12 / 12
12月のラピスラズリ
しおりを挟む
「黒猫!」
声が聞こえた。
そんなはずはない、とラピスラズリは思った。だって、あんなに声が小さいやつが、大きな声を出せるはずがないんだから。
それでも、わずかな希望を抱いてラピスラズリは振り返った。一本道の先、小屋の前に旅人が立っていた。
「黒猫!」
もう一度、声をあげると旅人は走り出した。真っ直ぐに、ラピスラズリの元へかけてくる。
ラピスラズリは、目を瞬かせた。一歩踏み出そうとして、やめる。返事をしようとした口は、言葉を発することなく閉じてしまう。期待すればするほど、辛くなるだけ。そのことをラピスラズリは何度も、何度も経験していた。
かけてきた旅人は、数歩の距離を開けてラピスラズリの前で立ち止まった。肩が大きく上下している。
「なにしに来たんだよ」
ラピスラズリは言う。
「ぼくのこと、悪魔って言いにきたの? それとも、新しい恨みごとでも聞かせてくれるの?」
目を鋭く細めて、旅人をにらみつける。
「恨みごと?」
旅人は首を傾げる。
「そうだよ。アウィンから聞いただろう? ぼくはお前とお友達ごっこをしていただけなんだ。ぼくの役割をはたすために、お友達って関係を利用していただけなんだから」
「そうだったの?」
しゃがみこんで、旅人はラピスラズリの顔をのぞきこむ。
「君はそう思っていても、ぼくは君のこと、友達だと思っているけれど」
ラピスラズリは、目をそらす。
「お前はぼくのこと、怒っていないの?」
「怒る? どうして?」
不思議そうに旅人は尋ねる。心の底から疑問を感じている旅人を見て、ラピスラズリは言おうと思った言葉を見失ってしまった。
「お前といると、調子がくるうよ」
かすかに笑って、ラピスラズリは肩の力を抜いた。すると、思い出したように旅人が「あっ」と声をあげた。
「確かに、ぼくは君に怒っていたのかもしれない。怒っている、というのは少しちがうみたいだけれど」
「どんな風に感じたの?」
尋ねると、旅人は斜め上を見上げて、それから苦い表情をした。
「君は、ぼくとずっと一緒にいると思っていたのに。そうじゃなかったから。ぼくより先に、一緒に過ごしている人がいたじゃないか」
旅人は胸のあたりをさする。
「こう、なんだか、胸の奥がくもったような気がした。止まない雨に、困ってしまったような」
それに、と旅人は声を小さくよどませる。
「君の名前を、君の口から教えて欲しかったのに……そうじゃなかったから」
旅人は子どもがするように唇をとがらせた。ラピスラズリは目を丸くする。それから、体をふるわせて、ついには声をあげて笑いはじめた。
「馬鹿だなぁ、本当に」
涙が出た。笑いすぎて涙が出たけれど、本当は嬉しくって涙が出たのかもしれない。
その涙を、旅人がやさしくぬぐう。
「笑いすぎだよ。お腹を痛くするよ」
「平気だよ。ぼく、幸せだから」
つられて、旅人も笑顔になる。
「ねえ、これからもぼくと一緒にいてくれるでしょう?」
ラピスラズリはそっと黙った。微笑んだまま、首をゆっくり横に振る。
「そうしたいけれど。だめなんだ」
「だめ?」
「ラピスラズリは旅をする」
しっぽを一振りする。一緒にいよう、その言葉だけでもう十分救われたと、ラピスラズリは思った。
「アウィンからもらった名前なんだ。ぼくは名前に縛られている。ラピスラズリは、旅を続けないといけないんだ」
「どうして?」
「そう決められているから」
「誰が決めたの? 君が決めたの?」
ラピスラズリはぐっと黙った。
確かに、ラピスラズリは名前に縛られている。魔女たちが、人間や動物の名前を奪い、名前を与えて自分のものにするように、ラピスラズリはアウィンのラピスラズリだった。けれど、とラピスラズリは自分の黒い毛を見つめる。旅を続ければ、アウィンのものでいられるのだと思いこんでいた。認めたくないだけなのかもしれない。ラピスラズリがアウィンの猫であって、ずっと前からアウィンの猫でないことを。
