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◆三年生◆
★13★ 孤独星と孤独星。
しおりを挟むヴォルフ達と共に手引きされた裏口から屋敷に入ると、中は僅かな明かりの一つもなく、真っ暗な闇と静寂だけが息づいていた。使用人に扮した間者に話を訊けば、幸いなことにあの女は使用人達の給金を少しでも払い渋る為に、住み込みではなく通いの人間を使っているという。
しかもこの屋敷の噂を聞いて、それでも働きに来るような人間ばかりだ。身許のしっかりした人間はほとんどいないと聞かされた時は呆れもしたが、考えてみれば好機とも取れる。
現在屋敷内にいるのは領主と囲い女、それにその女がさらに囲っている男と、二十人の使用人に扮したならず者だけだ。こうなっては最早賊の住処だが、これがスティルマン家の現状だと思うと情けなさで目眩がする。
今から初めての反抗期がてら反旗を翻そうとしているこちらにしてみれば、何とも締まらない盛り上がりに欠ける舞台だ。
――とはいえ、所詮ここまで来れば通るべき道は一つ。
「ヴォルフ、並びにその娘と仲間達に、これより新たなスティルマン家当主の座に着く者として頼みたい」
協力者達を屋敷の外に逃がして残ったのは、闇に溶け込む自分の声に耳を傾ける獣と人間の息遣い。金と緑の双眸の中で唯一赤い双眸をしたヴォルフが、俺が不慣れな暗闇に飲まれると思ったのか、懐から首飾りを引っ張り出して「おう良いぜ、坊ちゃん。うちの連中はそんじょそこらの賊には負けん」と小声で答える。
ヴォルフの持っている首飾りのお陰で前面にいる犬達の顔は辛うじて分かるが、その後ろにいる全員の姿がはっきり見えている訳ではない。
しかし正面にいるヴォルフのその心強い言葉に頷き返し、乾いた唇を一舐めしてからその“依頼”を口にする。
「現当主にはまだ利用価値があるので死なれては困る。従ってこれについては俺が直接当たるが……それ以外のこの屋敷内に巣くう有象無象のゴミはどんな姿になろうと構わない。一人残さず片付けろ」
どうせすぐに放棄する肩書きであろうとも、今夜の暴動の前でだけは、それが最大級の武器となると信じて。
***
階段の踊場でヴォルフとビアンカと別れ、当主の寝室に通じる廊下を壁とステッキを頼りに進む。夜目が利くというヴォルフから借りた首飾りを使って周辺を照らし、思い通りに動かない脚に焦りを感じながらも慎重に一歩ずつ身体が許す範囲の速度で急いだ。
騒がしくなり始めた階下の音を耳にしながら辿り着いた寝室のドアの前で、ほんの二、三度深呼吸を繰り返してから重々しいドアを押し開いた。
「――騒がしいぞ。もう少し静かに戻れんのか、愚息が」
ドアを開けて最初に耳にしたその言葉に、思わず嗤いが込み上げる。いつまでも変わらない男だと。他者を踏み台にすることを何とも思っていないその声音に、いっそ清々しさすら憶えた。
「これはこれは……夜分遅くに申し訳ありません父上。普通に戻っても歓迎されぬものだと思いまして」
「戻れと言った覚えもない」
互いに相手を嘲る口調であれ、この男と会話をしたのも、それどころか顔を見たことすらいつぶりか思い出せない。思えば血の繋がり以外何もない俺とこの男とは、基本的に昔から接触をはかるということ事態が稀だった。
何度も繰り返した円環の中で、この部屋に足を踏み入れたのは初めてだ。自分の生まれ育った屋敷でありながら、ただの一度も見たことのなかった室内を見るのがこんな時だとは皮肉なものだと嗤ってしまう。
視線を走らせてみて多少驚いたことは生活感のなさと、意外なほどの質素さだった。しかし代わりに室内にはムッとするような強い酒と、怪しげな香の煙と……何度も繰り返す円環の中でよく嗅いだことのある、鉄の匂いが充満している。
「――ええ、俺も戻りたくはありませんでした。ですが事情が変わった。貴男は領主として最も恥ずべき行いを取った」
自分の血縁者が室内で剣を握った姿が現実離れしているせいか、やけに鮮明に目に焼き付く。それとは別に、この男が剣を握っている姿を初めて見たせいかも知れないが……。
もう一度目の前に立つ、最早他人と称しても良い男を頭から爪先まで観察する。記憶の中に靄がかかったように揺らぐこの男の体格から考えれば、いつの間にか随分と小さくなったように感じた。それが喩え目の錯覚であったとしても、今や姿を視界に捉えたところで怯える対象にはなり得ない。
