月鏡の畔にて

ruri

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第八話 孤独な氷輪

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 ○

 美しき月鏡の湖の北には、真っ白な石造りの神殿がそびえている。二本の太柱がつくる門の境界をゆっくりと跨げば、幼い日の記憶のままの世界が私を迎える。
 深い青の水面と白い社の雄大な景色パノラマ、視界の隅に迫る山々、底抜けの青天井――あの頃とひとつも変わらなくて、まるで長命な生物みたいだ。日差しを避けて石柱の陰に入れば、世俗から切り離された肌寒さと心休まる懐かしさが肌を撫で、私を追想に誘う……。

「暁!」

 声にはっとする。革製鞄を肩からげた御影がふらっと視界にフレームイン。私は慌てて「びっくりさせんな」といつもの挨拶を返す。

 そう、今日は古代文字解読調査デートの日。時刻は昼を過ぎ、快晴無風で湖は渇水明け。来るのが早過ぎて待ち疲れ、暑さ回避で日陰に避難していたところである。

「図書館で待ち合わせと言ったろう。こんな場所にひとりは危険だ」
「あ……ごめん。勘違いしてた。でもなんで?」
「支度中、君の姿が窓越しに見えたんだ」
「あーそういうこと」
 
 ってことは位置関係で言うと、湖北の神殿に行くのに私は東回りで湖畔の林道を抜けたから、御影の家は湖東にあるのか。

「そういえば許可は貰えたの?」
「無いよ」
「無いんかい」
「君の分はな。他人の目をあざむくぐらい訳無い」
「バレないもんなのね~」
「失敗例はほとんど無いな。以前は機会すら少なかったが……最近は逃走と欺騙ぎへんの手段として頻繁に使わざるを得なくなってる。特にどこぞの誰かが追って来るから」
「へ、へぇ~。誰のことだろ……」

 相槌を打つ口角が引きつる。しかし御影は平然として、顎に手をやりながら感心するような口ぶりで続ける。

「でも意外とこれが面白いんだ」
「ん?」
「君に振り回されるのも悪くないな……」
「いやっ……逆逆、あんたが私をめちゃくちゃにしてんの」
「ならお互い様だ。もっとも僕に大した負担は無いが」
「私もだわ適当に喋んなっ」 

 *

 そして私たちは正面から神殿に入る。
 仄暗く人気ひとけの無い通路は神秘的な雰囲気に満ちていた。通路の壁に等間隔に並ぶ燭台が青白く灯ってちらちらとまたたく。純度の高い夜晶石やしょうせき――光を溜め込み暗所で輝く性質がある月鏡名産の鉱石――の由来だと彼が言った。私はずんずん行きたいのを我慢しつつ、彼に並んで幻想の迷宮を進む。
 やがて最奥の広い空間に辿り着くと、空気はより一層冴えて鋭くなった。太い柱だけで支えられた天井と床の隙間から、陽光が梯子はしごのように差し込んで神々しく祭壇を照らしている。四角く切り取られた湖の国の美景、遠くの向こう岸に見えるのは大図書館。私たちの暮らす月鏡の町並みだ。

 御影の白手袋の長い指が、部屋中央奥の平たい石の高み――祭壇の土台の石に刻まれた文章を指した。神座しんざだから登壇するなとだけ告げられ、私は了解と頷く。手早くメモを用意した彼に促されて、石に彫られた長文の内容をすらすらと読み上げる。

「【月鏡は時と記憶を刻む湖。生きとし生けるものどもの叡知と感情を宿し、とこしえに在らしめる神なり】」
「湖が御神体。『月鏡記録仮説』の裏付けにもなり得るか」
「……叡知と感情?」

 きっと前に読んだ本に出てきた知の記憶ソフィア心の記憶メモーリアのことだ。水神さまが宿す能力について記している気がする。
 もう一つ、空間の隅にひっそりと立っていた比較的新しめの石碑。こっちも読む。

「【水の神は、湖に留まりし渡り鳥ら、清らかなる巫と共に土地を守護し救う者。死を繰り返す月であり、人のすべてをうつす鏡である。永遠の月夜を見ては、悠久の記憶を抱き、眠り、鍵を開く『時の使者』を待つ】……」
「……暁?」
「う」

 目尻を押さえると指が冷たく濡れた。ばれたくなかったのに。傍らの御影が背を屈めてこっちに顔を寄せ、銀睫毛に縁取られた真っ青な目に温かな情をこもらせている。私がものすごく雑に言いつくろうと、さらさらと頭を撫でてくれた。ずっと神妙にしてるのも嫌だから「もう一声」とねだれば、「元気じゃないか。俺は君の臣下じゃないよ。お姫さま」と耳元で甘く囁かれる。ぐわーそんなからかい方もあんのね。

 ……気を取り直していざ考察。
 御影によれば、渡り鳥=カイルの一族、死を繰り返す=月の満ち欠け、月夜を見る=例の『月夜見つきよみの水』だとか。死こそが本来の常だとする月鏡の宗教観とも一致している、とか小難しいことも言っていた。「水神は眠っている……神々廻君の話は的を射てるのかもな」。御影が唸って考え込む。
 でも、私の心は『人の総てをうつす』というフレーズに吸い寄せられてしょうがない。水神さまは人間の姿や声を借りて私たちの前に現れるらしいけど、冴さんは人格や記憶さえも違和感なく再現してみせたと話した。もしかしたら月鏡に刻まれた知と心の記憶を参考に真似っこしたのかも、と思う。

「今、何してんのかしら。水神さま」
「居なくてもいいんじゃなかったのか?」
「だって信仰してたのに助けてくれなくなったし、お父さんのことは見捨てるし」
「…………」
「あっ今の無し。あんたは気にしないで」

 急いでへらっと笑ったけど不自然に思われた気がする。それは普段は露見することのない――彼にだけはどうしても見せたくない弱みだった。私はよろめいて柱に手をつき、明後日あさっての方向に視線を送る。

 すると、案ずる面持ちの御影が一歩踏み出してきた。ばちっと目が合うと胸が気圧けおされて息が苦しくなっていく。ダメだ。パニックだ。ぐらぐらと揺れる視界が暗転してヒヤリとした時には、私は既に彼の腕の中に崩れ落ちていた。
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