙な顔をしていた。
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