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12月のラピスラズリ

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「黒猫!」
 声が聞こえた。 
 そんなはずはない、とラピスラズリは思った。だって、あんなに声が小さいやつが、大きな声を出せるはずがないんだから。
 それでも、わずかな希望を抱いてラピスラズリは振り返った。一本道の先、小屋の前に旅人が立っていた。
「黒猫!」
 もう一度、声をあげると旅人は走り出した。真っ直ぐに、ラピスラズリの元へかけてくる。
 ラピスラズリは、目を瞬かせた。一歩踏み出そうとして、やめる。返事をしようとした口は、言葉を発することなく閉じてしまう。期待すればするほど、辛くなるだけ。そのことをラピスラズリは何度も、何度も経験していた。
 かけてきた旅人は、数歩の距離を開けてラピスラズリの前で立ち止まった。肩が大きく上下している。
「なにしに来たんだよ」
 ラピスラズリは言う。
「ぼくのこと、悪魔って言いにきたの? それとも、新しい恨みごとでも聞かせてくれるの?」
 目を鋭く細めて、旅人をにらみつける。
「恨みごと?」
 旅人は首を傾げる。
「そうだよ。アウィンから聞いただろう? ぼくはお前とお友達ごっこをしていただけなんだ。ぼくの役割をはたすために、お友達って関係を利用していただけなんだから」
「そうだったの?」
 しゃがみこんで、旅人はラピスラズリの顔をのぞきこむ。
「君はそう思っていても、ぼくは君のこと、友達だと思っているけれど」
 ラピスラズリは、目をそらす。
「お前はぼくのこと、怒っていないの?」
「怒る? どうして?」
 不思議そうに旅人は尋ねる。心の底から疑問を感じている旅人を見て、ラピスラズリは言おうと思った言葉を見失ってしまった。
「お前といると、調子がくるうよ」
 かすかに笑って、ラピスラズリは肩の力を抜いた。すると、思い出したように旅人が「あっ」と声をあげた。
「確かに、ぼくは君に怒っていたのかもしれない。怒っている、というのは少しちがうみたいだけれど」
「どんな風に感じたの?」
 尋ねると、旅人は斜め上を見上げて、それから苦い表情をした。
「君は、ぼくとずっと一緒にいると思っていたのに。そうじゃなかったから。ぼくより先に、一緒に過ごしている人がいたじゃないか」
 旅人は胸のあたりをさする。
「こう、なんだか、胸の奥がくもったような気がした。止まない雨に、困ってしまったような」
 それに、と旅人は声を小さくよどませる。
「君の名前を、君の口から教えて欲しかったのに……そうじゃなかったから」
 旅人は子どもがするように唇をとがらせた。ラピスラズリは目を丸くする。それから、体をふるわせて、ついには声をあげて笑いはじめた。
「馬鹿だなぁ、本当に」
 涙が出た。笑いすぎて涙が出たけれど、本当は嬉しくって涙が出たのかもしれない。
 その涙を、旅人がやさしくぬぐう。
「笑いすぎだよ。お腹を痛くするよ」
「平気だよ。ぼく、幸せだから」
 つられて、旅人も笑顔になる。
「ねえ、これからもぼくと一緒にいてくれるでしょう?」
 ラピスラズリはそっと黙った。微笑んだまま、首をゆっくり横に振る。
「そうしたいけれど。だめなんだ」
「だめ?」
「ラピスラズリは旅をする」
 しっぽを一振りする。一緒にいよう、その言葉だけでもう十分救われたと、ラピスラズリは思った。
「アウィンからもらった名前なんだ。ぼくは名前に縛られている。ラピスラズリは、旅を続けないといけないんだ」
「どうして?」
「そう決められているから」
「誰が決めたの? 君が決めたの?」
 ラピスラズリはぐっと黙った。 
 確かに、ラピスラズリは名前に縛られている。魔女たちが、人間や動物の名前を奪い、名前を与えて自分のものにするように、ラピスラズリはアウィンのラピスラズリだった。けれど、とラピスラズリは自分の黒い毛を見つめる。旅を続ければ、アウィンのものでいられるのだと思いこんでいた。認めたくないだけなのかもしれない。ラピスラズリがアウィンの猫であって、ずっと前からアウィンの猫でないことを。
