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§02 葉噛みする葛藤ネイビー
どうか無情にアシミレイト
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「……ほらこれでいいんだろ!」
五日ぶりの寝室の床を掃除して片付けていたシーツ、毛布などを出すと、思ったよりも簡単にセットは終わった。
「ハウスキーパー並みの手際良さですね」
言われても何も嬉しくはない。
「ところで、私は、寝室でなければならないと言った覚えはないのですが」
「寝室がマシだっつっただろ。不満ならベッドメイキングまで全部終わってから言うんじゃねえ」
「不満なんてとんでもない。シングルとはいえグレードアップしたベッドにこの防音性、とても良質です。ただ、人間の生殖行為の為の部屋に連れ込むなんて大胆……なんですね?」
「あああ近づいてきて耳元で囁くんじゃねえ他意はねーよ離れろ! 枯葉剤ぶっ掛けるぞ。あと、ここは、睡眠の為の部屋だ!」
「ふふふふふ」
除草剤なんて持っていない代わりに響は殺虫スプレーを構えて威嚇する。影は楽しそうに笑って、寝室の電気をベッド前のスタンドライトだけに切り替えると、ベッドの端に腰掛けた。
「ほら、響くん」
「何だよ」
「来てください。隣」
「マジで……ってかなんで電気消したんだよ……」
「あまり童貞感丸出しの男は嫌われますよ?」
「なあ、そういう場面じゃないよな? 今は」
暗くなった部屋の中、顔の半分を暗くしたこのバケモノの微笑みは、響にはただただ恐ろしかった。ムードもエロも何もありはしない。ただ、
(捕食される)
諦めに近い恐怖しか、そこにはなかった。
「……一応言っておくけどな」
「何です?」
響はベッドに雑に座る。
「必要以上に触ったり余計な事するなよ」
「……なぜです? 人間社会では睦み事といえばスキンシップと相場が」
「睦まないからだよ!」
「……馴染ませた方が、私は楽なのですが」
「馴染ませるって何だよ、おい。そういうの要らないから。つかこの鳥肌立った腕見えないか?」
「見事な鳥肌ですね。二日ほど経っても慣れないものですか?」
「あんたが気色悪く近づいてくるからだろ!」
じりじりと離れるたびに近づかれて、響は壁の方に寄っていった。
「きみにとっても辛くなくなるんですよ?」
「だっから! 耳元で囁くんじゃねえ!」
「……きみが自主的に受け入れてくれるのが一番良かったのですが。強硬手段は好かないのですよ? 私も」
「ちょ、おい……っ」
影はふいに響の首に右手を回し、動きを止めて、左手の指を響の口内に滑り込ませた。
「んんっ……!」
「きみに私を、馴染ませてください。味を感じて。体液を、体に入れて」
指が、犬歯に勝手に食い込んだ。味のない液体が、喉へと流れていく。押し戻そうにも舌は押さえられ、気道もうまく塞がれていて噎せることもできない。噛み付いて抵抗する事も出来ない。殴っても蹴っても影の体はびくともしない。そのうちに、気持ち悪い液体が、喉をだらだらと、胃へと、流れていった。
「ん、んんんっ」
「……待ってください、きみ」
急に指が、口内を撫ぜ回った。柔らかい口腔を滑る指はくすぐったいが、優しいものではない。縦横無尽に素早く動かされれば妙な感覚を覚える暇もないし、すぐに影は指をぴたりと止めると、呻いた。
「何故ですか……?!」
「ふぁ(は)?」
「大きめの口内炎が出来てるじゃありませんか、きみ。どうして口内炎がある事を言わなかったんです? タバスコを勧めた時に『口内炎だから刺激物は止めろ』くらい言っても良かったでしょう?!」
