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◆二年生◆
*35* 温かいのは君のせい。
しおりを挟むパチパチと生乾きだった薪が暖炉の火に炙られて立てる音に耳を傾けながら、その上に簡単な夕飯用のスープを入れた鍋を提げてグルグルと木匙でかき混ぜる。
煮炊きがし易いように間口を大きく取ってある暖炉は暖かで、犬ゾリの座席と呼べないような簡素な台に座り、お尻を突き上げられながら走った外の寒さとは全く無縁の場所だ。ここまで着ていた物を近くに干したけれど、この分だと明日の朝には乾くだろう。
出来ればもっと早く乾いてくれるとより助かるんだけど……今着ている服は借り物でダボダボだから、あんまり落ち着かないのだ。
しばし床に雫が落ちる様を見つめていたけれど、背筋を伸ばして見上げた天井には大きな梁が一本通っていて、長年の間に溜まった煤がこびり付いて黒光りしている。ゴツゴツと節くれだった表面が何とも心強い。
小屋自体は雪の重みで潰されないように石組みで造られているから、火の暖かさが充満するまでは寒いけれど、一度暖まれば冷えにくくなる。ベッドは小さな物が三台とくたびれたソファーが一台あり、最高で四人ぐらいが寝泊まり出来る造りになっているらしい。
本日は“一月十一日”。外は生憎の大雪だけれど、綺麗に数字が揃うとそれだけで特別な気分になる。
現在私と推しメンがくつろいでいるこの小屋は、私をここまで連れてきてくれた犬ゾリ便の親父さんが所属する協会が使っている中継地だ。本来はここで犬を休憩させたり、同業の人達と情報や荷物の受け渡しをする為に、各要所に設けてあるらしい。
何故すぐに王都に戻らずここにいるのかといえば、推しメンの身体の衰弱ぶりにあった。見送りのない屋敷から私が肩を貸して、ソリまで引きずるように連れ戻った推しメンを一目見た犬ゾリ便の親父さんは、吹雪の中を強行軍を強いて連れ帰ることを拒否したのだ。
私も屋敷内で推しメンを見た時からそう感じていたので、特に揉めることなくここまで連れてきてもらうことに。親父さんの見立てでは、二日は絶対に動かせないとのことだった。
そこで本当なら一度王都に戻る予定だったところを、親父さんが荷台が空のまま帰るよりは、そのまま次の配達先まで仕事に行った方が実入りが良いというので、じゃあ帰りに拾ってもらおうかなということで話をつけたのだ。
ここに着いた一日目は、親父さんにベッドに運んでもらうなり、すぐに気を失うように昏々と眠り続けてしまった推しメンの脚を、私も一緒のベッドに潜って温めた。決してやましいことはしていないぞ? 自分の脚の上に推しメンの脚を置いてさすっただけだからな!
因みに私達の関係は一応“頭の良さを買われて都会のお屋敷に奉公に出た兄”と“故郷で帰りを待っていた妹”ということになっている。故郷に届いた兄からの助けを乞う手紙を読んで迎えに来た、というシナリオだ。
信じてくれたかどうかは微妙だけど、犬ゾリ便の配達人は大抵自分も脛に傷を持っているので他人のことも詮索しない。
とはいえ私の仕送り全額とラシードやカーサに借りたお金は、ここに運んでもらうまでの手間賃と袖の下に消えてしまったから、足りない分を補う為に推しメンからもらった首飾りを手放すことになったのは辛かったなぁ……。
でもまあ、親父さんは暗い中で周囲を照らす首飾りを大いに気に入ってくれたし、推しメンの安静が第一だから仕方ない。いくら大切な首飾りだといっても、それをくれたのが推しメンだから特別意味があったのだし。
新たな職場は過酷だろうけど、どうか主人の為に犠牲になってくれ。
天井の梁を眺めるのに飽きたので、ふわりと立つ湯気に顔を当てて冷え切った鼻の頭と指先を暖めながら、鍋から引き揚げた木匙に口を付けて少しだけ舐めた。
舐めてみて思い出したのは、空腹は最高のスパイスだという格言。味がどうこうという贅沢な感覚は体調が万全の状態でこそだ。したがって今の私は何を口にしても、それが温かければ美味しいと感じるに違いない。
「うん、味は……こんなもんかな。むしろこれ以上煮たところで煮詰まっちゃうだけだわ。ねえクラウス、こっちはそろそろスープが出来るけど、脚の方はどんな調子? 立てないようだったら肩を貸すよ」
私はこれ以上足せる材料も、調味料も、ましてまともな感覚も持ち合わせていないので、強引に調理を終了させて背後のベッドに腰掛ける推しメンを振り返る。その声で木桶に張った熱湯に外の雪を溶かした、ちょっと熱めのお湯に脚を浸していた推しメンがゆっくりと顔を上げた。