ひとりぼっちは、嫌だ。
だけど。
居場所をあんなにも望んでいたのに、その場所にいくことを、ラピスラズリは恐れていた。
もし失ったら? やっぱり、いらないと言われたら? 二度と立ち直ることが出来ないだろう。傷つかないために、傷つきたくないから、名前の裏側に隠れて、本心を見せなかったのは自分だと、ラピスラズリは気がついた。
「あの時、黒猫は楽しかったって言っていたじゃないか。黒猫が楽しいと思う方を、選んではいけないの? それに、お前の立っている場所は、ここだけじゃないって教えてくれたのは、黒猫だよ。だからぼくは、あの街を出られたんだ」
旅人はすっくと立ち上がる。眉にぐっと力を入れて、怒ったような顔をする。
「今度は、ぼくが君の力になるよ。君の名前が、君を縛っているというのなら、ぼくがその名前を、壊してあげる」
ラピスラズリは面食らって瞬きをした。
「壊すって、どうやって?」
「君の名前を、半分に折っちゃう」
「半分にだって?」
突拍子もない旅人の言葉に、思わず声が裏返った。けれども、旅人はひどく真面目にうなずいた。
「それで、その名前の半分を、ぼくがもらってあげる」
「一体、なにを言っているんだ?」
「ラピスラズリは旅をするのでしょう? ぼくは、これからもそうでありたいんだ。だから、君の役割をぼくがもらうよ。知らないところへ、行ってみたい。見たことのないものを、見てみたい。ぼくの知らない名前を、もっと知りたい。知らないぼくを、見つけたいんだ。その旅には、君が必要なんだ、黒猫」
旅人はラピスラズリを抱え上げる。目と目が真っ直ぐに向き合った。ラピスラズリはもう、旅人から目をそらさなかった。
「初めて出会った時、君はどうしてぼくに名前を聞いたの? ぼくに名前がないことを知っていたでしょう?」
ああ、とラピスラズリはうなずく。
「名前を知るとさ、心が近づくような気がするんだ。だから、名前を知りたかった。一緒に、いたかったから」
ラピスラズリは空を仰いだ。白い星が煌めいている。手を伸ばしても届かないとあきらめていたものが、今、流れ星のように飛び込んでくる。
つかんでいいのだろうか?
迷いはあった。傷つかない保証なんて、どこにもない。けれど、まぶしくって、あたたかい光に飛びこんでもいいのだと、ラピスラズリは思った。目の奥が熱くなって、溢れてくる感情の波を懸命に隠そうとした。
「一緒に、いてくれよ」
「ぼくも、君と一緒にいたい」
旅人の声は、暗闇を照らす月光のように静かで、やさしかった。旅人は黒猫を抱き寄せて、ささやく。
「君の名前をぼくにくれる? 君の名前は、ぼくがつけてあげる」
ラピスラズリは旅人の肩に体をあずけて、うなずく。
「いいよ」
周りは雪に包まれているのに、あたたかいと黒猫は感じた。旅人の呼吸にあわせて、体がゆっくり上下する。
目を閉じて、ラピスラズリの旅を思い返す。さみしさも悲しさも、思い出の全てが光の粒になって、旅人と黒猫を包みこんでいくようだった。今までの長い時間は、今日のためにあったのだと、そう思わずにはいられなかった。
「ありがとう」
雪が溶けて、あたたかい春のせせらぎになるように、黒猫の心は今、満ち足りていた。
「ラピス……ラズリ……」
旅人は何度も名前をつぶやく。うーん、とうなった後、おもむろに黒猫を地面に下ろした。腰に手を当てて満足そうに、それから少しだけ恥ずかしそうに、その名を口にした。
「ぼくの名前は、ラピス。ラピスがいい」
頰を朱く染めて、頭をかく。
「どうかな? おかしい?」
「別に、変じゃないけど。それでいいの?」
ラピスは瞳を輝かせて喜んだ。
「もちろん! それじゃあ、黒猫の名前は」
「ちょっと待ってくれよ。まさか、ラズリなんて名前にしないでくれよな。そういうの、恥ずかしいから」
照れてそっぽを向いた黒猫に、ラピスは首を傾げる。