「ほうあいえんうあいうぅうあお(口内炎くらい普通だろ)」
「口内炎というのは菌に口内を食い破られ手加減もなく蹂躙されたようなものです! なぜソレは許せて私は許せないんですか?!」
「ひやはにひっへんはよ(いや何言ってんだよ)」
影は指を引き抜くとブツブツと呟き出す。
「うぇっ……」
「私の誘いにはあれほど冷淡なきみが、この寄生するしか能のない、矮小なる、菌ごときに寛容だと? これは由々しい事態です……それともきみ、まさか嫌がるフリをして無理矢理されるのが実は好み……」
「性癖でっち上げんな。口内炎は抗えないだろ」
「? きみは私に対しても受け身でしょう?」
受け身。それは確かだ。化け物に抗える強さは響にはない。それでも、だ。
「……それはあんたが話のできる化け物だからだよ」
「はい?」
「口内炎は変な事で爆笑して『サービス』とか言わない」
「……ふ」
影は一瞬、口元に笑みを浮かべたようだった。しかしすぐに笑みは消えると、
「何だ。それなら、声帯も表情も……人間に合わせたコミュニケーションなど不要でしたね」
表情を捨てて、響の頭を掴んだ。
「『話のできない化け物』なら、素直に受け入れるのですか、きみは。例えばこのような?」
耳元に衝撃波が吹いた。実際のところはどうだったのか分からないが、少なくとも響にはそう感じられた。
顔を近づけられているのに、影の顔が分からない。人間の形をした、木の幹……あるいは、蔦の絡まったもの……紅い花……ただの暗黒……次々と、見えるものが変わっていく。
「おい……」
答える声はない。頭を掴む影の手から、何かどろりとしたものが響の額を伝って落ちてきた。拭いたいのに拭えない。また、響は口以外、体を動かせなくなっていた。
「おい、って」
影の輪郭が崩れていく。額を伝った何かが、眉に浸って、上瞼を流れていく。
「おい、止めろ」
瞬きもできない。まつ毛を簡単に突破して、何か……黒いドロドロとした液体が、響の目に、入った。
「あ、あ、あああ、ああ、あ、」
染みるような感覚はない。代わりに、異物が微かな痛みを伴いながら響の涙に、眼球に、網膜に、神経に入り込んでいく。ふさがれて真っ暗になったはずの視界には、光が見えない代わりに、影のぐにゃぐにゃと歪む輪郭や、何か魑魅魍魎としか思えないモノ達が、白く縁取るようにして見えていた。グニャリ、グニャリ、と組織を、骨を伝った音が嫌らしく聴覚を支配する。恐怖というより異物が体に同化してくる事への憎悪に、身震いすることもできない無力感に、響はただ「あ、ああ」と声にならない音を漏らすしかない。その程度しか音を発する事ができない。
目から溢れた粘液が、つつっ、と這って、開きっぱなしの口へ、流れ込む。唾液を流し込まれるような不快感が、鳥肌を立てた。苦い、いや無味無臭だ。不気味にもフルーティな香り。甘くて辛く、痺れて何も分からない、かと思えば強い塩辛さと謎の快感が、口内を巡る。微かに動く舌で必死に押し出そうとすれば、粘度を増した液体が、グチャ、と誰かの舌のように絡みついた。
「……っ! ……、……っっ!」
動けなければ、もがけない。経験もないディープキスよりも、なお深く、なお煽情的に、息を全て奪って、舌に絡みつく感触は思考を奪おうとする。下半身の生理的な反応に、舌打ちする事もできない。
視界がぶれる。背中からベッドに倒れたらしい。頭をグニャグニャと這う粘液は骨を破って脳を侵し始め、喉を流れた粘液は腹の肉に食い込み、気管に滑り込んだものは肺から血液を伝っていく。心臓が、跳ねた。
「……、…………」
酸欠で朦朧とした、何かが絶えず這い回り、全身から耐え難い感覚を受け続ける脳で、響は、ただ、考える。
(ふざけんなよ!)
