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一落
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指先が触れるまでどんな風に落ちているかも分からなかった。触れて初めてもう穴の上へは戻れないと分かった。
肉。生暖かく骨も筋も弾力もない、滑り気も臭みもなく軟らかい、肉のようなものに人差し指と中指の先が引っかかった。反射的に指先に力を込めると、ずぶりと沈み込む。
「ッ」
思っていたほどの激しい衝撃は指にかからない。ただ、ずるずると肉の壁を引っ掻き、裂きながら滑り落ちる間に、圧し曲げられていく。
飾り爪が2枚剥がれ落ちる。髪に差された和装の飾りが相変わらず耳元で五月蝿い音を立てる。意外と解けない安い白無垢。足には草履。滑稽な、形だけの花嫁衣装。
勢いは止まらない。指先が関節の逆に折れた痛みを感じる暇も、もう片方の腕で掴まる余裕もなく、肉の壁はすぐに途切れた。
「あアっ……!」
風がどこからか巻き起こる。渦巻いている。縦穴の奥深くまで反響するせいで、怪物の唸り声のような深い音が響く。
「く…………来るな……よぉ……ヒナ子……」
数分前とは違う、何の意味もない言葉を吐いて、風に揉まれ落ちていく。誰も底を知らない穴の底へ。冥王がささやく。早くおいで。
そして、叩き付けられる。
“ “ “ “ “ “ “ “
「……八尋お姉さまがほんとうのお姉さまなら良かった」
「勿論、私だってヒナ子が妹だったら嬉しいさ。でもどうして?」
「だって、こんなに冥穴の音を聞いていたら、今晩、寝られないかもしれない」
「ヒナ子。先生も言っていただろう? あれは縦穴の中を時々竜巻のような風が吹くせいさ。洞の中を風が反響して『冥王の声』に聞こえる」
「でも、あの穴が肉のようなもので出来ているというのはほんとうなのでしょう? 釣り糸を垂らして釣り上げた人のお話がありますし、わたくしこの前、お祖父さまの氷室で厳重に肉片のようなものが保管されているのを見たの」
「……氷室に入ったのか?」
「何か計画に役立つものがあるかと思って……気づかれていないと思うわ」
「危ない事をしたんじゃないか。駄目だよ」
「ごめんなさい。でも、きっとあれは間違いなく冥王の喉の肉だったのよ」
「……別の物かもしれないよ。肉の土というのも、鉄分の多い粘土質だったのかもしれない。それに君の家に冥王の肉があるなら、睦山家はもっと長生きの家系だろう。一口食べただけで死にかけが20年も長らえると言うじゃないか」
「でも生贄の声が、時折穴の近くから聞こえるという話も聞きますわ」
「竜巻の音か、きっと何か獣の……いャ。ヒナ子、考えすぎてはいけないよ。事実が何であれ、近づかなければ、何も怖い事はないさ」
「わたくし怖いです、八尋お姉さま」
「大丈夫さ。何も怖がる事はない。別の事でも考えよう」
「ずっと一緒に居てください」
「……きちんと家の前まで送るとも」
「……」
” ” ” ” ” ” ” ”
「はッ……がはっ、がふ、がはっ……ヴぇ、べう……」
生きている。深く埋まり込んだ肉の壁から頭を引きずり出して、味のしない肉片を吐き出す。べちゃ、と下で何かにぶつかる音がした。
「……地面?」
埋まった壁から少し下。引きずり出した腕を垂らしてぎりぎり届かないくらい下に、暗闇以外のものが見える。見える限りは相変わらず肉だ。
どこから光が入り込んでいるかは分からないが、完全な闇ではないのだろう。穴からではない。叩きつけられて気絶している間に、神職を名乗る村の男どもが扉を閉じ、穴を塞いでいるはずだ。それが「花嫁」を送った後のしきたりなのだから。
「ははッ……最っ高、だな……」
時間を掛けて少しずつ自力で身体を掘り起こす。腕を抜き出し、胴を挟んだ肉片をちぎり取り、身体を揺らし、最後は自重で前のめりに落ちる。
