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36 かつての英雄のよう
しおりを挟む今日もいつものように老夫婦の家で手伝いをしていると、家の前が騒がしくなった。
窓の外を見れば、立派な馬車が停まっている。
(っ……もしかして、ヴァレリオ様……?)
ヴァレリオのことは、良い思い出として心の奥に仕舞い込んだはずなのに、フレイの胸はドキドキと高鳴ってしまう。
だが、直後にドンドン、ドンドン、とけたたましいノックの音が響いた。
(ヴァレリオ様じゃない。……って、ヴァレリオ様のノックの仕方を今も覚えているだなんて、僕は未練たらたらじゃないか……)
ヴァレリオではないとわかっているのに、フレイは勝手に期待して落胆する。
そして怯えきっている老夫婦の代わりに、フレイが扉を開ければ、ぽっちゃりと肉付きの良い男が立っていた。
「お、おまえが、噂のゾーイか……」
見知らぬ男が、フレイの全身を舐めるように見ている。
なんと無作法な男なのだろうか。
だが、周りには男の護衛もいるため、おそらく相手は貴族だろう。
変に目をつけられないよう、フレイは笑みを浮かべる。
「なにか御用ですか?」
「っ、噂以上だっ! ゾーイ。お前を、ティム・ルワショー様の妻にしてやるぞ! 光栄に思えっ!」
「…………」
どうだ、嬉しいだろうと言わんばかりの顔で、見知らぬ男性に言い寄られる。
そして、勝手に他人の家に侵入した男は、茶を出せと命令し始めた。
迷惑行為に、フレイは二の句が継げない。
「早くしろっ! オレ様は、ルワショー伯爵家の次男だぞ!」
そう言って、男がふんぞり返っている。
……なぜ、偉そうにしているのかわからない。
(僕が平民だからって、何も知らないと思っていそうだなぁ……)
彼は次男だ。
つまり、伯爵家の後継者ではない。
賢ければ文官、剣の腕があるなら騎士になれるが、こんなところで油を売っている男に、そのような才はないと思われる。
それに、フレイを妻にすると言い寄っているのだから、他家に婿入りする予定もないのだろう。
(今は平民を見下しているけど、後々自分も平民になることを、わかっていないのかな?)
「ゾーイが可愛ければ、愛人にしようと思っていたが、気が変わった。こんなに美人なら、オレ様の妻に相応しいっ!」
随分と上から目線な態度に、フレイは頬がひきつらないように必死だった。
だが、公爵夫人ではなくなり、今は平民となったフレイに拒否権はないにも等しい。
「何を迷うことがある? こどもか?」
「はい。子どもがいる僕が伴侶では、ティム・ルワショー様のご家族が反対されるかと思います。それによって、貴方様の評判が下がってしまうかもしれません。ですので……」
「ふっ。謙虚なところもますますいじらしいな!」
「っ、」
(なんでそうなるのぉ……)
ティムが舌なめずりをし、フレイは触れられてもいないのに、全身がぞわっと寒気がした。
そして老夫婦に抱かれるレイチェルの顔を覗き込んだティムが、ニタリと笑う。
「ガキはうるさくて嫌いだが、ゾーイに似て可愛いじゃないか」
「…………ありがとうございます」
「そうだ、ゾーイの子どもにも、教育係をつけてやろう。高待遇を約束するぞ?」
何を言われても拒否したい。
そう思っていたフレイだが、ティムの目が笑っていないことに気づいた。
決して善意ではない言葉の意味を、フレイが理解できないはずがない。
(っ、レイチェルを人質に取るつもりなんだ……)
連れて行け、とティムが命令すれば、老夫婦に抱かれていたレイチェルは、あっさりと奪い取られてしまう。
「っ、やめてくださいっ! こどもには、手を出さないでっ!」
いくらティムが非道な行いをしても、貴族だ。
今のフレイの立場では、ティムの怒りを買わないことが精一杯だった。
(誰か、助けてっ……)
フレイが祈った瞬間、地響きがした。
パッと顔を上げれば、騎乗した騎士の大行列が、こちらに向かってきていたのだ。
その先頭に立つ、見覚えのある人物が近づいて来る。
(っ…………ヴァレリオ、様……ッ)
久しぶりに見たフレイが愛した人は、威風堂々としたかつての英雄のような姿だった。
「――私の妻に、何の用だ?」
先程まで威張り散らしていたティムが、腰を抜かして震え上がっていた。
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