自分の体がどうなっているのか、これだけの状況で何故自分が思考していられるのか……全く、分からない。理性があるということは、快感、苦痛、嫌悪、不快、全ての情報と感情を受け続けるという事だ。気を失えたらどれほど楽だろう、と、響は考える。まだ考えられる、まだ抗える、そのうちは狂うこともできない。
(ふざけんな……影……美路道、影……)
響はただ考える。
(何が、怖くないサラダだ。何が手順だ。何がサービス、だ……。ああ……息、出来ねえ、だろ……格好つけた、フリしやがって、理性的な、フリ、しやがって、結局ただの、植物と同じ、あの薔薇と同じ、ただのモノ、じゃねえか……)
ーーそれは頂けない暴言ですね。
(いや、同じだよ……俺にとっては、どいつも……俺、昔、植物が動いたら、腹、食い破られ、て、死ぬと、思ってたん、だよな……ま、当たらずとも、遠からず、か……)
ーー食い破るなんてしてませんよ。
(だから……俺にとっちゃ、同じ、事だって言ってんだろ……あ、死ぬ……)
ーー死にませんし、死なせませんよ。人間でいう「彼岸」を見るかもしれませんが、スケープゴートになってもらう為には必要なーー
(うるせえ、お前が、何を強要しようと、俺は最後まで、このうざったい思考が残ってる限りは……」
ーー何故、ですか。
(何がだよ……?」
ーー何故、君は私を受け入れてくれないんです? 仕方ない、などと言うくせに、きみは本心で私を拒絶している。何故です?
(……」
響は考える。今自分が会話している相手は影なのか、それとも自分の最期の妄想か。何故、ここまで苦しまなければならないのか。もしかすれば、影に全てを委ねれば楽になるのか……そこまで考えて、
(誰が、受け入れるかよ。バーカ。エセ紳士。サディスト。間抜け。」
とりあえず思いついた言葉で幼稚に影を煽った。
「お前が、何したいのか、結局、俺には分からない。というより、分かってたまるか馬鹿。俺が俺でいたくて、悪いかよ。苦しみたくなくて何が悪い? 勝手に悲鳴聞かせろとか言って脅してくる奴を、ただ嫌いになっちゃ悪いか? 嫌いな奴の言う事に、どんなに苦しくても抗っちゃおかしいか? ただムカつくんだよ、こっちは生きててそれなりに好き嫌いも譲れないものもあるんだ。俺は、俺をやめる気はない。それくらいなら、何とかして死んでやる」
ーーっ!!
「ああ、俺の信義なんてどうでもいいんだよな、あんたは。ほら勝手に侵してみろよ。最初からそうする気だったんだろ? いや、もうやってるんだよな。多分、俺そろそろ死にそうだし、もうすぐ終わるんだろ? あー最低な人生だったよ。特にお前のせいで。お前の……せいだろっ!!」
自分が思考しているのか、喋っているのか、響には分からない。分からないままに、思う事をそのまま口にしていた。
「……っああああああ! 誰が! こんな事望むかよ! 化け物がそもそも話しかけてくんじゃねえ! どうせ! 俺の考えなんてどうでもいいくせに! 俺の心を殺そうとするくせに! 弄ぶんじゃねえ! どうせ、どうせどうせどうせっ! ふざけんな! あああああああああっ! バケモノに、俺の、俺の心の、何が分かるんだよ! 俺は死にたくない、悪いかよ! 死にたくない、死にたくない、殺すな、心が、お前が、お前は、俺を殺すなっ!!!」
……意識が、薄れる。
響は懸命に抗った。懸命に、と言っても、寝落ちる前の抗いのような、思っていたよりも安らかな感覚。
あれだけ脳を侵していたあらゆる感覚が、いつの間にか、ただの疲労感に変わっている。
脳がパンクしたからだろうか、しかし、何かが……
「おかしい」
響はガバッと立ち上がった。途端に足が痺れて震え、痛みも感じずにベッドの上に崩れ落ちる。長時間正座していた後のような感覚だった。手を突いて耐えようとすれば、腕も震えて柔らかい布団に沈み込む。
