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1章 坂の途中のすみれさん

天使のレース

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 雨の日が続いている。
 少しでも気分を明るくしようと、紫陽花のピアスを耳にぶら下げてみる。赤紫色から水色のグラデーションが可愛い。それに合わせて、ワンピースも薄い水色にした。裾に花柄のモチーフレースがある。
 ポラリスにも、レースで出来たアクセサリーやワッペンが販売されている。
 触れたら割れてしまいそうな、繊細なレース。眺めているだけで、うっとりとしてしまう。


 傘をさして、ポラリスへ向かう。無意識に坂の上を見てしまった。
 あの日。私は、坂の上の住人に会った。
 その人は、女性だった。ベリーショートが似合う、顔の小さな女性。彼女は、確かに「待って」と言っていた。私は急に恥ずかしくなって、逃げた。
 以来、そのままである。
 私は一体、何を期待していたのだろう。小説の始まりのような出来事を、期待していたのだろうか。
「おはよう、すみれさん」
 今日も真梨子さんの挨拶は、早い。
「雨が続いてるね。客足も遠くなっちゃう」
 少し頭痛がするのか、真梨子さんは顔をしかめた。
「頭痛、大丈夫ですか?」
 私が聞くと、真梨子さんは髪を耳にかけながら言う。
「もう、慣れっこなの」
 ほうっと溜息をついてから、真梨子さんは窓側のディスプレイの前に立つ。
「ここ、入れ替えましょ」
 窓側のディスプレイは、通りを歩くお客様の目につく1番の場所だ。だから、この場所は必ず真梨子店長の指示の元で、陳列される。
 選び抜かれた商品の中に、花柄のレースがあった。薔薇の花を中央に、波を打つような葉が、両手を広げている。
「天使の羽みたい」
 優しく持ち上げて呟いた時、どきりとした。
 窓の外に青い傘をさした女性が通り過ぎていった。彼女の顔が、こちらを向く。大きな目が見開かれる。
 その一瞬が、まるでスローモーションのようだった。雨粒1つ1つが見えるように。
 ドンっと地響きのような音がして、滝のような雨が降ってくる。
「すごい雨」
 彼女は、青い傘を閉まってポラリスに入ってきた。白いTシャツが半分濡れて、透けてしまっている。
「タオルをお持ちしますね」と言って、真梨子さんは事務所へと走っていってしまった。
 地面を容赦なく叩く、雨の音が響く。低く雷の音も聞こえた。
「坂の途中の住人」
 私は、はっとして彼女を見る。頰が熱くなるのを感じた。
「やっぱり。そうかなって思ったんだ」
 彼女の声は、優しいアルト。化粧っ気のない顔でも、地味にならない良さがあった。歳はいくつくらいだろうか。同い年にも年下にもみえた。
「落としたものが、アレだし。なんだか恥ずかしいけどさ。やっぱり、ちゃんとお礼したかったんだよね」
 彼女が1歩、私に近づく。
「ありがとう」
 いつぶりだろう。機械的な「ありがとう」以外のありがとうを聞いたのは。
 真っ直ぐな彼女の目線に耐えきれなくなって、目を逸らす。今きっと、顔が赤い。
「……すみません」
 何に対しての「すみません」なのだろうと、自分でも恥ずかしくなってくる。
「謝ることないって。ホントに感謝してるんだから。もしよかったら、今度奢らせてよ」
 そう言って、彼女はカバンをあさる。手帳を取り出して、何かを書きつける。
「これ、あたしのLINE気が向いたら連絡してよ。もし、嫌なら構わない。あたしは別に恨んだりしないから、安心して」
 渡されたメモを受け取ると、彼女は嬉しそうに笑った。
「それ、レース?」
 彼女は私の手元を指差す。
「えっ。あ、はい。レースです……」
 昔からそうだ。彼女のような、強くて輝いていて、自分の主張をきちんとする人を前にすると、気後れしてしまう。
 苦手なわけではない。彼女が太陽なら、私はジリジリと焼かれている虫のように感じてしまう。
「天使の羽みたい」
 その言葉に、現実に戻された。彼女と目が合う。
「天使の羽って、ホントにレースで出来てるのかもね」
 私は手元に視線を落とす。花柄のレースが、天使の落とした1枚の羽に見えた。
 先ほどまでの、彼女に対する緊張がゆるゆると溶けていく。
「あの」と言いかけたところで、真梨子さんがタオルを持って戻ってきた。
「お客様。もしよろしければ、こちらのTシャツを使って下さい。もう店頭に出せないものですので……」
「いいんですか? ありがとうございます」
 タオルを首にかけ、彼女はその場で濡れたTシャツを脱いで着替えた。
 その全く恥じない、堂々とした動作に、私は勿論、真梨子さんも呆気にとられていた。
「雨宿りさせてもらって、服までもらっちゃ悪いんで、これ買わせて下さい」
 彼女は私の手から、花柄のレースをするりと抜き取る。
「幸せになれそうだし」
 そう言って、彼女はにかっと笑った。
 雨が弱まってから、彼女はポラリスを去って行った。私はもう見えなくなってしまった、彼女の後ろ姿を眺めていた。切り取ったように、鮮明に彼女の色が視界に残っている。
 ドアチャイムが、そんな私の心を理解してか、余韻のようにいつまでも鳴り響いていた。
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