「ラピスとラズリか。そんな風に考えたことなかった」
ほっと安堵の息をつく黒猫の横に、ラピスは腰をおろした。しばらくなにも言わずに、互いの顔をじっと見つめていた。
思い出したように、ラピスが夜空を仰ぐ。群青色の空が広がっていた。
煙の街を出た時に見た、夜空に似ていた。空気は川の水のように冷たく澄んでいて、星が瞬いている。静かで、互いの呼吸の音が聞こえるような夜なのに、ラピスも黒猫もさみしさを感じなかった。なめらかな夜空は、宝石のような星をまとってどこまでも、果てしない。
ラピスは指を大きく広げて、腕をうんと高く伸ばした。この日の夜空を忘れたくないと思った。旅人と黒猫が、新しく生まれ変わった日の夜を、忘れまいと思った。
「君の名前は、ラズワルド」
夜空を見上げたまま、ラピスはぽつんとつぶやいた。
「ラズワルドはどうかな」
「悪くないな」
黒猫もまた、夜空を見上げたまま答えた。
「ラズワルド。ぼくは、ラズワルド」
口の中でラズワルドは何度も自分の名前を呼んだ。体の奥底から、ふつふつと喜びがわき上がってきて、じっとしていられなくなった。
「ぼくは、今日からラズワルドだ!」
ラズワルドは雪の上をぴょんぴょんと飛び跳ねて回った。体が軽かった。雪の上に新しい足跡がついていく。舞いあげた雪の結晶が、ラズワルドの黒い毛にのって、きらきらと輝いた。
大きく地面をけって、ラズワルドはラピスの腕の中へ飛びこんだ。息を弾ませて、言う。
「ぼくの名前は、ラズワルド。お前の名前は?」
尋ねられて、ラピスの瞳に光が灯った。
「ぼくの名前は、ラピス」
ラズワルドを抱え上げて、ラピスはその場で笑い声をあげながら回った。ラピスとラズワルドを中心に、世界がぐるぐると巡っていく。
「名前のあるぼくたちって、面白い! いつだって、ここに帰って来られる気がするから」
口元をほころばせて、ラピスは笑った。
「心がゆるんで、弾んで、踊っているみたいだ。ねえ、ぼくたちの心はもっと近づいた?」
瞬間、ラズワルドは目を大きく見開いた。夜空みたいな瞳と、朝日のような瞳が、ラピスをとらえてやさしく細められる。
「一緒に旅をしよう、ラピス」
大きくうなずいて、ラピスはぎゅっとラズワルドを抱きしめた。黒い毛並みに頭をうずめると、雪と夜空の匂いがした。それは、ラピスを心地よく包みこみ、胸をいっぱいにさせた。
名前を呼ぶたび、名前を呼ばれるたび、くすぐったい気持ちになった。自分や相手の輪郭が、はっきりと手にとるように鮮明になる。
足はしっかりと地面を踏みしめ、背筋は真っ直ぐに空へむかう。
ぼくは、ここにいる。
ぼくたちの居場所は、ここなんだ。
「ありがとう、ラズワルド」
十二月の街を出て、一人と一匹は足を止める。
「これからどこへ行こうか」
ラズワルドが尋ねる。
「どこへでも。気が向く方へ。足の向く方へ」
ラピスはにっこりと笑いかけた。ぴんと長いしっぽを夜空に向けて、ラズワルドはラピスの横に並ぶ。
「これからよろしくな、ラピス」
小さな手をちょこんと、ラピスの足にのせる。ラピスが笑って、ラズワルドの頭をくしゃりとなでた。
「行こう」
一歩足を踏み出して、新しい旅がはじまった。
声が聞こえた。
そんなはずはない、とラピスラズリは思った。だって、あんなに声が小さいやつが、大きな声を出せるはずがないんだから。
それでも、わずかな希望を抱いてラピスラズリは振り返った。一本道の先、小屋の前に旅人が立っていた。
「黒猫!」
もう一度、声をあげると旅人は走り出した。真っ直ぐに、ラピスラズリの元へかけてくる。
ラピスラズリは、目を瞬かせた。一歩踏み出そうとして、やめる。返事をしようとした口は、言葉を発することなく閉じてしまう。期待すればするほど、辛くなるだけ。そのことをラピスラズリは何度も、何度も経験していた。
かけてきた旅人は、数歩の距離を開けてラピスラズリの前で立ち止まった。肩が大きく上下している。
「なにしに来たんだよ」