「ああ、こっちもだいぶマシになった。しかしだな……」
その声から滲む困惑の色に気付いた私は鍋を火から下ろし、暖炉の傍にある無骨なテーブルの上に鍋敷き的な物を探したけれど、そんな気の利いた物は見つからなかったので仕方なく直接置いた。
よくよく見れば同じ様にして使われているのだと分かる鍋底の跡が、いくつもスタンプのように黒く残る。僅かに焦げた木の香りが室内に漂ったものの、それもすぐに収まった。
そこで何か訊ねたそうにこちらを見ていた推しメンの隣にお邪魔する。固いベッドは二人分の体重に軋みもせず、少し湿ったような感触の熊の毛皮が敷いてある野趣溢れる造りだ。実際にちょっと獣臭い。
だけどお尻の下に敷かれた毛皮はすぐに僅かな体温で温もり、冷え切った私達を温めてくれる。感謝を込めて毛皮の表面を撫でていると、隣で推しメンが木桶のお湯をパシャンと鳴らす。
それが“こっちを向け”という合図に感じて、知らず下がっていた視線を上げて隣の推しメンを見れば、当たりだったようで「手を……」と躊躇いがちに口にした。
言われるまま素直に両手を出せば、それを見た推しメンが眉をしかめて「痛むか?」と訊ねてくるから「あんまり痛いとかって感覚はないけど、ちょっと痺れてるかな?」と応じた途端、推しメンの大きな手に私の真っ赤にあかぎれた手が包み込まれる。
お湯に浸した脚をさすっていた推しメンの手は温かくて、なのにそれに加えて包み込んだ手の中に吐息を……? ちょっとヤバいこれ何どういう状況うわああああ死ぬ尊死にするからああああ!!!
「ちょ、待っ、待って待って待って? 別にこんなの全然大したことじゃないから落ち着こう、な?」
グググッと後ろに身体の重心を倒す私に「これで大したことがないなら、俺に対する処置も大袈裟だろう!」と、珍しく声を荒げた推しメンが反対側に引っ張る。その押し問答で木桶のお湯がバシャバシャと派手に揺れたので、私もそれ以上騒いで貴重なお湯を転かすのは得策でないと渋々抵抗を諦めた。
大人しくなったことを確認した推しメンが再び“ふううぅ”と吐息を吹き込む。手が温まる頃には失神していそうな気がするものの、あまりに真剣な表情の推しメンに正直な私の脳内カメラが唸りを上げているのも事実だし……。
構図的に傍目からだと手を食べられてるみたいに見えそうだな、などと馬鹿なことを考えて小さく笑えば、気付いた推しメンが手に落としていた視線を“何だ?”とばかりにこちらに向ける。
「んーん、何でもない。ただあんまり長いことこうしてると、せっかく作った温かいスープが冷めちゃうからさ、適当な所で解放してよ?」
直前までの照れが少し落ち着いたので、そうお互いの額が擦れるくらい間近に顔を寄せて囁くと、推しメンはダークブラウンの目を細めて少しだけ笑った。どうやら彼なりの了承の意らしい。
熊の毛皮の敷かれたベッドの上で、隣合わせに座っていると身分差を一瞬だけ忘れられた。懸命に私の手を温めてくれる推しメンの睫毛が、吹き込んだ吐息が戻ってくる風圧で揺れる。
くすぐったいような、面映ゆいような。
幸せなようで、物悲しいような気持ち。
――……結局それから十分後。止めるタイミングを失った私達は、暖炉の前に椅子を並べて、少しだけぬるくなってしまったスープの鍋を、もう一度火にかけて温まるのを眺める羽目になった。
今日は昼まで眠っていたので食事は昼食と夕飯の二食で事足りたので、もしも親父さんが戻って来た時にここの宿泊費を請求されても、そんなに凄い金額は取られないで済みそうだ。
私が表で鍋に雪をすくい、それを火にかけて溶かした少量のお湯を使って食器の片付けをする間、背後では推しメンが家具伝いに歩行練習をしている。詳しい事情は推しメンが話さないから訊かないけれど、助けた時の衰弱ぶりから脚の後遺症が悪化したのは明らかだった。
背中を向けていても床を歩く時に引きずる音が、私の中で反響する。もっと早く駆けつけていたら、それとも家に帰らせなかったら、こんなことにはならなかったはずなのに――……。
何故だかこのところ推しメンの幸せが遠ざかっているように感じる。それがシナリオのせいなのか、ヒロインちゃんとのエンディングから逸れてしまったからなのかはまだ分からない。もしもそうだったら次はどんな手を打てば良いんだろうか?