同じ髪と、瞳の色。背格好も当然だが良く似ている。俺は目の前にいる男の歳まで生きたことはないが、数十年後にはこの落ち窪んだ目と痩けた頬をした、神経質で陰気そうな姿になるのか。
自分は屋敷に息づくこの男の影と気配に常に怯えていたというのに。まるで長い悪夢のようだったこの年月の全てが霧散していく感覚。喪失感と虚無感が体内を満たしていく。
「は、いつの間にやら随分と生意気な口を叩くようになったものだ」
「貴男は愚かさに拍車がかかった。その女狐をどうするおつもりです。俺は自分の後始末しかしませんよ」
「全く煩わしい。これも、薬を盛り、領地の金を吸い上げるだけで満足していれば見逃したものを……。奴隷商と手を組んだことは流石に目に余った」
長く吸引し続けた麻薬の影響か、息が続かないのだろう。苦しげに乱れた呼吸と共に吐き出される言葉は、体内の痛みに堪えているようだった。
「随分とその女にご執心だと思っていたのに、こうもあっさりと壊してしまうとは。どうやらこちらの見当違いだったようだ」
「当然だ。私はこの女に執心したことなど一度もない。それを何を勘違いしたのか、この部屋の抽斗にまで手を付けようとするとは……」
冷たく吐き捨てる言葉に嘘偽りはなさそうだ。所詮この女狐も、この男の下らない画策の手駒に過ぎなかったらしい。
「そうですか……しかしそれであれば、貴男は一体誰に執心したことがあるというのです父上。俺の知る限り貴男はずっと屑の外道だ。よもや今更母上だったなどと言う訳でもありますまい」
大した答えを期待せずにそう訊ねると、思いの外強い口調で「お前の母親のことは口にするな」と返された。……話題にするのも嫌だということか。それは愛情をかけられた憶えのない女に向けられたものだとはいえ、何とも言えない後味の悪いやり切れなさが残る。
「そうですか……貴男のお陰で、今初めて母上に同情しましたよ」
「生きていればお前の母親も同じことを言っただろう。あれと私はある意味表裏一体だった。あれも他に想う相手がいたが、私同様に家名の為に生き、家名の為に全てを失った」
この期に及んで何を言い出すのかと内心思ったが、興味がない訳でもない。遂に長年の確執から息子に反旗を翻されたことここに至って、この男がどんな言い訳をするのか見てみたかった。話の先を促すように無言を貫けば、ややあってから目の前の男が口を開く。
「随分と昔の話だ。私にも人生をかけて愛したいと思った女性が一人だけいた。お前の母親との婚姻が結ばれていたせいで結婚は叶わなかったが……この女を傍に置いたのは、彼女と声が良く似ていたことと、彼女が好んで口ずさんでいたその歌を知っていたからだ。これにそれ以外の使い道などない」
物に向けるように吐き捨てられた言葉と視線の先には、赤い水溜まりの中に倒れたまま天井を見つめる女狐の姿があり、その瞳にはもう野心と欲にまみれた光が宿らない。
こうして静かになってみれば、やはり顔の造作は整っていたのだなと妙なことに感心してしまった。
「さながら歌い鳥ですか。しかし籠に囲って囀らせるには、少々代償が高すぎましたね。貴男が他に囲った女達もこうやって始末をつけたのですか?」
「……あれは我が家の政敵がバラまいただけの噂だ。羨むような役職でもないだろうにご苦労なことだ。私もわざわざ火消しをするのも面倒なので捨て置いていたが、あの稚拙な嘘を真に受ける愚か者が、よもやこんなに近くにいるとは驚きだな」
「では何故そのようなまどろっこしい真似を? 長年これだけ不名誉な噂が一人歩きしたのです。本当にそうしたところで、誰も……実の息子である俺にしたところで、今更貴男をこき下ろしたりはしませんでしたよ」
あからさまな侮蔑を含んだ物言いをする目の前の男に、腸が煮える気がした。何よりもこんな場面で、こんな下らない男の挑発に揺らいだ自分が腹立たしい。
「お前はいつかの私だ。今星の巡りに抗ったところで、いずれ私になる。あの学園には確か、お前がその脚になった元凶の娘がいただろう。幼い頃のお前が随分執心していた、な」
俺の問いにこれ以上答える気はないということか、話題の矛先は突然アリシアの方へと向かった。
「ああ……ご存知でしたか。当時俺が脚を駄目にしたことについて、全く興味を持っておられなかったので、ご存知ないものだと。ですがそのご心配には及びませんよ、父上」
自分でも驚くほど平坦で抑揚のない声が口から零れ、条件反射の一種となっている微笑が口の端に浮かぶ。ラシードが見たらまた気味悪がりそうだと思いながらも、この笑みを浮かべていなければ今にも目の前の男を殴りそうだった。
