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◆二年生◆
*29* 花の祈りと、星々のダンス。〈2〉
しおりを挟む一度グッと後ろに深く沈み込むように身体を屈めた後、今度は前に倒れ込みそうなほど深く踏み込んだ姿勢で、手にした模擬剣を上方斜めに構えた推しメンがエルネスト先生の懐に飛び込んだ。
まるで地上から彼方にある星の距離ほど遠いその胸元の紋章を目掛けて。
星を求めて手を伸ばすように、水面を目指してもがくように。懐に飛び込んだ勢いを殺さずに、身長差を活かして下から掬い上げるように放った一撃は、けれど。
大きく上体を逸らしたエルネスト先生に難なくかわされてしまう。たたらを踏むことすらない危なげない回避に、会場が沸いた。その身長差が、体力差が、決して縮まることのない実力差が……私は。
――私はそれが、所詮“私達”では駄目だと突きつけられたようで、酷く悔しい。
勝負はほんの瞬き一つ。エルネスト先生の伸ばした模擬剣の切っ先が推しメンの胸元にあった紋章へと吸い込まれて。真っ白だった胴着の胸元は、まるで大輪の花が咲いたように赤く染まった。
成程ね、確かにこれは倒れる子も出る訳だ。偽物だと分かっていたって、遠目からでもジワジワと広がる染みを見ていたら、心臓が凍り付きそうになる。そんな敗者を案じる気も知らないで、勝者の為の拍手が、歓声が、会場を揺るがす。
この場にいる皆が讃えるエルネスト先生の姿は、私には見えない。
巨峰色のエフェクトに塗り潰されたその姿は、私にしか見えない。
ああ……だけど良かった。どうやら最後に踏み出した一歩は、ヒロインちゃんの心を少しは動かすことが出来たみたいだ。
その証拠にそれまでの輪郭線がないエフェクトは、シャボン玉のような薄い殻を得ることが出来たようで、剥き出しだった真珠色の淡い光がランプに収められたようにくっきりと輝いた。心なしか輝きにも艶が増している。
ただなかなか立ち上がれない推しメンを心配したエルネスト先生が、手を貸そうと差し伸べるのが見えるけど、推しメンは痩せ我慢をしてその申し出を断ったらしく、一人で立ち上がった。
推しメンは切っ先の掠めた胸元を押さえているけれど、実際は脚が痛むのだと知っている。だけどそれを悟らせないほどすんなりと立ち上がってみせる推しメンは、私が知っている前世のように、とても孤独で格好良いよ。
ここからでは表情が見えないけれど、推しメンが救護班のタンカに載せられて運ばれる姿を見た私は、今の試合に熱狂した生徒達が手摺りに寄ってくるのを押し退けて、会場内の救護室へと向かう担架の後を追いかける。
一人だけ流れに逆行する私にぶつかった生徒達が舌打ちをするけど知るもんか。だけど背後からはヒロインちゃんが私を呼ぶ声がしたから、少しだけ身体を捻って振り向けば。
「あの、リンクスさん! クラウスに、最後の挑戦がとても格好良かったと、お大事にと伝えて下さい!」
そうこちらに来ようと流れにもがくヒロインちゃんの張り上げた声が、生徒達の中に飲み込まれていく。でももうその言葉だけで、推しメンの努力は八割方報われたようなものだから。
「分かった! ティンバースさんからだって、ちゃんと伝えておくよぉ!」
ヒロインちゃんが持たせてくれたお見舞いの言葉と、私がなかなか呼べない“クラウス”呼びをさらりとやってのけてくれたんだよと、きちんと推しメンに伝えに行くから。これは、そう。次の手を考える為の戦略的撤退ってやつだ。
後はラシードとカーサのどちらかが骨を拾ってくれると信じよう。だからヒロインちゃんは勝者の為に、そこで拍手を贈ると良いよ――……なんて、物分かりの良いことを言える訳ないじゃないか。
見てろよ、推しメンが退場した天恵祭で【星女神の乙女】になんてさせてあげないんだからなぁ! と、心の中で悪役のテンプレな捨て台詞を吐きながら、私は推しメンの運び込まれた救護室へと急いだ。
***
救護室の扉の前で手当てが終わった出て来た治癒師の人達に頭を下げて、そっと救護室の中へと入室する。入室した途端にツンと香る消毒薬の匂いと軟膏の匂いに、思わず鼻の頭に皺を寄せてしまう。