ぐちゃり。肉の床には人ひとりが載っても揺らがないだけの安定感がある。肉の襞のように、壁に沿って幅5メートルほど肉が突き出ていた。スロープ状に下へと続いている。上へは途切れていて行けない。代わりに、下へは壁沿いにいびつな螺旋を描いて続いている。
(ここが、冥王の喉)
はるか上に同じように肉襞が張り出しているが、通路の天井のように見えるばかりで、軟らかい肉などを足場に飛び着いたり登ることはできそうにない。
「そうか。簡単には死なないのか、ここでは」
また風が起きる。穴の中心を竜巻のような風が深みから吹き上げる。人ひとり壁に深く埋めるほどの強風が周囲に叩き付ける。しかしこれが落下の衝撃を弱めていなければ、今生きていなかっただろう。枯れ葉でも石でもプラスチック片でもないものが頬を打った。
中央に穴の開いた、銭に似た形の円い金属。この一枚だけではなく、見ればあちこちに溜まっている。かなり酸化して古びたものもある。
(冥銭《めいせん》か)
村で鋳造される質の悪い銭は当然、貨幣としては使えない。魔除けとして幼な子や病人に持たせたりする。節ごとに神職の男らによって冥穴へ撒く行事があるが、普段は女人禁制とされる冥穴へ近づくことのない者には関係のない話だった。
肉の上に散らばる銭の中に、銭を包んだ古い布を見つけ拾い上げる。広げると震える字で、『恨まないでください 許してください』と書かれている。
「……恨もうが許そうがお前たちには届かないじゃないか」
髪に残っていたかんざしを抜き取り、折れた指に当てて布を巻く。「ふっ」と声が漏れ出た。
「仮にも『冥王に捧げる名誉の花嫁』として扱っておいて、許せとは片腹痛い。それほど後ろめたいのなら穴の上で勝手に怯えていろ! 私は穴の底まで行ってやる。冥王とやら、私は晶玉八尋、お前の嫁だ。いるものなら待っていろ。その面を見に行ってやる」
腰を締め付ける丈夫そうな紐を抜いて草履の裏に通し、足首を回して脱げないよう結びつける。乱れた着物を適当に結わえ直し、邪魔な装飾品を捨てて、八尋は下への道を下ってゆく。
肉。生暖かく骨も筋も弾力もない、滑り気も臭みもなく軟らかい、肉のようなものに人差し指と中指の先が引っかかった。反射的に指先に力を込めると、ずぶりと沈み込む。
「ッ」
思っていたほどの激しい衝撃は指にかからない。ただ、ずるずると肉の壁を引っ掻き、裂きながら滑り落ちる間に、圧し曲げられていく。
飾り爪が2枚剥がれ落ちる。髪に差された和装の飾りが相変わらず耳元で五月蝿い音を立てる。意外と解けない安い白無垢。足には草履。滑稽な、形だけの花嫁衣装。
勢いは止まらない。指先が関節の逆に折れた痛みを感じる暇も、もう片方の腕で掴まる余裕もなく、肉の壁はすぐに途切れた。
「あアっ……!」
風がどこからか巻き起こる。渦巻いている。縦穴の奥深くまで反響するせいで、怪物の唸り声のような深い音が響く。
「く…………来るな……よぉ……ヒナ子……」
数分前とは違う、何の意味もない言葉を吐いて、風に揉まれ落ちていく。誰も底を知らない穴の底へ。冥王がささやく。早くおいで。
そして、叩き付けられる。
“ “ “ “ “ “ “ “
「……八尋お姉さまがほんとうのお姉さまなら良かった」
「勿論、私だってヒナ子が妹だったら嬉しいさ。でもどうして?」
「だって、こんなに冥穴の音を聞いていたら、今晩、寝られないかもしれない」
「ヒナ子。先生も言っていただろう? あれは縦穴の中を時々竜巻のような風が吹くせいさ。洞の中を風が反響して『冥王の声』に聞こえる」
「でも、あの穴が肉のようなもので出来ているというのはほんとうなのでしょう? 釣り糸を垂らして釣り上げた人のお話がありますし、わたくしこの前、お祖父さまの氷室で厳重に肉片のようなものが保管されているのを見たの」
「……氷室に入ったのか?」
「何か計画に役立つものがあるかと思って……気づかれていないと思うわ」