「……っ」
鼻も口も塞がって息ができない。響は芋虫のように身をよじって仰向けに転がった。その足先が何かに触れる。
響は感覚のない足で無理やり、その何か……影の足を、蹴飛ばした。
「おっと、乱暴じゃありませんか? 響くん。全然ロマンスがありません」
「うるせえサイコ……」
息が、できる。響は深く呼吸しようとして、軽いめまいを覚える。
「う、あっ、はっはっはっ、は、あっ、ふっはっ、はっはっは、あああ」
過呼吸。口を手で押さえ込もうとしていると、手を払われ、口に袋を押し当てられた。
「離さないで。少しずつ呼吸を抑えていきましょう。……吐いて、吸って、吐いて。そう、上手です」
「はっ、はなっ、せっ」
「ああ、落ち着いて。喋ると苦しくなりますよ。そう、吐いて、吸って……ゆっくり、体に酸素を馴染ませて」
影が、驚くほどに優しい声で、表情で、響に語りかけては背中をさすっていた。
不思議なことに、その時だけは、響は、触橆に触れられる恐怖を感じなかった。
「落ち着きました?」
「……あ、あ」
汗が身体中を伝う。「死ななかった」、その事実だけが、ぼんやりと響の頭を巡っていた。
「……終わった、のかよ、儀式、とかいうの」
「終わりましたよ、無事に」
「俺、もう、スケープゴートとかいう奴なわけ?」
「ええ」
「……そうかよ」
響は、立ち上がるとクローゼットを開けた。
「おや、何を?」
「風呂。……とりあえず何もかも洗い流したい」
「なるほど、これがいわゆる事後のシャ」
「ああ゛? な、に、か、言ったか?」
「いいえ?」
響はそれ以上相手せずに、さっさとバスルームに入る。シャワーの湯を熱めに調節、全開にして、まずはただ全身に浴びる。
膝が、がくんと折れた。糸の切れたマリオネットのように響は床にうずくまる。頭から湯を被りながら瞬きを繰り返し、口に手を突っ込んで、吐いた。シャワーから口に入り込む湯をそのまま飲み込んで、また吐く。また。何度も。
「っ、はあっ…………怖ぇよ……」
体を洗う気力が戻ってくるまで、響はそのままシャワーに打たれていた。
五日ぶりの寝室の床を掃除して片付けていたシーツ、毛布などを出すと、思ったよりも簡単にセットは終わった。
「ハウスキーパー並みの手際良さですね」
言われても何も嬉しくはない。
「ところで、私は、寝室でなければならないと言った覚えはないのですが」
「寝室がマシだっつっただろ。不満ならベッドメイキングまで全部終わってから言うんじゃねえ」
「不満なんてとんでもない。シングルとはいえグレードアップしたベッドにこの防音性、とても良質です。ただ、人間の生殖行為の為の部屋に連れ込むなんて大胆……なんですね?」
「あああ近づいてきて耳元で囁くんじゃねえ他意はねーよ離れろ! 枯葉剤ぶっ掛けるぞ。あと、ここは、睡眠の為の部屋だ!」
「ふふふふふ」
除草剤なんて持っていない代わりに響は殺虫スプレーを構えて威嚇する。影は楽しそうに笑って、寝室の電気をベッド前のスタンドライトだけに切り替えると、ベッドの端に腰掛けた。
「ほら、響くん」
「何だよ」
「来てください。隣」
「マジで……ってかなんで電気消したんだよ……」
「あまり童貞感丸出しの男は嫌われますよ?」
「なあ、そういう場面じゃないよな? 今は」
暗くなった部屋の中、顔の半分を暗くしたこのバケモノの微笑みは、響にはただただ恐ろしかった。ムードもエロも何もありはしない。ただ、
(捕食される)
諦めに近い恐怖しか、そこにはなかった。
「……一応言っておくけどな」
「何です?」
響はベッドに雑に座る。
「必要以上に触ったり余計な事するなよ」
「……なぜです? 人間社会では睦み事といえばスキンシップと相場が」
「睦まないからだよ!」
「……馴染ませた方が、私は楽なのですが」
