ハナサクカフェ

あまくに みか

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青木華の場合

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 もうすぐ、二年になる。咲翔さくとが産まれて。

 幸せだった。待ちに待った子ども。
 大切に育てていこうと思った矢先、ハナは産後うつになった。

 気が狂いそうな毎日だった。

 死んでしまおう。咲翔も一緒に。
 いや、咲翔は夫の真彦まさひこさんに預けて。真彦さんは、ちゃんと咲翔を育ててくれるだろうか。
 同じことを何度も、何度も考えた。理由もなく溢れる涙。咲翔と二人きりにしないでくれ、と仕事へ行く真彦さんに泣いて縋ったりもした。
 眠っている咲翔が、いつ泣き出すかと心配で、側を離れることが出来なかった。眠ろうとしても、眠ることが出来ず、ただ目を瞑っているだけの日々が続いていた。耳元では絶えず、咲翔が華を呼んで泣く声が響いていた。
 そんな精神状態が続いていたためか、母乳が出なくなった。粉ミルクに変えたことさえ、真彦さんは気がつかなかった。それほど、彼は家にいる時間がなかった。

 
 咲翔から離れず、毎日を過ごした。たったの五分が、とても長く感じられた。特に苦痛だったのが、寝かしつけだった。
 上手く眠ることが出来ない赤ちゃんは、眠る前によく泣く。ゆらゆら抱っこしたり、子守唄を歌ってみたり、背中をトントンしてみたり。あらゆることを試した。
 腕の中で寝てくれても、ベッドへおろした瞬間に泣かれることも、少なくなかった。
 咲翔が成長するにつれ、泣き声は大きくなっていく。
 隣人から、怒鳴られはしないだろうか。毎日怯えてすごした。
 泣き止まない咲翔を抱きながら、
 「うるさい!なんで泣くのよ!わかんない!」
 と泣きながら、大きく背中を叩いたこともあった。

 自分の中に、自分ではない恐ろしい存在がいることに気がつき、震える手で真彦さんにメールをうった。
 『咲翔が泣き止まなくて、虐待しそう』
 メールはすぐに返ってきた。
 『咲翔から一旦離れて、気持ちが落ち着くまで別の部屋にいるんだ』
 呆然とした。
 そんなこと、少し調べればわかる。母子手帳にもネットにも書いてあるのだから。
 それが、出来れば連絡しない。言って欲しい言葉は、それじゃない。華は、スマホを投げた。
 「メールはすぐ返せるのに。家にはすぐ帰ってこないのね…」
 
  
 日中、テレビをつけておくことが多くなった。誰かの話し声を聞いていないと、孤独に耐えられなかった。
 「魔がさす」という言葉がある。意味を調べると『悪魔が入りこんだように、一瞬判断や行動を誤る』とある。
 華は、その通りだと思う。
 どんなに善良な人の心にも、悪魔がいる。私は、その悪魔を抑え込むのに必死だ。その悪魔が、咲翔に向いてしまうから。出てこないで、と念じる。たが、咲翔が泣く時間が長くなれば、なるほど、悪魔はジワジワと華を侵食していく。

 テレビのニュースで、母親が逮捕されたと報道された。生後八ヶ月の女の子を虐待して、死なせてしまったらしい。ボサボサの髪の毛にすっぴんの母親。その母親と自分の顔が一瞬重なって見えた。
 ああ、この人も同じだ。
 誰も、助けてくれる人がいなかったのね。
 ネット上では、母親が叩かれていた。
 「虐待するなら産むな」
 そのコメントが、目に留まった。
 違う。違うのよ、わかってない。虐待するために、産むわけないじゃない。私だって、子どもが産まれたら、幸せだって、ずっと思って生きてきた。子どもが、赤ちゃんが、大好きだった。
 虐待は仕方ないと言ってる訳ではない。絶対にダメだ。けれど、何故起きてしまうのか…華自身も母親になるまで考えたことがなく、生きてきた。
 「ねえ、どうして誰も、父親に触れないの?どうして、母親だけなの?」
 次のニュースを読み始めたアナウンサーに、華は呟いた。



 あの日は、土曜日だった。
 真彦さんは、休日なのに出勤をした。
 「少しは、面倒をみてよ」
 閉じたドアに向かって、呪いのように吐き出した。
 咲翔は朝からご機嫌ななめで、抱っこを求めて泣いてばかりいた。華の機嫌が悪いから、咲翔も機嫌が悪いのかもしれないと思い、華は努めて明るくしなければと、笑顔を作ってみた。
 咲翔が、可愛くない訳ではない。可愛いし、勿論、愛している。だが、その気持ちだけで丸く収まる程、子育ては優しい世界ではない。精神論だけでは、持たないことに、もう華は気がついていた。

 夕方だった。咲翔はもう一時間以上、泣き続けていた。ヘトヘトだった。もう、いい加減泣き止んで欲しい。眠って欲しい。夕飯の仕度だって、しないといけないのに。

 胸の奥がザワザワした。


 来る。悪魔が、くる。


 咲翔をベビーベッドに投げるように、寝かせた。咲翔の泣き声は叫び声に変わった。
 「寝なさいよ!」
 華は、咲翔を押さえつける。
 「寝ろって、言ってんでしょ!」
 ベビーベッドの柵を掴んで、乱暴に揺さぶった。
 「何してるんだ!華!」
 引き剥がされて、華は振り返り様に、真彦さんを殴った。
 「どうして、こういう時だけ、早く帰ってくるわけ?」
 倒れて顔を上げた真彦さんの顔が、怒りに満ちていた。
 「いて欲しい時に、いないで、それでも父親?」
 「華がしていたことは、虐待だ」
 「何も知らないくせに。面倒もみたことないくせに」 
 涙が真っ直ぐに、床へボタボタと落ちた。
 「いらない。あなたも…咲翔も、いらない」
 そのまま、華は家を飛び出した。
 いく場所もない。居場所もない。泣きながら、華は走った。
 「ごめんなさい、ごめんね、咲翔…」
 

 しばらく、歩き回って、深夜に家に帰った。
 誰もいなかった。いなくなっていた。
 真彦さんも、咲翔も。
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