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五落
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冥王に「花嫁を嫁入り」させた後、1週間の間は、水も通さず冥穴を閉じる。
と聞いて正直なところ、八尋は無理だろうと思った。直接見たことはなかったが、直径何十メートルもあると聞く大穴を塞げる訳がない。それも頻繁に強い竜巻の吹き上げる風穴タイプの縦穴だ。重機が側に何台も置かれているのを見ても、まさか、とまでしか思わなかった。
冥穴の口がある山頂は、全体を土砂やコンクリートで丁寧に巧妙に埋め立てられ、一見穴など見えなかった。代わりにその中央には、奇妙な形の巨大な社殿が建っていた。頂上がすりばち状にくぼんでいたせいで、八尋が山の中腹までこっそり登ったときにも存在に気づかなかったらしい。これが、「蓋」だった。
褒めるのは癪だが大層な出来だった。
社殿といっても建物なのは形式上だ。その本質は、斜め上へと様々な場所から様々な角度で伸び出す通風口を束ねること。時計回りに吹き上がる竜巻の風をうまく分散し、逃す造りになっている。社殿に収まる冥穴の開きは直径20メートル。普段は屋根を取り払って自由に風が吹き抜けるようにしておくと、まず社殿が壊れることはない。
そして、「花嫁」を送り出してから1週間は、社殿の「戸締まり」をする。重機で屋根を掛け、鎖で接続し、代わりに斜めに配された通気口を開く。通気口は樋を通して雨水なとが穴に入らないよう避け、そして社殿の入り口に鍵をかける。その事をまるで祝詞のように「花嫁」に語り聞かせるための小部屋すら備えていた。そういうしきたりらしかった。そう。しきたりだと言いながら、八尋の身体を。
(忘れろ。思い出すだけ苛つくだけだ)
余計なことまで思い出したが、あの社殿を閉じている間は雨が冥穴内に降ってくる訳がない。時間経過は正確には分からないが、食事と睡眠の回数を考えると絶対に1週間は経っていない。しかし最初落下した時に怪我した指が治るほどの時間は経っている。3日か4日だろうか。
久々の使用で社殿が壊れたのなら、木片か何かが一緒に落ちてくるはずだ。それが一切無いとなると、誰かが雨降る中社殿のどこかを開いたことになる。雨量を考えると、おそらく屋根を。
(警察ではないだろうな)
村の外がどれだけ平和で文化的だろうと知った事ではない。それに、まともな頭で考えれば深い穴の底に突き落とされた人間は死ぬ。「救助」は来ない。来ても辿り着けない。
長くはない髪を絞る。肉で水分を拭く。よく水を吸うらしい肉は襞も壁の肉も竜巻の運んだ雨で濡らしていたが、まだ掘れば乾いた肉の層があった。身体の水分を拭き取れるだけ拭き取り、後は諦める。脱いだ服を噛み、雨水を吸い上げる。飲む。
「!」
信じられないほど美味しかった。
その途端に押し寄せてくる喉の渇きを抑え込む。怖いほどの衝動。次いつ水が飲めるか分からないのに、喉を流れる感触が頭から離れなくなりそうだ。
これまで喉の渇きはあまり感じなかったが、足りているわけもなかったらしい。激しい高低差や緊張で身体の状態を十分に把握できなくなっている自覚が、感覚がある。酸性雨かもしれないし、何に触れたとも分からない生水が更に清潔でない服に染み込んだ後だが、こんな場所では飲まない事もリスクだ。脱水で死ぬか、腹を下して死ぬか。
「……やかましい。邪魔な衝動も結論を出せない知識も、黙っていろよ」
目の前にもう1人自分がいるように八尋は言う。
「私はここで我を忘れる気もないし、分かりもしない事を考え続けて骨を埋める気もない」
濡れた足袋を脱いで裸足に草履を履き直す。固く水気を絞った紐で結ぶ。ふやけた足裏だけは乾かすように、ふくらはぎの下に服を塊で置いて足先を浮かす。足の皮がふやけて痛んだり感染するのを最も嫌った形だ。申し訳程度に掘り進んだ先の肉が泥のように八尋の尻を受け止めている。
(考えてもみなかったが、普段の肉は浸透圧が人体、いや角質と同じくらいなのか。足を肉で濡らして歩き続けても足から水分が奪われず足がふやけない)
少しずつ布を絞る。低体温症にならないよう上半身の運動を挟みつつ、下着から始めて徐々に水分を減らしていく。
最低限の布を身にまとい、やっと落ち着ける体勢が整ったとき、雨を含んだ竜巻が地下から噴き上がった。冥王の囁きだが、全てを濡らして努力を無駄にするには十分だった。
「……」