幸いにも先に何人か運び込まれていた出場者は皆軽傷だったのか、一つのベッドを除いて他は空っぽだ。私は唯一人の気配があるそのベッドに近付き、脇にあった簡易椅子に腰掛ける。
「フフ、去年とは立場が逆になっちゃったけど……調子はどうよ?」
赤い染みの付いた胴着から、簡単な病院着のような前開きの服に着替えてベッドに横になっていた推しメンは、私の言葉に「この状態で元気だと思うか?」と呆れたように笑った。
「あーのねぇ、旦那が元気じゃないのは分かってますってば。今のはただの社交辞令みたいなもんだよ。そうじゃなくてさ、伝言預かって来たの」
「ふん、敗者に伝言とは良い性格だな。それをわざわざ伝えに来るルシアもだが……まあ良い。相手はどこの馬鹿だ?」
「うわ、せっかく教えに来たのに卑屈だな~。あんまり卑屈だと、相手にも今の言葉通りに伝えちゃうよ?」
私がそう笑って言うと推しメンは無言でベッドから上半身だけ起こし、私の座っている椅子を指差す。
その仕草を“もっと椅子を寄せるように”とのジェスチャーだと思った私が椅子に座ったままベッドに近付けば、推しメンは椅子が床をガリガリと擦る音に眉根を寄せて、ベッドの端をポンポンと叩いた。
そこでようやく一連の仕草が“ベッドの端に座れ”だったのだと気付いた私が「それくらい口で言いなよ」と笑えば、推しメンは「そっちの察しが悪いだけだ」とこちらに責任を転嫁してくる。
……まあ良いさ、惚れた弱みだ。こっちが折れてやるよ。
ほんのちょっと緊張しながら勧められたベッドの端に腰を下ろすと、推しメンは満足したのか小さく頷いた。
その仕草が小さい頃に熱を出して不安になった私が、母親を呼んだ時に似ていて。思わず笑ってしまったら、推しメンにデコピンを食らわされた。弱っててもそこはちゃんと突っ込むのかよ。
強襲された額を撫でながら、ヒロインちゃんから預かった伝言を伝えると、推しメンは「そうか」と随分あっさりとした反応をした。ははあ、これは喜んでいる姿を人に見られたくないとか、そういう思春期なやつかな?
だとしたら一人で思う存分喜びを噛み締めさせてあげるのが、出来たファンの取る行動だよね――ってことで……。
「それじゃあ伝言も伝えたことだし、私は会場に戻ってカーサ達の応援でもしてくるよ。もしも二人のうちどっちかが優勝した時に【星女神の乙女】を選ぶことになったら、お助け要員として私がいなくちゃ駄目だろうし」
適当にこの場を離れようと口にした嘘は、自分で言いながらも結構真実味があって良いのではないかと内心自画自賛する。実際問題あの二人のファンは凄い盛り上がりを見せるだろうから、その中から選ぶとなるとファン同士で流血沙汰になりそうだもんなぁ……。
「あ、だけど表彰式が終わったら二人も連れてここに戻ってくるから、帰りの心配はしないで大丈夫。何ならラシードにおぶってもらって一緒に――、」
“帰ろうね”と続けようとした私の唇を、推しメンがデコピンを食らわせてきたその手で塞ぐ。一瞬状況が分からなくて目をパチクリとさせていたら、推しメン自身も意外な行動を取ってしまったらしく、驚いた表情のまま固まっている。
ご褒美スチルとしては満点評価をしたいところだけれど、実際問題この状況をどうすれば良いのか分からんぞ? 一応仕掛けてきたのは推しメンの方なのだから、向こうの指示を仰ごうとそのダークブラウンの瞳を見つめる。
しかし何の反応もないことに“どうしたの?”と小首を傾げれば、ようやくハッとした表情になった推しメンの手が離れた。そこでこちらも「どうしたの?」と声に出して訊ねれば、推しメンは少しだけ逡巡する。
その姿がまたも小さい頃に何かして欲しいことがあって、だけど言い出せないでいた自分の姿に重なった。だから何となく「何か今して欲しいことある?」と声をかける。
しかも今更冷静になって考えてみたら、誰もいない救護室のベッドに二人きりって乙女ゲームなら鉄板のイベントじゃないか。あー、失敗したかも。もしやこれはヒロインちゃんがここに来るように仕向けるイベントだったんじゃないのか?