ラピスラズリは言う。
「ぼくのこと、悪魔って言いにきたの? それとも、新しい恨みごとでも聞かせてくれるの?」
目を鋭く細めて、旅人をにらみつける。
「恨みごと?」
旅人は首を傾げる。
「そうだよ。アウィンから聞いただろう? ぼくはお前とお友達ごっこをしていただけなんだ。ぼくの役割をはたすために、お友達って関係を利用していただけなんだから」
「そうだったの?」
しゃがみこんで、旅人はラピスラズリの顔をのぞきこむ。
「君はそう思っていても、ぼくは君のこと、友達だと思っているけれど」
ラピスラズリは、目をそらす。
「お前はぼくのこと、怒っていないの?」
「怒る? どうして?」
不思議そうに旅人は尋ねる。心の底から疑問を感じている旅人を見て、ラピスラズリは言おうと思った言葉を見失ってしまった。
「お前といると、調子がくるうよ」
かすかに笑って、ラピスラズリは肩の力を抜いた。すると、思い出したように旅人が「あっ」と声をあげた。
「確かに、ぼくは君に怒っていたのかもしれない。怒っている、というのは少しちがうみたいだけれど」
「どんな風に感じたの?」
尋ねると、旅人は斜め上を見上げて、それから苦い表情をした。
「君は、ぼくとずっと一緒にいると思っていたのに。そうじゃなかったから。ぼくより先に、一緒に過ごしている人がいたじゃないか」
旅人は胸のあたりをさする。
「こう、なんだか、胸の奥がくもったような気がした。止まない雨に、困ってしまったような」
それに、と旅人は声を小さくよどませる。
「君の名前を、君の口から教えて欲しかったのに……そうじゃなかったから」
旅人は子どもがするように唇をとがらせた。ラピスラズリは目を丸くする。それから、体をふるわせて、ついには声をあげて笑いはじめた。
「馬鹿だなぁ、本当に」
涙が出た。笑いすぎて涙が出たけれど、本当は嬉しくって涙が出たのかもしれない。
その涙を、旅人がやさしくぬぐう。
「笑いすぎだよ。お腹を痛くするよ」
「平気だよ。ぼく、幸せだから」
つられて、旅人も笑顔になる。
「ねえ、これからもぼくと一緒にいてくれるでしょう?」
ラピスラズリはそっと黙った。微笑んだまま、首をゆっくり横に振る。
「そうしたいけれど。だめなんだ」
「だめ?」
「ラピスラズリは旅をする」
しっぽを一振りする。一緒にいよう、その言葉だけでもう十分救われたと、ラピスラズリは思った。
「アウィンからもらった名前なんだ。ぼくは名前に縛られている。ラピスラズリは、旅を続けないといけないんだ」
「どうして?」
「そう決められているから」
「誰が決めたの? 君が決めたの?」
ラピスラズリはぐっと黙った。
確かに、ラピスラズリは名前に縛られている。魔女たちが、人間や動物の名前を奪い、名前を与えて自分のものにするように、ラピスラズリはアウィンのラピスラズリだった。けれど、とラピスラズリは自分の黒い毛を見つめる。旅を続ければ、アウィンのものでいられるのだと思いこんでいた。認めたくないだけなのかもしれない。ラピスラズリがアウィンの猫であって、ずっと前からアウィンの猫でないことを。
ひとりぼっちは、嫌だ。
だけど。
居場所をあんなにも望んでいたのに、その場所にいくことを、ラピスラズリは恐れていた。
もし失ったら? やっぱり、いらないと言われたら? 二度と立ち直ることが出来ないだろう。傷つかないために、傷つきたくないから、名前の裏側に隠れて、本心を見せなかったのは自分だと、ラピスラズリは気がついた。
「あの時、黒猫は楽しかったって言っていたじゃないか。黒猫が楽しいと思う方を、選んではいけないの? それに、お前の立っている場所は、ここだけじゃないって教えてくれたのは、黒猫だよ。だからぼくは、あの街を出られたんだ」
旅人はすっくと立ち上がる。眉にぐっと力を入れて、怒ったような顔をする。