モヤモヤしながら片付けを終えたものの、悩んでいたって仕方ない。だったらまずは建設的に迎えの来る明日に備えて早めに就寝するか――と、なったところでハタと気付く。今日は推しメンの意識があるのだから、昨日と違って本人に訊いてみねばならない出来事に。
「あのさ、寝る時は火事とか中毒が怖いから暖炉の火を落としちゃうんだけど、クラウス今日は一人で寝る? それとも寒いから昨日と同じで私と一緒に寝る?」
……結果として聞き方を誤ったと思ったのは、推しメンが派手な音を立てて倒れた時だ。今の聞き方だと受け止め方によっては私、痴女じゃないの? やつれて弱った同級生の有無を訊かずに同衾とか、前世だろうが今世だろうが通報案件だよね?
死刑宣告を待つ囚人の気分を味わいながら、推しメンがゆっくりと立ち上がるのを固唾を飲んで待つ。複雑な表情で立ち上がった推しメンはしばし私の顔をジッと見つめていたけれど、何かを諦めた風に首を横に振った後に「寒いから一緒で良い」と苦々しげに言った。
***
「そっち毛布足りてる?」
「平気だ。そっちは足りてるのか」
「こっちも大丈夫。脚が冷えると良くないから、毛布が足りない時とか脚が冷たい時は夜に起こしてよ。気を遣ったりしちゃ駄目だよ?」
「子供じゃないんだ。それくらい分かっている」
暖炉の火を落としてしまえば真っ暗になる小屋の中で、狭いベッドで身を寄せ合っていると、まるで冬籠もりをしているリスのような気分になる。一応ベッド脇にロウソクとマッチを用意してあるものの、後々請求されるかもしれないことを考えるとあまり使いたくないからね。
真っ暗なのは未だに大嫌いだけれど、傍にある温もりの正体が推しメンだと思えば不思議とこの暗闇も怖くはない。
「そう? じゃあ脚をもっとこっちに寄せなって。くっついた方がお互いの体温で温まるんだから。何ならクラウスの脚、私の脚で挟んであげるよ。うちって貧乏だからさ、私が小さい頃は冬になったら母様のベッドに潜り込んで、そうやって脚を温めてもらったんだよ」
言いながら当時を思い出して笑っていたら、急にそれまで背中を向けていたクラウスがこっちに向き直る気配がした。真っ暗だから顔は見えないけれど、何となく呆れているような気配だ。そこで「何か呆れてる?」と単刀直入に訊ねれば「だいぶ呆れてはいるな」と言われてしまった。
けれどその声に怒りや不機嫌さは含まれていなかったので「でも温かいんだよ?」と私が笑えば、ふくらはぎの辺りにヒヤリと冷たい感触が走る。
かなり血行が悪いその脚を「よっと」とふくらはぎで挟み込めば、クラウスがビクッと身動いだ。
「うわ、思ったより冷たいねぇ」
「あ、当たり前だ。その、あまり冷たいようなら離してくれ。風邪をひかれでもしたら困る」
そう言って逃げ出そうとするクラウスの脚を、グッとふくらはぎに力を込めて捕まえる。ここまできて往生際の悪い奴だな。
「もー……諦めて寝なよ。明日の朝は早いんだから。それまでに脚の血行を良くしてくれたら、ちょっと冷たいくらい良いの。ほら、良い子良い子」
ベッドからはみ出しかけた背中に手を回してさすると、クラウスも観念したのか、ベッドの中心に身体を寄せた。こうして暗闇で過ごしてみて感じたのは、顔が見えなきゃ何をしたって割と平気なのではないかということだ。
「……ルシアは随分体温が高いな。俺は低いから羨ましい」
少しだけ眠そうな響きが混じったその声に「もっと褒めて良いぞ」と軽口を返すけれど、本当のところは違うんだよ。いつしか小さな寝息を立て始めた背中に手を回して、その胸に自分の耳をくっつける。
聴こえるのは、憎たらしいくらいにゆっくりと脈打つ心臓の音。
自分の胸に手を当てれば、小動物の心臓のような忙しない音がする。
「――私、本当は末端冷え性なんだよ」
だから何が言いたいかと言うとだね。
今夜の私が温かいのは、全部全部、君のせいだよ。
◆◆◆
次回から最終学年が始まります(´ω`*)
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