結局、深めに穴を掘り、奥の比較的乾いた肉の上に服を置いて水気を吸わせた。乾いた服と身体は雨を浴びないよう折りたたみ、周囲に肉を盛り上げて盾にして守る。これでも完全には防げないがマシだ。
肉に半ば埋もれると温かく、これだけの作業ごときで体力が尽きなかったのは好都合だった。幸運とは言わない。環境はともかく、八尋に体力と持久力があるのはこれまでの努力の当然の結果だ。
とはいえ、少しは休んだ。5分くらいは。
ぱぎゅるっ。
「ッ?!」
休息を遮ったのは妙な音だった。
あちこちから肉が弾けるような音が続いた。床の肉が揺れる。八尋が叩きつけられた時に大きく崩れた肉壁の奥から、筋肉の形をした赤黒い塊がずるりと顔を覗かせる。平坦に見えた肉があちこちで大きくうねって裂け、咄嗟に重心を預けた八尋の腕をぐにゃりと飲み込む。
「ぎッ」
挟まれる痛みは一瞬。力ずくで引き抜き、肉の床から布を取り上げて飛びのく。その足を置いた場所も歪み始め、また別の場所に飛び移る。
小刻みに置かれたベルトコンベアの上にいるような状態だ。足元が滑り絶えずバランスを崩される。苔むして濡れた岩の上をサンダルで歩くのと同じだ。うっかり隙間に足が引っかかってしまえば飲み込まれかける。濡れて更に軟らかくなった肉が上に被さっているせいで下の動きが分かりにくい。濡れて、生き生きとしている。
スニーカーでなら、雨の日の岩場も歩いたことがある。
体幹と力技でステップを踏みながら、ようやく足を挟まれずに済みそうな狭い場所を見つけて飛び移る。バランスを整えて両足を収める。ひどく揺れるが留まれそうだ。
(雨、というか濡れたことをトリガーに動き出したのか?)
落ち着いて見れば規則性の見える動きだ。冥銭や落ち葉、石が組織の奥に飲み込まれ、多くは軟らかい肉ごと穴の方へ押し出されて落ちていく。古い肉を押し流し、新しい肉を運んできて表面を均している。肉層の下へと飲み込まれ、肉の渦から再び吐き出される異物もあるが、雨降る間ずっと繰り返されていればいずれ除去されるだろうか。赤黒い筋肉が奥で動いているのだろう。この冥穴が喉だというなら、これは喉に引っかかった異物を流し込むために水を飲む蠕動の動きだろうか?
生物に例えるなど馬鹿らしい。こんなに風の吹く喉で冥王は常に咳きこんでいるとでもいうのか。深く息をついて、八尋はその場にしゃがみ込んだ。
と聞いて正直なところ、八尋は無理だろうと思った。直接見たことはなかったが、直径何十メートルもあると聞く大穴を塞げる訳がない。それも頻繁に強い竜巻の吹き上げる風穴タイプの縦穴だ。重機が側に何台も置かれているのを見ても、まさか、とまでしか思わなかった。
冥穴の口がある山頂は、全体を土砂やコンクリートで丁寧に巧妙に埋め立てられ、一見穴など見えなかった。代わりにその中央には、奇妙な形の巨大な社殿が建っていた。頂上がすりばち状にくぼんでいたせいで、八尋が山の中腹までこっそり登ったときにも存在に気づかなかったらしい。これが、「蓋」だった。
褒めるのは癪だが大層な出来だった。
社殿といっても建物なのは形式上だ。その本質は、斜め上へと様々な場所から様々な角度で伸び出す通風口を束ねること。時計回りに吹き上がる竜巻の風をうまく分散し、逃す造りになっている。社殿に収まる冥穴の開きは直径20メートル。普段は屋根を取り払って自由に風が吹き抜けるようにしておくと、まず社殿が壊れることはない。
そして、「花嫁」を送り出してから1週間は、社殿の「戸締まり」をする。重機で屋根を掛け、鎖で接続し、代わりに斜めに配された通気口を開く。通気口は樋を通して雨水なとが穴に入らないよう避け、そして社殿の入り口に鍵をかける。その事をまるで祝詞のように「花嫁」に語り聞かせるための小部屋すら備えていた。そういうしきたりらしかった。そう。しきたりだと言いながら、八尋の身体を。
(忘れろ。思い出すだけ苛つくだけだ)
余計なことまで思い出したが、あの社殿を閉じている間は雨が冥穴内に降ってくる訳がない。時間経過は正確には分からないが、食事と睡眠の回数を考えると絶対に1週間は経っていない。しかし最初落下した時に怪我した指が治るほどの時間は経っている。3日か4日だろうか。
久々の使用で社殿が壊れたのなら、木片か何かが一緒に落ちてくるはずだ。それが一切無いとなると、誰かが雨降る中社殿のどこかを開いたことになる。雨量を考えると、おそらく屋根を。
(警察ではないだろうな)