「今度は、ぼくが君の力になるよ。君の名前が、君を縛っているというのなら、ぼくがその名前を、壊してあげる」
ラピスラズリは面食らって瞬きをした。
「壊すって、どうやって?」
「君の名前を、半分に折っちゃう」
「半分にだって?」
突拍子もない旅人の言葉に、思わず声が裏返った。けれども、旅人はひどく真面目にうなずいた。
「それで、その名前の半分を、ぼくがもらってあげる」
「一体、なにを言っているんだ?」
「ラピスラズリは旅をするのでしょう? ぼくは、これからもそうでありたいんだ。だから、君の役割をぼくがもらうよ。知らないところへ、行ってみたい。見たことのないものを、見てみたい。ぼくの知らない名前を、もっと知りたい。知らないぼくを、見つけたいんだ。その旅には、君が必要なんだ、黒猫」
旅人はラピスラズリを抱え上げる。目と目が真っ直ぐに向き合った。ラピスラズリはもう、旅人から目をそらさなかった。
「初めて出会った時、君はどうしてぼくに名前を聞いたの? ぼくに名前がないことを知っていたでしょう?」
ああ、とラピスラズリはうなずく。
「名前を知るとさ、心が近づくような気がするんだ。だから、名前を知りたかった。一緒に、いたかったから」
ラピスラズリは空を仰いだ。白い星が煌めいている。手を伸ばしても届かないとあきらめていたものが、今、流れ星のように飛び込んでくる。
つかんでいいのだろうか?
迷いはあった。傷つかない保証なんて、どこにもない。けれど、まぶしくって、あたたかい光に飛びこんでもいいのだと、ラピスラズリは思った。目の奥が熱くなって、溢れてくる感情の波を懸命に隠そうとした。
「一緒に、いてくれよ」
「ぼくも、君と一緒にいたい」
旅人の声は、暗闇を照らす月光のように静かで、やさしかった。旅人は黒猫を抱き寄せて、ささやく。
「君の名前をぼくにくれる? 君の名前は、ぼくがつけてあげる」
ラピスラズリは旅人の肩に体をあずけて、うなずく。
「いいよ」
周りは雪に包まれているのに、あたたかいと黒猫は感じた。旅人の呼吸にあわせて、体がゆっくり上下する。
目を閉じて、ラピスラズリの旅を思い返す。さみしさも悲しさも、思い出の全てが光の粒になって、旅人と黒猫を包みこんでいくようだった。今までの長い時間は、今日のためにあったのだと、そう思わずにはいられなかった。
「ありがとう」
雪が溶けて、あたたかい春のせせらぎになるように、黒猫の心は今、満ち足りていた。
「ラピス……ラズリ……」
旅人は何度も名前をつぶやく。うーん、とうなった後、おもむろに黒猫を地面に下ろした。腰に手を当てて満足そうに、それから少しだけ恥ずかしそうに、その名を口にした。
「ぼくの名前は、ラピス。ラピスがいい」
頰を朱く染めて、頭をかく。
「どうかな? おかしい?」
「別に、変じゃないけど。それでいいの?」
ラピスは瞳を輝かせて喜んだ。
「もちろん! それじゃあ、黒猫の名前は」
「ちょっと待ってくれよ。まさか、ラズリなんて名前にしないでくれよな。そういうの、恥ずかしいから」
照れてそっぽを向いた黒猫に、ラピスは首を傾げる。
「ラピスとラズリか。そんな風に考えたことなかった」
ほっと安堵の息をつく黒猫の横に、ラピスは腰をおろした。しばらくなにも言わずに、互いの顔をじっと見つめていた。
思い出したように、ラピスが夜空を仰ぐ。群青色の空が広がっていた。
煙の街を出た時に見た、夜空に似ていた。空気は川の水のように冷たく澄んでいて、星が瞬いている。静かで、互いの呼吸の音が聞こえるような夜なのに、ラピスも黒猫もさみしさを感じなかった。なめらかな夜空は、宝石のような星をまとってどこまでも、果てしない。
ラピスは指を大きく広げて、腕をうんと高く伸ばした。この日の夜空を忘れたくないと思った。旅人と黒猫が、新しく生まれ変わった日の夜を、忘れまいと思った。
「君の名前は、ラズワルド」
夜空を見上げたまま、ラピスはぽつんとつぶやいた。
「ラズワルドはどうかな」