だとしたら“何かして欲しいこと”なんて、今からでもここにヒロインちゃんを連れてくることくらいしか思い付かない。気が利かなくてごめんよ推しメン!
“そうと決まれば今すぐにでも”と、私が意気込んで立ち上がりかけたその時だ。恐らく急に立ち上がろうとした私を引き留めようとしたのだと思うけれど、グイッと手首を掴まれて引っ張られたせいでバランスを崩した私は、そのまま推しメンの方にダイブした。
あわや顔面が激突するというスレッスレの場所で、横になっている推しメンの両側に腕を突いた私の困惑した表情が、同じく驚きで見開かれたダークブラウンの瞳に映り込んでいる。
――本当に危なかった。この勢いで突っ込んでいたらファーストキスの味は確実に鉄の味だったよ!? そんなの全然ロマンチックを感じない!!
好きな人を事故とはいえ組み敷いた状況で「これに懲りたら、次からは普通に呼び止めようね?」と返せた私、偉いぞ。鼻血も出さないで済んだし。
何よりもこの場所に誰もいなかったことを星女神に感謝しながら、ヨイセと身体を起こそうとした、はずなんだけど……。
「おーい、どうしたの? もう大丈夫だから補助しないでも良いよ、と、言うか……補助してくれるつもりなら逆効果だよ、それ」
いくら何でも混乱し過ぎだろうと内心苦笑しつつ、私の背中に回された推しメンの腕に起き上がろうと突いていた片手を添える。しかし、何故だか推しメンは腕の力を強めたばかりか、むしろ自分で起き上がって無言で私の身体を抱き寄せた。
おいおい……このベッドには催淫効果でもあるの? このゲームは全年齢向けの健全な乙女ゲームだったはずだぞ! それともイベントのシステムエラーで私がヒロインちゃんにでも見えているのか?
一言も発しない推しメンの肩口に頭をもたれかけながら、色々な憶測を立てつつも推しメンの出方を待つ。現状だと、凄く混乱しているだけという線も捨てがたいからなぁ。
それにもしかしたら、決勝戦に出られなかったことが今になって悔しくなって来たのかも。
心配だった胸部も痛むような素振りはしていなかったし、推しメンの上半身に倒れ込んだこの体勢だと脚に体重をかける心配はない。
だったら推しメンが落ち着くまでこのままで良いか。私の心臓が保つギリギリまでなら付き合おう。そう結論を出してジッとしていると、不意に耳許で推しメンがクツクツと喉の奥で笑った。
悲しんでいる訳ではないのかと安心した私が「何を笑ってんのさ?」と小さく訊ねれば、推しメンは「俺は何をしているのかと思ったんだ」と返ってくる。
その答えに「全くだよ。もう離れても良い?」と訊ねれば、それに対して「まだ、もう少し」と返ってきた。
私が初めて好きになった人は、厳密に言えば人ですらなくて。プログラミングされた世界を、複数の不幸を縒り合わせたシナリオに添って奈落の底まで突き進む、ただの可哀想な紙芝居の住人。
それがこんな風に体温を感じられるようになったら、もう諦めようにも諦められないくらい好きになってしまった。元から不毛な恋なのに、以前よりもずっと不毛になって、だけどずっと幸せに感じる。
前世の私は人間不信を拗らせきって、このまま一生誰にも執着しないで死ぬのかと思っていたから。こんな風に綺麗な心から来る物じゃなくても、執着出来るようになったことが嬉しいんだ。
哀しい訳でもないのに滲んだ視界に首を傾げていると、そんな私の耳許で「試合中にルシアの声が聞こえた」と小さく囁いた。
それから少し間を空けて「ラシードとカーサが勝つとしても【星女神の乙女】の選定が終わるまでここにいろ。選ばれて嫉妬を買うと危険だ」と、抱き締める腕に力を込めるから笑ってしまった。
結局私の不在中に終わってしまった天恵祭は、カーサとラシードの一騎打ちとなったそうで『手加減したらカーサが怒るでしょ?』と私に教えてくれたラシードが優勝。
その後しばらく【星女神の乙女】に選ばれたカーサが、ラシードの手の甲にキスをする瞬間を描いた生徒手帳サイズのカードが水面下で流通。
そのことについてカーサは文句を言っていたけれど、彼女の生徒手帳に一枚だけそのカードが挟まれていることは、ラシードには黙っておいてあげるからね。
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