「危ない事をしたんじゃないか。駄目だよ」
「ごめんなさい。でも、きっとあれは間違いなく冥王の喉の肉だったのよ」
「……別の物かもしれないよ。肉の土というのも、鉄分の多い粘土質だったのかもしれない。それに君の家に冥王の肉があるなら、睦山家はもっと長生きの家系だろう。一口食べただけで死にかけが20年も長らえると言うじゃないか」
「でも生贄の声が、時折穴の近くから聞こえるという話も聞きますわ」
「竜巻の音か、きっと何か獣の……いャ。ヒナ子、考えすぎてはいけないよ。事実が何であれ、近づかなければ、何も怖い事はないさ」
「わたくし怖いです、八尋お姉さま」
「大丈夫さ。何も怖がる事はない。別の事でも考えよう」
「ずっと一緒に居てください」
「……きちんと家の前まで送るとも」
「……」
” ” ” ” ” ” ” ”
「はッ……がはっ、がふ、がはっ……ヴぇ、べう……」
生きている。深く埋まり込んだ肉の壁から頭を引きずり出して、味のしない肉片を吐き出す。べちゃ、と下で何かにぶつかる音がした。
「……地面?」
埋まった壁から少し下。引きずり出した腕を垂らしてぎりぎり届かないくらい下に、暗闇以外のものが見える。見える限りは相変わらず肉だ。
どこから光が入り込んでいるかは分からないが、完全な闇ではないのだろう。穴からではない。叩きつけられて気絶している間に、神職を名乗る村の男どもが扉を閉じ、穴を塞いでいるはずだ。それが「花嫁」を送った後のしきたりなのだから。
「ははッ……最っ高、だな……」
時間を掛けて少しずつ自力で身体を掘り起こす。腕を抜き出し、胴を挟んだ肉片をちぎり取り、身体を揺らし、最後は自重で前のめりに落ちる。
ぐちゃり。肉の床には人ひとりが載っても揺らがないだけの安定感がある。肉の襞のように、壁に沿って幅5メートルほど肉が突き出ていた。スロープ状に下へと続いている。上へは途切れていて行けない。代わりに、下へは壁沿いにいびつな螺旋を描いて続いている。
(ここが、冥王の喉)
はるか上に同じように肉襞が張り出しているが、通路の天井のように見えるばかりで、軟らかい肉などを足場に飛び着いたり登ることはできそうにない。
「そうか。簡単には死なないのか、ここでは」
また風が起きる。穴の中心を竜巻のような風が深みから吹き上げる。人ひとり壁に深く埋めるほどの強風が周囲に叩き付ける。しかしこれが落下の衝撃を弱めていなければ、今生きていなかっただろう。枯れ葉でも石でもプラスチック片でもないものが頬を打った。
中央に穴の開いた、銭に似た形の円い金属。この一枚だけではなく、見ればあちこちに溜まっている。かなり酸化して古びたものもある。
(冥銭《めいせん》か)
村で鋳造される質の悪い銭は当然、貨幣としては使えない。魔除けとして幼な子や病人に持たせたりする。節ごとに神職の男らによって冥穴へ撒く行事があるが、普段は女人禁制とされる冥穴へ近づくことのない者には関係のない話だった。
肉の上に散らばる銭の中に、銭を包んだ古い布を見つけ拾い上げる。広げると震える字で、『恨まないでください 許してください』と書かれている。
「……恨もうが許そうがお前たちには届かないじゃないか」
髪に残っていたかんざしを抜き取り、折れた指に当てて布を巻く。「ふっ」と声が漏れ出た。
「仮にも『冥王に捧げる名誉の花嫁』として扱っておいて、許せとは片腹痛い。それほど後ろめたいのなら穴の上で勝手に怯えていろ! 私は穴の底まで行ってやる。冥王とやら、私は晶玉八尋、お前の嫁だ。いるものなら待っていろ。その面を見に行ってやる」
腰を締め付ける丈夫そうな紐を抜いて草履の裏に通し、足首を回して脱げないよう結びつける。乱れた着物を適当に結わえ直し、邪魔な装飾品を捨てて、八尋は下への道を下ってゆく。
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