「悪くないな」
黒猫もまた、夜空を見上げたまま答えた。
「ラズワルド。ぼくは、ラズワルド」
口の中でラズワルドは何度も自分の名前を呼んだ。体の奥底から、ふつふつと喜びがわき上がってきて、じっとしていられなくなった。
「ぼくは、今日からラズワルドだ!」
ラズワルドは雪の上をぴょんぴょんと飛び跳ねて回った。体が軽かった。雪の上に新しい足跡がついていく。舞いあげた雪の結晶が、ラズワルドの黒い毛にのって、きらきらと輝いた。
大きく地面をけって、ラズワルドはラピスの腕の中へ飛びこんだ。息を弾ませて、言う。
「ぼくの名前は、ラズワルド。お前の名前は?」
尋ねられて、ラピスの瞳に光が灯った。
「ぼくの名前は、ラピス」
ラズワルドを抱え上げて、ラピスはその場で笑い声をあげながら回った。ラピスとラズワルドを中心に、世界がぐるぐると巡っていく。
「名前のあるぼくたちって、面白い! いつだって、ここに帰って来られる気がするから」
口元をほころばせて、ラピスは笑った。
「心がゆるんで、弾んで、踊っているみたいだ。ねえ、ぼくたちの心はもっと近づいた?」
瞬間、ラズワルドは目を大きく見開いた。夜空みたいな瞳と、朝日のような瞳が、ラピスをとらえてやさしく細められる。
「一緒に旅をしよう、ラピス」
大きくうなずいて、ラピスはぎゅっとラズワルドを抱きしめた。黒い毛並みに頭をうずめると、雪と夜空の匂いがした。それは、ラピスを心地よく包みこみ、胸をいっぱいにさせた。
名前を呼ぶたび、名前を呼ばれるたび、くすぐったい気持ちになった。自分や相手の輪郭が、はっきりと手にとるように鮮明になる。
足はしっかりと地面を踏みしめ、背筋は真っ直ぐに空へむかう。
ぼくは、ここにいる。
ぼくたちの居場所は、ここなんだ。
「ありがとう、ラズワルド」
十二月の街を出て、一人と一匹は足を止める。
「これからどこへ行こうか」
ラズワルドが尋ねる。
「どこへでも。気が向く方へ。足の向く方へ」
ラピスはにっこりと笑いかけた。ぴんと長いしっぽを夜空に向けて、ラズワルドはラピスの横に並ぶ。
「これからよろしくな、ラピス」
小さな手をちょこんと、ラピスの足にのせる。ラピスが笑って、ラズワルドの頭をくしゃりとなでた。
「行こう」
一歩足を踏み出して、新しい旅がはじまった。
0
お気に入りに追加
8
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(2件)
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
坂の途中のすみれさん
あまくに みか
ライト文芸
2022年4月 大幅に編集しました。
海が見える街の、坂の途中に住んでいる"すみれ"は不倫をしている。変わりたいと思いながらも、変えられない自分を知っている。
大雨の翌日、玄関前に男性の赤いパンツが落ちていた。そのパンツが、すみれと「坂の上の住人」を出会わせる。
恋することを避けるようになった、雑貨屋ポラリスの店長真梨子や、嫌われたくなくて本音が見えなくなった恵理、恋人を待ち続ける"ひかる"。
海街を舞台に恋に傷ついた彼女たちの物語。
ゆずちゃんと博多人形
とかげのしっぽ
ライト文芸
駅をきっかけに始まった、魔法みたいな伝統人形の物語。
ゆずちゃんと博多人形職人のおじいさんが何気ない出会いをしたり、おしゃべりをしたりします。
昔書いた、短めの連載作品。
お夜食処おやさいどき~癒やしと出逢いのロールキャベツ~
森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行
ライト文芸
関西転勤を控えた敏腕会社員 榊木望(さかきのぞむ)は、家路につく途中でカボチャランプの灯るお夜食処を見つける。
そこには溢れんばかりの野菜愛を抱いた女店主 花岡沙都(はなおかさと)が作り出す、夜にぴったりの野菜料理があった。