 ひとりぼっちは、嫌だ。
 だけど。
 居場所をあんなにも望んでいたのに、その場所にいくことを、ラピスラズリは恐れていた。
 もし失ったら? やっぱり、いらないと言われたら? 二度と立ち直ることが出来ないだろう。傷つかないために、傷つきたくないから、名前の裏側に隠れて、本心を見せなかったのは自分だと、ラピスラズリは気がついた。
「あの時、黒猫は楽しかったって言っていたじゃないか。黒猫が楽しいと思う方を、選んではいけないの? それに、お前の立っている場所は、ここだけじゃないって教えてくれたのは、黒猫だよ。だからぼくは、あの街を出られたんだ」
 旅人はすっくと立ち上がる。眉にぐっと力を入れて、怒ったような顔をする。
「今度は、ぼくが君の力になるよ。君の名前が、君を縛っているというのなら、ぼくがその名前を、壊してあげる」
 ラピスラズリは面食らって瞬きをした。
「壊すって、どうやって?」
「君の名前を、半分に折っちゃう」
「半分にだって?」
 突拍子もない旅人の言葉に、思わず声が裏返った。けれども、旅人はひどく真面目にうなずいた。
「それで、その名前の半分を、ぼくがもらってあげる」
「一体、なにを言っているんだ?」
「ラピスラズリは旅をするのでしょう? ぼくは、これからもそうでありたいんだ。だから、君の役割をぼくがもらうよ。知らないところへ、行ってみたい。見たことのないものを、見てみたい。ぼくの知らない名前を、もっと知りたい。知らないぼくを、見つけたいんだ。その旅には、君が必要なんだ、黒猫」
 旅人はラピスラズリを抱え上げる。目と目が真っ直ぐに向き合った。ラピスラズリはもう、旅人から目をそらさなかった。
「初めて出会った時、君はどうしてぼくに名前を聞いたの? ぼくに名前がないことを知っていたでしょう?」
 ああ、とラピスラズリはうなずく。
「名前を知るとさ、心が近づくような気がするんだ。だから、名前を知りたかった。一緒に、いたかったから」
 ラピスラズリは空を仰いだ。白い星が煌めいている。手を伸ばしても届かないとあきらめていたものが、今、流れ星のように飛び込んでくる。
 つかんでいいのだろうか? 
 迷いはあった。傷つかない保証なんて、どこにもない。けれど、まぶしくって、あたたかい光に飛びこんでもいいのだと、ラピスラズリは思った。目の奥が熱くなって、溢れてくる感情の波を懸命に隠そうとした。
「一緒に、いてくれよ」
「ぼくも、君と一緒にいたい」
 旅人の声は、暗闇を照らす月光のように静かで、やさしかった。旅人は黒猫を抱き寄せて、ささやく。
「君の名前をぼくにくれる? 君の名前は、ぼくがつけてあげる」
 ラピスラズリは旅人の肩に体をあずけて、うなずく。
「いいよ」
 周りは雪に包まれているのに、あたたかいと黒猫は感じた。旅人の呼吸にあわせて、体がゆっくり上下する。
 目を閉じて、ラピスラズリの旅を思い返す。さみしさも悲しさも、思い出の全てが光の粒になって、旅人と黒猫を包みこんでいくようだった。今までの長い時間は、今日のためにあったのだと、そう思わずにはいられなかった。
「ありがとう」
 雪が溶けて、あたたかい春のせせらぎになるように、黒猫の心は今、満ち足りていた。
「ラピス……ラズリ……」
 旅人は何度も名前をつぶやく。うーん、とうなった後、おもむろに黒猫を地面に下ろした。腰に手を当てて満足そうに、それから少しだけ恥ずかしそうに、その名を口にした。
「ぼくの名前は、ラピス。ラピスがいい」
 頰を朱く染めて、頭をかく。 
「どうかな? おかしい?」
「別に、変じゃないけど。それでいいの?」
 ラピスは瞳を輝かせて喜んだ。
「もちろん! それじゃあ、黒猫の名前は」
「ちょっと待ってくれよ。まさか、ラズリなんて名前にしないでくれよな。そういうの、恥ずかしいから」