「馴染ませるって何だよ、おい。そういうの要らないから。つかこの鳥肌立った腕見えないか?」
「見事な鳥肌ですね。二日ほど経っても慣れないものですか?」
「あんたが気色悪く近づいてくるからだろ!」
じりじりと離れるたびに近づかれて、響は壁の方に寄っていった。
「きみにとっても辛くなくなるんですよ?」
「だっから! 耳元で囁くんじゃねえ!」
「……きみが自主的に受け入れてくれるのが一番良かったのですが。強硬手段は好かないのですよ? 私も」
「ちょ、おい……っ」
影はふいに響の首に右手を回し、動きを止めて、左手の指を響の口内に滑り込ませた。
「んんっ……!」
「きみに私を、馴染ませてください。味を感じて。体液を、体に入れて」
指が、犬歯に勝手に食い込んだ。味のない液体が、喉へと流れていく。押し戻そうにも舌は押さえられ、気道もうまく塞がれていて噎せることもできない。噛み付いて抵抗する事も出来ない。殴っても蹴っても影の体はびくともしない。そのうちに、気持ち悪い液体が、喉をだらだらと、胃へと、流れていった。
「ん、んんんっ」
「……待ってください、きみ」
急に指が、口内を撫ぜ回った。柔らかい口腔を滑る指はくすぐったいが、優しいものではない。縦横無尽に素早く動かされれば妙な感覚を覚える暇もないし、すぐに影は指をぴたりと止めると、呻いた。
「何故ですか……?!」
「ふぁ(は)?」
「大きめの口内炎が出来てるじゃありませんか、きみ。どうして口内炎がある事を言わなかったんです? タバスコを勧めた時に『口内炎だから刺激物は止めろ』くらい言っても良かったでしょう?!」
「ほうあいえんうあいうぅうあお(口内炎くらい普通だろ)」
「口内炎というのは菌に口内を食い破られ手加減もなく蹂躙されたようなものです! なぜソレは許せて私は許せないんですか?!」
「ひやはにひっへんはよ(いや何言ってんだよ)」
影は指を引き抜くとブツブツと呟き出す。
「うぇっ……」
「私の誘いにはあれほど冷淡なきみが、この寄生するしか能のない、矮小なる、菌ごときに寛容だと? これは由々しい事態です……それともきみ、まさか嫌がるフリをして無理矢理されるのが実は好み……」
「性癖でっち上げんな。口内炎は抗えないだろ」
「? きみは私に対しても受け身でしょう?」
受け身。それは確かだ。化け物に抗える強さは響にはない。それでも、だ。
「……それはあんたが話のできる化け物だからだよ」
「はい?」
「口内炎は変な事で爆笑して『サービス』とか言わない」
「……ふ」
影は一瞬、口元に笑みを浮かべたようだった。しかしすぐに笑みは消えると、
「何だ。それなら、声帯も表情も……人間に合わせたコミュニケーションなど不要でしたね」
表情を捨てて、響の頭を掴んだ。
「『話のできない化け物』なら、素直に受け入れるのですか、きみは。例えばこのような?」
耳元に衝撃波が吹いた。実際のところはどうだったのか分からないが、少なくとも響にはそう感じられた。
顔を近づけられているのに、影の顔が分からない。人間の形をした、木の幹……あるいは、蔦の絡まったもの……紅い花……ただの暗黒……次々と、見えるものが変わっていく。
「おい……」
答える声はない。頭を掴む影の手から、何かどろりとしたものが響の額を伝って落ちてきた。拭いたいのに拭えない。また、響は口以外、体を動かせなくなっていた。
「おい、って」
影の輪郭が崩れていく。額を伝った何かが、眉に浸って、上瞼を流れていく。
「おい、止めろ」
瞬きもできない。まつ毛を簡単に突破して、何か……黒いドロドロとした液体が、響の目に、入った。
「あ、あ、あああ、ああ、あ、」