「残念ながら、俺が貴男のようになることは【もう二度とない】。かつての貴男が欲して諦めたものを手に入れた。それは彼女ではありませんが、同等か……ともすればそれ以上に価値のある娘です」
意外にもその皮肉だけで充分だったのか、男はそれ以上アリシアについて何も言及しては来ない。
「俺は恨むほど貴男を知らない。知ろうとも思わない。ですが父上、一つお聞かせ願いたいことが」
「……何だ」
「俺は“もしも”などという馬鹿げた問を投げかけるのは好きではありませんが、仮に“もしも”当時のその時に戻って過去をやり直せるとすれば――……父上はどうなされますか?」
「はっ、言うに事欠いて……実に下らんな」
そう吐き捨てつつも会話自体を切り捨てはしないつもりなのか、一瞬だけ考える素振りを見せた男は、それでもやはりこちらの考える範疇を越えない呆れるほどにつまらない答えを口にした。
「お前の言うその馬鹿げた“もしも”があったところで、私は恐らく繰り返すだけだ。その時選んだ答えの他を選ぶことは出来ん。お前の母親にしてもそうだろう。私達は結局のところ根底が良く似ていた」
「そうですか」
「不満か?」
「いいえ。父上であれば、そう仰ると思っておりました」
「……そうか」
淡々と業務連絡のように交わされる言葉にはさしたる熱も、情も籠もらない。ただ高所から低所に流れる水のように羅列となって落ちるだけだ。
しかし部屋を出ようとドアに向かう俺の背に「クラウス」と声がかけられて、煩わしく感じながらも渋々振り返れば、そこには意外なことに極々僅かではあるものの、苦悩の気配が読み取れた。その微妙な気配の変化に、つい今し方失われたはずの興味が頭をもたげる。
「半月前に選定の星が流れた。お前も見ただろうが……まだ天文官達に報告をしてはいないようだな」
しかしあっさりとこちらの期待を裏切り、聞き捨てならない単語を吐いた男に眉を顰めて「それは脅しのつもりですか、父上」と言葉を投げれば、目の前の男は僅かに嗤って吐き捨てるように言った。
「馬鹿を言うな、今更私がお前を脅したところでどうなる。医者の見立てでは私の命も来春まで保つかどうかだ。後はどうなろうが構うものか。お前も精々残りの時間を楽しめ」
「その場合父上にはそれ相応の処罰が下りますが、よろしいのですか?」
暗に今度はこちらから長年の不正行為と今回の一件で“爵位を剥奪される”ことを仄めかせば、男は意外なことに少し愉快そうに口許を綻ばせた。まるでこの会話が続くことを面白がるように。
「お前のその耳は飾りか? 言っただろう、どうなろうが構わんと。この身体で平民に堕ちたところでそう長くは苦しめん。むしろ――」
そこで息が苦しくなったのか、男は苦悶の表情を浮かべて胸を押さえた。春まで保つかどうかという医者の見立ては真実なのだろう。
「お前は上手く私を切らんと苦しむ時間が長引くぞ。勝負所を間違えるなよ」
その視線がすでに俺ではなく、足許で物と化した女に向けられていることがほんの少しつまらなく感じて、我知らず「父上」と、呼ぶつもりもなかった言葉を投げかけていた。
「……何だ、まだ何かあるのか? 私はこれからこの女を棄てる方法を思案をせねばならんのだが」
再びこちらを捉えたその瞳が、今までになく柔らかで穏やかな物に見えて、そのことに驚く自分がいた。それこそ“もしも”幼い頃にその遠かった背に声をかけていれば、こうして振り返ったのではないかと思わせるほど自然に、目の前の男は視界に俺を入れたのだ。
緊張で上擦りそうになる喉を抑えて「短く済ませます」と低く声を落とす。それから何を思ったのか、俺は自分ですら分からないまま「頭を撫でて下さいますか」と口にしていた。
本当に意味が分からないが、この場ではそれが正しいことのように思えて。階下からは依然として獣のうなり声と人の怒号が飛び交い、この部屋の床には血溜まりに倒れ込む女がいるのに――それでも。
この場ではそう望むことが自然に思えた。
そして一瞬何を言われたのか分からず、目を見開いてこちらを凝視していた相手は、けれど。
「ふん、何だそれは。下らんな」
そう言って剣を片手に握ったまま歩み寄って来たかと思うと、それを床に放ってから、手を伸ばしかけて。女の血に塗れたその右手をガウンで拭うと、やや伸び上がるようにして俺の頭上に手を置いた。