村の外がどれだけ平和で文化的だろうと知った事ではない。それに、まともな頭で考えれば深い穴の底に突き落とされた人間は死ぬ。「救助」は来ない。来ても辿り着けない。
長くはない髪を絞る。肉で水分を拭く。よく水を吸うらしい肉は襞も壁の肉も竜巻の運んだ雨で濡らしていたが、まだ掘れば乾いた肉の層があった。身体の水分を拭き取れるだけ拭き取り、後は諦める。脱いだ服を噛み、雨水を吸い上げる。飲む。
「!」
信じられないほど美味しかった。
その途端に押し寄せてくる喉の渇きを抑え込む。怖いほどの衝動。次いつ水が飲めるか分からないのに、喉を流れる感触が頭から離れなくなりそうだ。
これまで喉の渇きはあまり感じなかったが、足りているわけもなかったらしい。激しい高低差や緊張で身体の状態を十分に把握できなくなっている自覚が、感覚がある。酸性雨かもしれないし、何に触れたとも分からない生水が更に清潔でない服に染み込んだ後だが、こんな場所では飲まない事もリスクだ。脱水で死ぬか、腹を下して死ぬか。
「……やかましい。邪魔な衝動も結論を出せない知識も、黙っていろよ」
目の前にもう1人自分がいるように八尋は言う。
「私はここで我を忘れる気もないし、分かりもしない事を考え続けて骨を埋める気もない」
濡れた足袋を脱いで裸足に草履を履き直す。固く水気を絞った紐で結ぶ。ふやけた足裏だけは乾かすように、ふくらはぎの下に服を塊で置いて足先を浮かす。足の皮がふやけて痛んだり感染するのを最も嫌った形だ。申し訳程度に掘り進んだ先の肉が泥のように八尋の尻を受け止めている。
(考えてもみなかったが、普段の肉は浸透圧が人体、いや角質と同じくらいなのか。足を肉で濡らして歩き続けても足から水分が奪われず足がふやけない)
少しずつ布を絞る。低体温症にならないよう上半身の運動を挟みつつ、下着から始めて徐々に水分を減らしていく。
最低限の布を身にまとい、やっと落ち着ける体勢が整ったとき、雨を含んだ竜巻が地下から噴き上がった。冥王の囁きだが、全てを濡らして努力を無駄にするには十分だった。
「……」
結局、深めに穴を掘り、奥の比較的乾いた肉の上に服を置いて水気を吸わせた。乾いた服と身体は雨を浴びないよう折りたたみ、周囲に肉を盛り上げて盾にして守る。これでも完全には防げないがマシだ。
肉に半ば埋もれると温かく、これだけの作業ごときで体力が尽きなかったのは好都合だった。幸運とは言わない。環境はともかく、八尋に体力と持久力があるのはこれまでの努力の当然の結果だ。
とはいえ、少しは休んだ。5分くらいは。
ぱぎゅるっ。
「ッ?!」
休息を遮ったのは妙な音だった。
あちこちから肉が弾けるような音が続いた。床の肉が揺れる。八尋が叩きつけられた時に大きく崩れた肉壁の奥から、筋肉の形をした赤黒い塊がずるりと顔を覗かせる。平坦に見えた肉があちこちで大きくうねって裂け、咄嗟に重心を預けた八尋の腕をぐにゃりと飲み込む。
「ぎッ」
挟まれる痛みは一瞬。力ずくで引き抜き、肉の床から布を取り上げて飛びのく。その足を置いた場所も歪み始め、また別の場所に飛び移る。
小刻みに置かれたベルトコンベアの上にいるような状態だ。足元が滑り絶えずバランスを崩される。苔むして濡れた岩の上をサンダルで歩くのと同じだ。うっかり隙間に足が引っかかってしまえば飲み込まれかける。濡れて更に軟らかくなった肉が上に被さっているせいで下の動きが分かりにくい。濡れて、生き生きとしている。
スニーカーでなら、雨の日の岩場も歩いたことがある。
体幹と力技でステップを踏みながら、ようやく足を挟まれずに済みそうな狭い場所を見つけて飛び移る。バランスを整えて両足を収める。ひどく揺れるが留まれそうだ。
(雨、というか濡れたことをトリガーに動き出したのか?)
落ち着いて見れば規則性の見える動きだ。冥銭や落ち葉、石が組織の奥に飲み込まれ、多くは軟らかい肉ごと穴の方へ押し出されて落ちていく。古い肉を押し流し、新しい肉を運んできて表面を均している。肉層の下へと飲み込まれ、肉の渦から再び吐き出される異物もあるが、雨降る間ずっと繰り返されていればいずれ除去されるだろうか。赤黒い筋肉が奥で動いているのだろう。この冥穴が喉だというなら、これは喉に引っかかった異物を流し込むために水を飲む蠕動の動きだろうか?
生物に例えるなど馬鹿らしい。こんなに風の吹く喉で冥王は常に咳きこんでいるとでもいうのか。深く息をついて、八尋はその場にしゃがみ込んだ。
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