 照れてそっぽを向いた黒猫に、ラピスは首を傾げる。
「ラピスとラズリか。そんな風に考えたことなかった」
 ほっと安堵の息をつく黒猫の横に、ラピスは腰をおろした。しばらくなにも言わずに、互いの顔をじっと見つめていた。
 思い出したように、ラピスが夜空を仰ぐ。群青色の空が広がっていた。
 煙の街を出た時に見た、夜空に似ていた。空気は川の水のように冷たく澄んでいて、星が瞬いている。静かで、互いの呼吸の音が聞こえるような夜なのに、ラピスも黒猫もさみしさを感じなかった。なめらかな夜空は、宝石のような星をまとってどこまでも、果てしない。
 ラピスは指を大きく広げて、腕をうんと高く伸ばした。この日の夜空を忘れたくないと思った。旅人と黒猫が、新しく生まれ変わった日の夜を、忘れまいと思った。
「君の名前は、ラズワルド」
 夜空を見上げたまま、ラピスはぽつんとつぶやいた。
「ラズワルドはどうかな」
「悪くないな」
 黒猫もまた、夜空を見上げたまま答えた。
「ラズワルド。ぼくは、ラズワルド」
 口の中でラズワルドは何度も自分の名前を呼んだ。体の奥底から、ふつふつと喜びがわき上がってきて、じっとしていられなくなった。
「ぼくは、今日からラズワルドだ!」
 ラズワルドは雪の上をぴょんぴょんと飛び跳ねて回った。体が軽かった。雪の上に新しい足跡がついていく。舞いあげた雪の結晶が、ラズワルドの黒い毛にのって、きらきらと輝いた。
 大きく地面をけって、ラズワルドはラピスの腕の中へ飛びこんだ。息を弾ませて、言う。
「ぼくの名前は、ラズワルド。お前の名前は?」
 尋ねられて、ラピスの瞳に光が灯った。
「ぼくの名前は、ラピス」
 ラズワルドを抱え上げて、ラピスはその場で笑い声をあげながら回った。ラピスとラズワルドを中心に、世界がぐるぐると巡っていく。
「名前のあるぼくたちって、面白い! いつだって、ここに帰って来られる気がするから」
 口元をほころばせて、ラピスは笑った。
「心がゆるんで、弾んで、踊っているみたいだ。ねえ、ぼくたちの心はもっと近づいた?」
 瞬間、ラズワルドは目を大きく見開いた。夜空みたいな瞳と、朝日のような瞳が、ラピスをとらえてやさしく細められる。
「一緒に旅をしよう、ラピス」
 大きくうなずいて、ラピスはぎゅっとラズワルドを抱きしめた。黒い毛並みに頭をうずめると、雪と夜空の匂いがした。それは、ラピスを心地よく包みこみ、胸をいっぱいにさせた。
 名前を呼ぶたび、名前を呼ばれるたび、くすぐったい気持ちになった。自分や相手の輪郭が、はっきりと手にとるように鮮明になる。
 足はしっかりと地面を踏みしめ、背筋は真っ直ぐに空へむかう。
 ぼくは、ここにいる。
 ぼくたちの居場所は、ここなんだ。
「ありがとう、ラズワルド」


 十二月の街を出て、一人と一匹は足を止める。
「これからどこへ行こうか」
 ラズワルドが尋ねる。
「どこへでも。気が向く方へ。足の向く方へ」
 ラピスはにっこりと笑いかけた。ぴんと長いしっぽを夜空に向けて、ラズワルドはラピスの横に並ぶ。
「これからよろしくな、ラピス」
 小さな手をちょこんと、ラピスの足にのせる。ラピスが笑って、ラズワルドの頭をくしゃりとなでた。
「行こう」
 一歩足を踏み出して、新しい旅がはじまった。
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みんなの感想(2件)

2023.02.25 ユーザー名の登録がありません

退会済ユーザのコメントです

あまくに みか
2023.02.25 あまくに みか

香秋様

ありがとうございます!

解除
淀川 大
2023.02.01 淀川 大
ネタバレ含む
あまくに みか
2023.02.01 あまくに みか

淀川様

1人と1匹はどこへいくのか〜

解除

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