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◆二年生◆

*25* “おかえり”と“ただいま”の距離。

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 本日は“九月十四日”。

 夕方の空が真夏の様相から徐々に秋へと向かって行く今日この頃。学園が夏期休暇の静けさから解放され、再び学生達の賑わいが戻ってからすでに今日で二週間が経過している。

 だというのに私の隣に置いたマグカップの持ち主は未だ姿を現さず、Aクラスにいるヒロインちゃんや、移動教室の時に一緒にいるクラスメイトに休んでいる理由を訊いても“病欠”という情報しか得られなかった……が。

 けれど私は推しメンの不在が一週間を越えた辺りから、薄々とだが思うところがあった。推しメンの領地までは馬車で一日半。手紙は夏期休暇中の物も合わせて五通送った。

 本当はもう少し送りたかったけど、ただの同好会仲間があんまり送っても迷惑だろうと思ったのに、その五通に対してすら生真面目な推しメンが一通も返事を寄越してこない。

 そこで考えついたのが、これが次なるシナリオルートの分岐点であるかもしれないということだ。他にも夏期休暇前の推しメンの唐突なデレ。あれはもしかしなくとも、本来分かれるべき分岐点を見失ってしまったが故の気の迷いだったのではないかと。

 でもそれすら一瞬霞んでしまうほどの驚きは、夏期休暇が終わって学園が始まった日の温室前。まだ暑いから中に入るわけではないのに、何となく三人が学園に戻ったら真っ先に集まりそうな場所といえば、そこしか思いつかなかった。

 その時は推しメンに会えるのだと疑いもしていなかったから、迷わず温室前に直行した私が見たのは、乗馬服に身を包んだ、紫がかった紺色の髪を結わない後ろ姿。バッサリとうなじの下で切り揃えられた髪に、私はかける言葉を見つけられずに立ち尽くした。

 でも、私のすぐ後にやってきていたラシードが『あらぁ、カーサったら髪を短くしたのね? 涼しそうだわ』とはしゃいだ声を隣であげる。

 その声に勢い良く振り返ったカーサの眩しい笑顔と、子供のように“褒めて欲しい”という欲求を前面に出した姿は可愛くて、私も今度こそ素直に『凄く良く似合うよ!』と褒め称えた。そうして駆け寄ってきたカーサは、私に抱きついて意外な告白をしてくれたのだ。


『ルシアのお陰で、ワタシは夏期休暇中に父上相手に意見してみたのだ。父上に“どうしても婿を取らせたいのであれば、ワタシの髪が元の長さに戻るまで待てる男が良いです”と言った。我慢せずに思ったまま意見を述べたのは初めてだったが、凄く気持ちが良かったぞ!』


 そう興奮気味にまくし立てたカーサから爽やかな柑橘系の香水が香った。前までしなかったその香りに少し戸惑って見上げれば、カーサはどこか恥ずかしそうに『ラシードが勇気が出るお守りにと、帰り際に持たせてくれたのだ』と微笑んだ。

 その後カフェテリアに場所を移して詳しく話を訊けば、夏期休暇に戻った領地ではすでに婚約者候補がいて、両親が引き合わせようと待ち構えていたのだとか。恐らく両親のその姿を見た時に、カーサの中でついに長年我慢していた感情が弾けたのだろう。

 長期休暇に学園から戻って“自分”という個人を出迎えてくれる家族。そんな簡単なことが、貴族として育つ者には難しくて。うちのような辺境領とは考え方が違えども、前世の記憶を持つ私には痛いくらいに良く分かった。


『恋人の話は婚約者探しを中断させる為の嘘だったと告白した時は、頬に一発食らってしまったが、父上も最後は認めてくれたのだ。少々痛い思いはしたけれど頑張ってみて良かった。稽古以外で痛い思いをしたのは初めてだが、話を聞いてもらえたのだから大きな収穫だろう?』