染みるような感覚はない。代わりに、異物が微かな痛みを伴いながら響の涙に、眼球に、網膜に、神経に入り込んでいく。ふさがれて真っ暗になったはずの視界には、光が見えない代わりに、影のぐにゃぐにゃと歪む輪郭や、何か魑魅魍魎としか思えないモノ達が、白く縁取るようにして見えていた。グニャリ、グニャリ、と組織を、骨を伝った音が嫌らしく聴覚を支配する。恐怖というより異物が体に同化してくる事への憎悪に、身震いすることもできない無力感に、響はただ「あ、ああ」と声にならない音を漏らすしかない。その程度しか音を発する事ができない。
目から溢れた粘液が、つつっ、と這って、開きっぱなしの口へ、流れ込む。唾液を流し込まれるような不快感が、鳥肌を立てた。苦い、いや無味無臭だ。不気味にもフルーティな香り。甘くて辛く、痺れて何も分からない、かと思えば強い塩辛さと謎の快感が、口内を巡る。微かに動く舌で必死に押し出そうとすれば、粘度を増した液体が、グチャ、と誰かの舌のように絡みついた。
「……っ! ……、……っっ!」
動けなければ、もがけない。経験もないディープキスよりも、なお深く、なお煽情的に、息を全て奪って、舌に絡みつく感触は思考を奪おうとする。下半身の生理的な反応に、舌打ちする事もできない。
視界がぶれる。背中からベッドに倒れたらしい。頭をグニャグニャと這う粘液は骨を破って脳を侵し始め、喉を流れた粘液は腹の肉に食い込み、気管に滑り込んだものは肺から血液を伝っていく。心臓が、跳ねた。
「……、…………」
酸欠で朦朧とした、何かが絶えず這い回り、全身から耐え難い感覚を受け続ける脳で、響は、ただ、考える。
(ふざけんなよ!)
自分の体がどうなっているのか、これだけの状況で何故自分が思考していられるのか……全く、分からない。理性があるということは、快感、苦痛、嫌悪、不快、全ての情報と感情を受け続けるという事だ。気を失えたらどれほど楽だろう、と、響は考える。まだ考えられる、まだ抗える、そのうちは狂うこともできない。
(ふざけんな……影……美路道、影……)
響はただ考える。
(何が、怖くないサラダだ。何が手順だ。何がサービス、だ……。ああ……息、出来ねえ、だろ……格好つけた、フリしやがって、理性的な、フリ、しやがって、結局ただの、植物と同じ、あの薔薇と同じ、ただのモノ、じゃねえか……)
ーーそれは頂けない暴言ですね。
(いや、同じだよ……俺にとっては、どいつも……俺、昔、植物が動いたら、腹、食い破られ、て、死ぬと、思ってたん、だよな……ま、当たらずとも、遠からず、か……)
ーー食い破るなんてしてませんよ。
(だから……俺にとっちゃ、同じ、事だって言ってんだろ……あ、死ぬ……)
ーー死にませんし、死なせませんよ。人間でいう「彼岸」を見るかもしれませんが、スケープゴートになってもらう為には必要なーー
(うるせえ、お前が、何を強要しようと、俺は最後まで、このうざったい思考が残ってる限りは……」
ーー何故、ですか。
(何がだよ……?」
ーー何故、君は私を受け入れてくれないんです? 仕方ない、などと言うくせに、きみは本心で私を拒絶している。何故です?
(……」
響は考える。今自分が会話している相手は影なのか、それとも自分の最期の妄想か。何故、ここまで苦しまなければならないのか。もしかすれば、影に全てを委ねれば楽になるのか……そこまで考えて、
(誰が、受け入れるかよ。バーカ。エセ紳士。サディスト。間抜け。」
とりあえず思いついた言葉で幼稚に影を煽った。
「お前が、何したいのか、結局、俺には分からない。というより、分かってたまるか馬鹿。俺が俺でいたくて、悪いかよ。苦しみたくなくて何が悪い? 勝手に悲鳴聞かせろとか言って脅してくる奴を、ただ嫌いになっちゃ悪いか? 嫌いな奴の言う事に、どんなに苦しくても抗っちゃおかしいか? ただムカつくんだよ、こっちは生きててそれなりに好き嫌いも譲れないものもあるんだ。俺は、俺をやめる気はない。それくらいなら、何とかして死んでやる」
ーーっ!!