左右に二度行き来した掌が離れ「これで……満足か」と問うその顔は、戸惑いと、よく分からない感情に振り回されて渋面と評して良いものに彩られている。それが合図のように、重石のように体内にのし掛かっていた感情が少しだけ軽くなった気がした。
これまでの有象無象を赦した訳ではなく、今更それが赦せる訳もない。そうでなくとも一度どころではなく何度も袂を分かった相手だ。これから先も交わることはないだろう。
――ただ、これから先の人生に待つわだかまりが一つ減った。俺も、恐らくこの男も、そう思うことにしたのだ。
「ええ……それでは後始末がありますので。父上も俺が手札として切るまで僅かな時間だとは思いますが、精々養生して下さい」
慣れない感覚を味わった後だと人間は普段より注意力を失うと言うが、この時の俺は正にそれだった。階下からの音が聞こえなくなったからといって、外の安全も確認せずにドアのノブを回して――開いた。
すると瞬間「まだその部屋から出るな坊ちゃん!!」と暗闇に飲まれた廊下の向こうから、焦りの滲んだヴォルフの声が聞こえた。それとほぼ同時に目の前に血塗れの男が現れ、その男が手に持った大振りのナイフが自分を狙って振り上げられた姿が視界に映る。
咄嗟にステッキで受けようと構えかえたその時「クラウスッ!!」と誰かが叫び、直後に後ろに腕を引っ張られた。急激に力をかけられたせいで堪えがきかない膝がガクンと崩れ、背中から絨毯の上に転がる。
受け身を取り損ねて胸に直にかかった衝撃に咳き込みながら、何とか体勢を立て直して身体を起こすと、そこには白い犬に喉を食いちぎられて絶命した男と、つい今し方まで向かい合って言葉を交わしていた“父”の背中。
そして――……背中から生えるナイフの切っ先が目に入った。
酷くゆっくりとした映像で俺の方へと倒れ込んでくる“父”の身体を、腕を伸ばして抱え込むように受け止める。
「父上……?」
生温く鉄臭い飛沫が顔を濡らす中で思わず呆然とそう呟くと、僅かにその肩がはねて「間の抜けた、声を、出すな」と苦しげな声が返った。目の前の光景に呆けた俺の元に駆け寄って来たビアンカは、こちらの安否を確認すると、この部屋へと駆けて来るヴォルフの元へと身を翻す。
残されたのは、たった今【親子】になったばかりの二人だけで。初めて感じる感触ではないのに、溢れる血で滑る手の感覚を持て余して呆然とする。
「……父上、何故俺を庇ったりなど……」
喉から出たのは誰の声かと思うようなか細い物で。腕の中で深々と腹に突き立ったナイフの柄を握り締め、口から血を流していた“父”が微かに笑ったかと思うと、次の瞬間喘ぎながら「屋敷に、火を、放て」と呟いた。
理解が追い付かずにその顔を見下ろす俺を“父”は、しっかりと見据えて再び口を開く。
「この座から、孤独から、逃げろ、クラウス」
唇からは夥しい血液が溢れ、今際の言葉さえ不明瞭な物へと変えていく。それでも、まだ、腕の中の“父”は焦点の定まらなくなりつつある瞳に、一人息子である俺を捉えて言い募る。
「泣くのか……哀れな、私達の、息子。私達、は……お前……どう、愛せば、良いのか、分からな……」
弱々しく伸ばされた手がぎこちなく頬に触れて――力なく落ちた。こうして初めて交わした親子としての会話が、最後の会話になるのだと分かっていれば。何度もあった“もしも”を探して踏み出して来なかった自分を、今ほど愚かだと感じたことはなかった。
このスティルマンという家が代々何を諦めて壊れたのか、今となってはもう全てが遅く。その最後を看取るのが自分だという円環ループから逃れることだけが、出来ない事実としてここにはある。
膝をついたまま事切れた父を眺めていた俺をヴォルフが引き立たせ、ビアンカ達の屠った賊の中から背格好の似た男を俺の部屋に引きずって行く。
屋敷中にあるランプを倒して火が床を舐める様を確認してから再び“父”の部屋へと戻り、ヴォルフの助けを借りて“父”が唯一あの女に開けさせなかった抽斗を力任せにこじ開ければ、中から現れたのは古びて色の変わった手紙が二十通ほどと若い男女が描かれた姿絵が一枚だけ出てきた。
その手紙と姿絵を、胸の上で手を組ませた“父”の亡骸の上に置く。眠るように閉ざされた目蓋が開くことは今夜を限りに【二度とない】のだろう。
そこに描かれた女性は母ではなく、どこかアリシアに面影の似た女性で。そんな彼女だけが俺達の知ることのなかった優しげな表情をした“父”を知る、唯一の……彼だけの番星だった。
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