 そこにいつも家の体面を気にしていた、身体は大きいけれどその実とても繊細な友人の姿はなくて。


『――ルシア、ワタシを褒めてくれるか?』


 そう蕩けるように微笑むカーサはエフェクトの輝きなどなくとも、全身から自信を漲らせた大人の入り口に立つ女性だ。あんなに長くて美しかった髪を惜しげもなく切り落とした彼女は、それほどまでに気高く美しい。

 この世界では彼女の方が年上だけれど、前世の年齢を考えれば私の方がずっと上だ。それなのに、私はカーサの年頃には両親との仲を諦めきってぶつかろうとは思わなかった。そんな弱くて狡い私に向かって感謝を述べてくる彼女に畏敬の念すら湧いてくる。

 だから、少しだけキラキラした彼女や、人の心を見透かすようなラシードと距離を取りたくなった。

 昼休みの図書館裏。

 いつも通りのぼっち飯。

 彼がいないと私はこの世界でもやっぱり孤独で。推しメンのいない毎日に少しずつ周囲が馴染み始めて行くことが、私はとても怖い。それこそたった二週間その姿を見ないだけで、まるで“自分だけが見えていた幻なのではないだろうか?”と感じるほどに。

 今にもこの日常が普通になってしまうような気がして、ついついこのマグカップを持って昼食を食べるのが日課になってしまっている。

 後ろ向きなことばかり考えながら無理やり胃に詰め込む昼食は味気なくて、機械的に咀嚼そしゃくを繰り返していると、前世の食事風景との境目が段々とあやふやになってきて心が空洞になる。きっと消化にも良くないんだろうなぁ……。

 この二週間のうちに何度もラシードとカーサが一緒に食べようと申し出てくれたけど、私は弱っていると神経質になって前世の鉄仮面に戻ってしまう。二人にはいつでもへらへらと笑っている私だけを憶えていて欲しいから、無表情な顔は見られたくない。

 マグカップを見つめたまま、女子寮で出された朝食の余りのパンをちぎって口に詰め込む。味覚が駄目になっている今、わざわざカフェテリアで昼食を買うのなんて勿体ないから。流石に夏場なので水分補給をするために常温の紅茶くらいは買うけど。

 ちぎって、詰めて、咀嚼して、流し込む。基本的にこの四つの動作をパンと紅茶がなくなるまで続けるので、ひたすら無言のモグモグタイムが過ぎていく。

 持ってきたパンと紅茶がなくなれば、午後からの選択授業のために顔面のマッサージをする。へらへら笑っていなければ、私は“ルシア・リンクス”ではなくなってしまうから。

「よしよし、良い子だ私の表情筋ちゃん。さて午後からもにこにこ、へらへら、頑張って笑うぞぉ」

 パンッと両頬を叩いて勢い良く立ち上がったら、寝不足気味なせいで軽く目眩がしたけれど。

「……大人なんだから、しっかりしないと駄目でしょうが」

 宙に放った言葉はけれど、驚くほどに儚く溶けた。


***


 三十分前に日付が変わって本日は“九月十五日”。

 推しメンが不在であろうがなかろうが私は領地の期待の星でもあるわけで、日課である星詠みは毎晩かかさない。推しメンの不在を言い訳に星詠みまでサボってしまっては皆に合わせる顔がないからね。

 たとえ全く気乗りがしないで、部屋から観測地点に出向くまでに通常よりも三十分遅れようが、最近克服したと思っていた暗闇恐怖症が戻ってきて、推しメンにもらった首飾りだけでは夜の星詠みが怖いとかであってもだ。

 光量が欲しくてゴド爺の店で購入した星火石のランプを頼りに、誰もいない学園の裏庭までをおっかなびっくり歩く。前世から夜行性な生活を好む私にはこの時間の静けさ自体は向いているんだけどね。

 ――と、最後の校舎の角を曲がろうとした先に、芝生の上を仄明るく照らし出す灯りが目に入った。瞬間的に跳ね上がる脈拍に気付きながらも、私はそのまま足を止める。

 こんな時間にこんな場所に先客だろうか? 

 それとも巡回中の警備員さん?

