月鏡の畔にて

ruri

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第八話 孤独な氷輪

【水神の巫】1

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 御影は朝に弱い。

 月夜見の水を以てしても身体は万全ではなく、起き抜けはだるさに耐えながら亡霊のように部屋をさまよう。一瞬だけ陽の光を浴びて、さっとカーテンを閉じ二度寝。昔の病の名残で、今でも直射日光には当たりたいと思わない。
 ゆったりとした動きのまま寝巻きのローブを着崩し、腕の包帯を取り換える。刻まれた傷――かすったような銃創や刃傷に、やはり覚えはない。命に関わるものではないにせよ、御影は痛みに顔を歪めてしまう。いつもの露出の少ない外行きの服に着替えれば、白い包帯は布に隠されて見えなくなる。
 身支度を済ませると、温かいコーヒーを一杯飲んで一息つく。そして、晴れの日には黒い傘を手に、一人暮らしの小屋を出る。

「南南西の風、東の山に笠雲……」

 道中、開けた場所での観天望気。一度家に戻り、鞄に折り畳み傘をひとつ忍ばせる。

 街中では銀髪姿ではなく、愛する者たち――例えば義兄や義姉、親友の冴、霞、名も知らぬ恩人――彼らの外見を借りていることが多い。それは過去への無意識の逃避で、自己嫌悪からなる変身願望である。
 今日も黒髪の兄の装いで初夏の街を歩く。向かうのは勿論図書館。目的はひとえに暁に会うことだ。

 *

 いくつもの本棚を横切り、目当ての司書エプロンを目線で探せば、配架を終えて事務室へ戻る彼女の姿が遠くに見えた。能面の下で心を踊らせながら、御影は幻術を解き静かに近づく。

 黒ローファーと長靴下の足元がリズム良く歩むたび、臙脂色のチェック柄エプロンスカートが空気を含んでふわりと膨らむ。スカートに備わったポケットは三日月と本をかたどった白刺繍入りで、彼女の愛用する古びた手帳が刺さっている。丸襟の長袖シャツの胸元には大粒のアメシストのブローチ、髪は毛先にかけて紫へグラデーションするボブカットと橙色のヘアピン。そしてつり目がちの大きな瞳は、彼誰時かわたれどきの空のような色合いだ――つくづく、この胸を打つ姿をしている。
 ああ。暁が、髪先を揺らして振り返った。

「元気かい? 酷い暑さだな」
「どーも……あんたが来たらもっと暑くなんのよね。羨ましい、涼しそうで」
「体温が上がるのか。冷やすか」
「待って、嫌な予感すんだけどっ」

 御影は手袋を取り、氷のような指先で暁の左手に触れる。クールな無表情の裏で余計な悪戯を思い付き、銀髪姿で恭しく跪き顔を綻ばせた。

「体調はいかがですか、お姫さま」
「こっ……殺すぞ!」
「その手の罵詈雑言は初めてだ」
「そんな、私が王族の末裔だからって、あ~~」

 からかい文句に悶える暁、頬の緩みが抑えきれていない。意外とまんざらでもないようだ。意趣返しに、額も冷やせ、姫の命令に従えないのかとまで圧をかける始末である。「計算が狂った……」と困惑しつつ、差し出された額に右の掌をかざしてやる御影。ちなみに発案者は必死にぎゅっと目を閉じている。

「あ、あんまり図に乗ると無視してやるわよ」
「……好きにすれば良い。本望だ」
「いやっ嘘! 冗談だって」
「君が次に目を開けたとき、果たしてそこに僕が居るかどうか」
「ホラーじゃん。一旦ストップ」
「ああ……実際は茶化してる場合でもないしね」

 穏やかな声音に暁の目がぱちりと開く。御影が右手を下ろせば、暁の柔らかな両の手がそれを掴んで包み込んだ。掌から温度が伝導して、御影の耳が仄かに染まる。

「不安か?」
「ぜ、ぜんぜん」
「レダの王族の濃い血を引くおかげで、君は過激派に忌み嫌われる。月鏡の先住民『銀血族』とは文化やルーツが異なるから、昔からずっと剣を交えてきたんだ。迫害もされるだろう」
「そんなの昔のことでしょ」
「経験したこともない過去の出来事に、人は縛られるんだよ。昔の記録や記憶は自分や身内そのものだって言わんばかりに、感情を引き込まれてしまうらしい」
「……」
「短命なのに、必死に思想は継いでいくんだ。不思議でならないよ。記憶ほど曖昧模糊で信頼できないものはない。人の脳は都合よく記憶を書き換えるそうだしね」

 膝をつき抑揚なく語る御影の、白く長い睫毛が震える。双眸は暗い青に沈んでいた。それで暁は少し息がつまりそうなる。落ち着いた口調で『記憶』を語る彼が、空しく儚く見えてしまって。
 不思議な色彩の目は僅かに潤み、眉は下がる。そこに滲む複雑な想いなど、人の心に疎い『彼』には皆目分からないのだ。


「あっ! 暁先輩なのじゃ!!」

 突如、鬱屈な空気を活気に溢れた女声が打ち破った。暁は正面で「ひぎぁあああ」とかいう変な悲鳴を上げ、動物みたく身の毛を逆立てる。御影は何事かと声のしたほうへ一瞥をくれ――――そのまま凍りついた。
 溌剌とやってきた少女は暁よりも華奢な発展途上の体つきで、エプロンスカートの肩紐を着崩していた。波打つ亜麻色のセミロング、大きな垂れ目、芯の強そうなつり眉の可愛らしい顔立ちには見覚えしかない。

「つるぎ……」

 御影の口を衝いたのは、かつて何度も呼んだ名。幼い頃に失くした義姉の名前だった。
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