月鏡の畔にて

ruri

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第三話 常夜は夢幻

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 ○

 それからの数日は、仕事場への行路さえ生気が抜けたように歩いた。頭の中を鬱陶しいほどに支配して、思考を鈍らせる『彼』のすべてに私は手を焼いていた。

 だって、あの女なに? 邪魔でしかない。直接隣にいるところは見たことがないが、きれいな白髪に目を引く容姿、上背もあって彼に釣り合いそうだ。私みたいに喧嘩することなく、自然な会話で仲を育んでいるのだろう。羨ましい。私も彼の隣に居て、和気あいあいと喋ってみたいのに。
 でも、彼が姿を変えてまで会いたい女性ヒトなんて、それしかないでしょ。私に隠したいってことなんだから、あれがきっと本命で。信じたくない。考えたくない。なのに仕事も手につかないくらいに脳を焼いて、馬鹿みたいに思考をこびりつかせる。
 私より大切な人なんていてほしくない――――はあ。いつの間に気持ちが肥大化していたのだろうか。本当に好きになってしまったらしい。

 ほら、おかしくなって彼の幻覚を見てる――――。

 あれ?

 なんか目の前にいるんだけど。
 私の肩に手を触れて、銀髪の間から見下ろす青目は呆れたと言いたげにやや伏せ気味だ。なんでこんなことに。

「あんた……ご本人?」
「君の目は飾りか? それとも前すら見えないほどの盲目か」
「ん?」
「ぼんやりし過ぎだ。ぶつかった相手が僕で良かったな」

 よし、状況を整理しよう。
 私は考え事に集中しすぎて、歩いてる最中は見えていなかったらしい。で、案の定また人にぶつかった。怪我はまだ無いけど、今週5回目だ。でもついに彼に衝突した。やばくね?

「相変わらず迂闊なようだから説明すると、君は僕に肩をぶつけてつまづいたが、僕がなんとか支えて事なきを得た。肝を冷やしたぞ。全く世話が焼けるな」
「あ、あっそ。ご説明ありがとう」
「怪我は?」
「ない」
「そうか」

 これはまた、久々に体の温度が高まってる。心臓の鼓動もおかしい。なんでだよ。状況理解したら、もうなんかここに居ることさえ恥ずかしいし情けなくて。この感情を揉み消したくなる。

「そっ、そもそもあんたのせいなのよ! これ全部!」
「何の話だ」
「なんで平気でいられんのよ。あり得ないんだけど」
「主語が無いから、君の文脈では伝わらないぞ。言いたいことがあるならはっきりしろ」

 わざとらしい困り顔を作る彼には憤慨しかない。本当に気が付かないのだろうか。鈍感過ぎない? 私は結構感情が出やすいほうなのに。でも、訊いてしまえない。こんなところで私は怖じ気づく。

 と、能面の上に乗った青い瞳がどこか遠くを見据えた。私がその眼の冷たさに驚いていると、「こっちだ」と急かし促す彼の声が聞こえた。やがて彼の手袋に私の手は捕まって、あっという間に通りから日の差さぬ路地裏へ引き込まれた。
 壁に背をつける私。それを覆い隠すように被さる背の高い彼。


「?????」
「静かに。少し待て、やり過ごすぞ」

 わけもわからないで小さく頷く。もはや、近いしか感想がない。思考回路のオーバーヒートだ。だってこんな、みたいなこと。他人に見られてたらやばいし、そもそもあんたは平気なの!?

 数分して行ったか、と呟き、やはり涼しい顔をした彼が私から離れていった。私はもう考えるのをやめかけて、逆に冷静になっていた。

「あんたさ、これやってて気がないとか言わないでよ」
「……さっきから何を主張したいのか理解できない。本当に大丈夫か?」
「へん。もういい。後で詰めてやるから覚悟してろ」
「ああ、そうか。流石に驚いたか。暁、今のは大した話じゃないよ。非常にまずい相手が出てきたから、僕らの姿を不可視化させただけだ。道端より路地裏のほうが確実に隠れられるだろうしな」
「……へえ。都合が悪かった、ってことね。相当悪いわよ、あんた」
「何か大きな勘違いをしていないか?」
「あんたがでしょ」

 一触即発。有刺鉄線が張り巡らされたような空気の中、私たちは黙ってしまった。彼は依然として飄々としてて、感情の起伏が分かりにくいけれど。
 こういう本気の喧嘩をしたいわけじゃなかったのに、何してるんだろう。そう思うと、懸念点がぽろりと口から零れてしまった。

「白い髪の女の人……」
「が、どうした」
「会うとまずいってことでしょ。今そこ通ったから、隠れたのよね?」
「いや、違うが。それは君の妄想だ」
「嘘やめろ。あれ何よ。彼女いんの!?」
「…………」

 口元に手をやって、彼が長考する素振り。

「君以外に頻繁に会う女性はいないぞ」
「……そうなの?」

 なぜだろう。嘘を言ってる気がしなくて、眼前がふらりと揺れた。あ、動揺してるんだ、これは。
 彼は嘘つきだけど、案外態度や雰囲気にそれが出てしまう。もうなんだかんだ一年近く彼を追っているから、嘘なのか本当なのかは、もう充分見分けられるようになっていた筈なのに。
 それが通じない程の嘘? それとも……

 目の前が暗転して、膝から崩れ落ちた。
 彼に再び支えられたことに気がつくのは、それから数分してからだった。
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