「ああ、俺の信義なんてどうでもいいんだよな、あんたは。ほら勝手に侵してみろよ。最初からそうする気だったんだろ? いや、もうやってるんだよな。多分、俺そろそろ死にそうだし、もうすぐ終わるんだろ? あー最低な人生だったよ。特にお前のせいで。お前の……せいだろっ!!」
自分が思考しているのか、喋っているのか、響には分からない。分からないままに、思う事をそのまま口にしていた。
「……っああああああ! 誰が! こんな事望むかよ! 化け物がそもそも話しかけてくんじゃねえ! どうせ! 俺の考えなんてどうでもいいくせに! 俺の心を殺そうとするくせに! 弄ぶんじゃねえ! どうせ、どうせどうせどうせっ! ふざけんな! あああああああああっ! バケモノに、俺の、俺の心の、何が分かるんだよ! 俺は死にたくない、悪いかよ! 死にたくない、死にたくない、殺すな、心が、お前が、お前は、俺を殺すなっ!!!」
……意識が、薄れる。
響は懸命に抗った。懸命に、と言っても、寝落ちる前の抗いのような、思っていたよりも安らかな感覚。
あれだけ脳を侵していたあらゆる感覚が、いつの間にか、ただの疲労感に変わっている。
脳がパンクしたからだろうか、しかし、何かが……
「おかしい」
響はガバッと立ち上がった。途端に足が痺れて震え、痛みも感じずにベッドの上に崩れ落ちる。長時間正座していた後のような感覚だった。手を突いて耐えようとすれば、腕も震えて柔らかい布団に沈み込む。
「……っ」
鼻も口も塞がって息ができない。響は芋虫のように身をよじって仰向けに転がった。その足先が何かに触れる。
響は感覚のない足で無理やり、その何か……影の足を、蹴飛ばした。
「おっと、乱暴じゃありませんか? 響くん。全然ロマンスがありません」
「うるせえサイコ……」
息が、できる。響は深く呼吸しようとして、軽いめまいを覚える。
「う、あっ、はっはっはっ、は、あっ、ふっはっ、はっはっは、あああ」
過呼吸。口を手で押さえ込もうとしていると、手を払われ、口に袋を押し当てられた。
「離さないで。少しずつ呼吸を抑えていきましょう。……吐いて、吸って、吐いて。そう、上手です」
「はっ、はなっ、せっ」
「ああ、落ち着いて。喋ると苦しくなりますよ。そう、吐いて、吸って……ゆっくり、体に酸素を馴染ませて」
影が、驚くほどに優しい声で、表情で、響に語りかけては背中をさすっていた。
不思議なことに、その時だけは、響は、触橆に触れられる恐怖を感じなかった。
「落ち着きました?」
「……あ、あ」
汗が身体中を伝う。「死ななかった」、その事実だけが、ぼんやりと響の頭を巡っていた。
「……終わった、のかよ、儀式、とかいうの」
「終わりましたよ、無事に」
「俺、もう、スケープゴートとかいう奴なわけ?」
「ええ」
「……そうかよ」
響は、立ち上がるとクローゼットを開けた。
「おや、何を?」
「風呂。……とりあえず何もかも洗い流したい」
「なるほど、これがいわゆる事後のシャ」
「ああ゛? な、に、か、言ったか?」
「いいえ?」
響はそれ以上相手せずに、さっさとバスルームに入る。シャワーの湯を熱めに調節、全開にして、まずはただ全身に浴びる。
膝が、がくんと折れた。糸の切れたマリオネットのように響は床にうずくまる。頭から湯を被りながら瞬きを繰り返し、口に手を突っ込んで、吐いた。シャワーから口に入り込む湯をそのまま飲み込んで、また吐く。また。何度も。
「っ、はあっ…………怖ぇよ……」
体を洗う気力が戻ってくるまで、響はそのままシャワーに打たれていた。
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