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慶応二年(1866年)夏から冬
第46話 煙が目にしみる
しおりを挟む居留地の火が消し止められたのは亥の刻になった頃だった。昼四ツの出火から半日も燃え続けたことになる。
日本人町の三分の二と運上所、外国人町の四分の一が焼き尽くされ、港崎の遊女だけでも四百人が死んだ。
開港後に起きた、最大の惨事だった。
「――水神くん」
「あれ、弁天ちゃん来たの」
夜も更け、洲干島弁天社境内は焼け出され行くあてのない者であふれていた。
残った家と店々、そして関外からも、なけなしの古着と食べ物が集められたが秋の夜は冷える。さっきまでは火にあてられて熱かったのになァと軽口が飛んで、肩を寄せ合う人々は小さく笑った。
少し離れてそれを憂鬱な顔で眺めていた水神に、弁天と宇賀は歩み寄った。
関内にいたものの燃え盛る炎を遠く見ているだけだった水神は、泣きそうな笑顔を弁天に向けた。弁天はその体をそっと抱いた。
「つらいね」
水神の耳もとでささやいて弁天は腕に力をこめた。弁天も不思議と気がふさいだ。
この居留地は、元々横濱村だ。鎮守として何もできなかったという事実がそこにあり、想いのやり場に困る。
水神は弁天の背をさすってなだめ、体を離した。
「どうしてつらいのさ。君はこの土地の鎮守だ。土地は変わらずここにあるだろう? 少しばかり家が焼けたって、どうせ人は変わらず暮らしていくよ。気に病むことなんてない」
「じゃあ水神くんだって、悲しんじゃ駄目」
「悲しくないよ――なんだろうな、これは」
水神は困ったように笑う。
村から町となって七年半、作り上げてきた開港場がわずかの間に燃え尽きた。人々の営みはあまりにあっけなく、儚い。それを眺めて何かにしみじみしただけで、悲しいわけではないと思うのだ。
だがそんな災いをものともしないのが、人だった。境内を見回っていた男たちが弁天に気づいて声を掛けてきた。
「この坊の姉さんか何かかい。家は無事なのか?」
「ああ、はい。大丈夫ですよ」
進み出て答えたのは宇賀だ。ちゃんと大人の男もいるのだとわかって向こうは安心したらしい。
「なら良かった。焼けなかった家に女子供はできるだけ預けたんだが、子どもという歳でもなし。だが独りだったから気になっててね」
「お気づかいありがとう。見つかってホッとしました」
行方知れずの弟をやっと探し当てたかのように言って、宇賀は頭を下げた。
良かったなと離れていく彼らは日本人町のどこかのお店者なのだろうか。幾人かで皆の世話を焼いて回っているようだった。自分らの家がどうなっているのか知らないが、明日からの商いがどうなるかもわからないのに元気なことだ。
「――うん。我が鬱々とすることなんてないんだね、きっと」
「でしょう? 僕のことまで案じてくれるんだもの、祠から出なきゃよかった」
焼け出されたばかりの人に気づかわれ、神としてはとても居心地が悪かったのだ。唇をとがらせる水神に、弁天はやっと笑った。
増徳院にも同じように家をなくした人々が一時の宿を求めて集まっていた。中には具合の悪い者もいる。医者に担ぎ込まれるほどではないが、煙にまかれたり足をくじいたりしたのだ。
心をいためる薬師如来だったが、数日後ほとほと感心した様子で弁天堂にやってきた。人目の多い中で出歩くなど珍しい。
「まあ聞いてよ弁天ちゃん、ヘボンさんていう西洋のお医者さんのことなんだけど」
「ヘボンさん? 谷戸橋のすぐ向こうに住んでる人だよね」
「あら、知ってるの」
別に知り合いではないが、そういう人がいるのは弁天も聞いていた。医術や英語や西洋のいろいろを日本人に教えているのだとか。それを興奮気味に教えてくれたのは小僧の平助だった。
「その人の塾に平助と同じ年頃の子がいて、話したことがあるみたいよ。平助は漢籍も経典もたんと習ったから他の学問が気になるんでしょ」
「まああ、平助も立派になったわよねえ。それで、そのヘボンさんのお弟子さんたちが寺にいる病人を診てくれてね、目の薬がとても効いてびっくりしたの」
「目の薬?」
「煙にやられてかすんでしまった目がすっきりするんですって。まぶたに塗る膏薬ではなくてね、目に垂らす水なのよ」
薬師はしみじみとつぶやいた。
「私も西洋の薬について学んでみたいかも」
「……いやあ、仏さまに弟子入りされたらヘボンさんも困るんじゃない」
と思ったが、ヘボンは上海に出かけていて横濱にはいないらしい。ならばと玉宥は薬の作り方を尋ねてみたのだが、勝手に教えられないと断られたそうだ。
その薬はヘボンの助手を務める日本人が精錡水という名で売り出してもいるらしい。だが焼け出され困っている病人からお代を取るつもりはないので何かあれば頼ってくれと言い置かれたとか。
「そんな喜捨のような振る舞い、びっくりしたのだけど。玉宥が苦笑いしていたわ」
「なんで?」
「ヘボンさんてね、西洋の神さまのことを教えているんですって」
幕府の禁じる西洋の神。だが禁じられても助けてもらえば有難く思うのが人の心というものだ。そうやって帰依する者を増やそうとしているのかと玉宥は考えたのだった。檀家を増やし寄進を狙う玉宥にとっては競合する相手ではないか。
「――お金を取らないってところでもう、負けてない?」
「弁財天さま、増徳院だって貧しい者からは取りませんし施します」
身内をかばってみた宇賀だが、本堂の再建に取り掛かったばかりの増徳院が寄進を受付中なのはその通りだった。人の暮らしは世知がらい。
それにしてもヘボンが西洋の神に仕えているとは。そこに仏が薬の作り方を教わりにいくのはさすがにどうなのか。
そう思い直したものの、薬師は少しだけ残念に思った。
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