自分でも気づいていなかった心身の疲れが癒された望は、沙都の柔らかな人柄にも徐々に惹かれていって……。
お野菜たちがそっとがつなげる、癒やしと恋の物語です。
※ノベマ!、魔法のiらんど、小説家になろうに同作掲載しております
夕陽が浜の海辺
如月つばさ
ライト文芸
両親と旅行の帰り、交通事故で命を落とした12歳の菅原 雫(すがわら しずく)は、死の間際に現れた亡き祖父の魂に、想い出の海をもう1度見たいという夢を叶えてもらうことに。
20歳の姿の雫が、祖父の遺した穏やかな海辺に建つ民宿・夕焼けの家で過ごす1年間の日常物語。
海神の唄-[R]emember me-
青葉かなん
ライト文芸
壊れてしまったのは世界か、それとも僕か。
夢か現か、世界にノイズが走り現実と記憶がブレて見えてしまう孝雄は自分の中で何かが変わってしまった事に気づいた。
仲間達の声が二重に聞こえる、愛しい人の表情が違って重なる、世界の姿がブレて見えてしまう。
まるで夢の中の出来事が、現実世界へと浸食していく感覚に囚われる。
現実と幻想の区別が付かなくなる日常、狂気が内側から浸食していくのは――きっと世界がそう語り掛けてくるから。
第二次世界恐慌、第三次世界大戦の始まりだった。
伊緒さんのお嫁ご飯
三條すずしろ
ライト文芸
貴女がいるから、まっすぐ家に帰ります――。
伊緒さんが作ってくれる、おいしい「お嫁ご飯」が楽しみな僕。
子供のころから憧れていた小さな幸せに、ほっと心が癒されていきます。
ちょっぴり歴女な伊緒さんの、とっても温かい料理のお話。
「第1回ライト文芸大賞」大賞候補作品。
「エブリスタ」「カクヨム」「すずしろブログ」にも掲載中です!
あかりの燈るハロー【完結】
虹乃ノラン
ライト文芸
――その観覧車が彩りゆたかにライトアップされるころ、あたしの心は眠ったまま。迷って迷って……、そしてあたしは茜色の空をみつけた。
六年生になる茜(あかね)は、五歳で母を亡くし吃音となった。思い出の早口言葉を歌い今日もひとり図書室へ向かう。特別な目で見られ、友達なんていない――吃音を母への愛の証と捉える茜は治療にも前向きになれないでいた。
ある日『ハローワールド』という件名のメールがパソコンに届く。差出人は朱里(あかり)。件名は謎のままだが二人はすぐに仲良くなった。話すことへの抵抗、思いを伝える怖さ――友だちとの付き合い方に悩みながらも、「もし、あたしが朱里だったら……」と少しずつ自分を見つめなおし、悩みながらも朱里に対する信頼を深めていく。
『ハローワールド』の謎、朱里にたずねるハローワールドはいつだって同じ。『そこはここよりもずっと離れた場所で、ものすごく近くにある場所。行きたくても行けない場所で、いつの間にかたどり着いてる場所』
そんななか、茜は父の部屋で一冊の絵本を見つける……。
誰の心にも燈る光と影――今日も頑張っているあなたへ贈る、心温まるやさしいストーリー。
―――――《目次》――――――
◆第一部
一章 バイバイ、お母さん。ハロー、ハンデ。
二章 ハローワールドの住人
三章 吃音という証明
◆第二部
四章 最高の友だち
五章 うるさい! うるさい! うるさい!
六章 レインボー薬局
◆第三部
七章 はーい! せんせー。
八章 イフ・アカリ
九章 ハウマッチ 木、木、木……。
◆第四部
十章 未来永劫チクワ
十一章 あたしがやりました。
十二章 お父さんの恋人
◆第五部
十三章 アカネ・ゴー・ラウンド
十四章 # to the world...
◆エピローグ
epilogue...
♭
◆献辞
《第7回ライト文芸大賞奨励賞》
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
退会済ユーザのコメントです
香秋様
ありがとうございます!
淀川様
1人と1匹はどこへいくのか〜