 ここで下手に期待して爆死したくない私は、自らの期待値を下げて挑む逃げの作戦に出たのだけれど――……。

「いつまでもそんなところに隠れていないで、俺を出迎えてくれないか?」

 そう聞き馴染んだ声がごく近くでしたかと思うと、壁に背中を預けている人影が芝生の上に伸びた。壁の影に隠れきらない真珠色の光が漏れ出して、それが待ち人なのだと教えてくれる。けれど私は咄嗟に「嫌だ」と口から思ってもいない言葉を吐いてしまう。

 本当はすぐにこの角から飛び出して、壁ドンをしたまま“この野郎心配させやがって!”と言ってやりたい。なのに素直でない私は「出迎える期間は二週間前に終了してるんだよ」とさらに言い募った。

 あれ、自分から越えられないハードルをさらに高くする私ってば、本物の馬鹿なのかな? いやでも、時間が時間だからもしかすると夢遊病か何かを知らないうちに患って、それが見せている幻覚やら幻聴の類なのかもしれないし……。

 自分の中で良く分からない仮説だけがどんどん組み立てられて、肝心の一歩が踏み出せる気が微塵もしない。何なら後ろに一歩身体を引いてそのまま全速力で部屋に帰った方がまだスムーズに動けそうだ。

「――戻るのが遅くなったのは悪かったが、これでも学園に到着してすぐにここに来たんだぞ? それなのに肝心のお前の姿はない。来るのがもう三十分遅かったら今夜は諦めようと思った。それでおあいこにはならないか?」

 少し気まずそうにそう話す人影を眺めながら、それでも私は「ならない」と頑なに突き返した。何を意地になっているのか自分でも分からないけれど、今は推しメンを困らせたくて仕方がなかったのだ。

「手紙に返事は来ないし、Aクラスの人は病欠だとしか言わないし、そんなに長引く病気なのかと思ったら凄く不安だったし……。それを今夜三十分待ったくらいで簡単に許してもらおうとか、甘いんだよ」

 一言一言溜まっていた言葉を吐き出すうちに、ついでに涙までボロボロ零れてきた。不安の糸がプツンと切れると人間は涙腺が緩むというのは本当だったのか。

 まさか鼻血より先に涙を流す羽目になるとは全く考えていなかった私は、せっかくの再会に不細工な泣き顔を見られたくなくて後ろに一歩下がった。推しメンには悪いけれどもう無理。今夜はここで一時撤退しよう。

 そうと決まれば回れ右――……と思ったら、こちらの動きを読んでいたのか「させると思うか?」という声と共に角から姿を現した推しメンにグイッと腕を引っ張られた。突然のことでたたらを踏む暇もなかった私は、推しメンの胸に飛び込むような形で抱き留められてしまう。

 えちょっと何コレどういう状況なんだこんなのもう無理無理無理無理尊い尊すぎて死ぬ。

 思わず頭の中で一息にそう騒ぐ自分をどこか遠くに感じながら、何とか推しメンの腕の中から逃れようともがく。しかし意外なことに、学園内にいる他の男子生徒よりも華奢そうな推しメンはびくともしない。

 それどころか、暴れれば暴れるほどに抱き留める腕の力が強くなってる気がするんですけど!? これはご褒美か拷問か判断に困る!!

 第一顔が見えないことでこの抱擁が怒りから来るものなのか、親友との再会を喜んでいるものなのかが分からないのも怖い。これは私から何か言った方が良いのかと悩んでいたら、不意に耳許に「少し痩せたか?」と穏やかな声が落ちる。

 その声に若干鼻声になったまま「だったら褒めてくれる?」と聞き返せば、推しメンは「いいや、心配になる」とうそぶいた。密着しているからか、ドクドクと互いの心音が聴こえる。世間で言う親友の距離は思っていたよりもずっと近いんだなぁ。

 前世は誰かと再会することがあっても、会釈と愛想笑いしかしなかった私には分からないことだらけだ。まだ夏の夜は人肌を感じるには暑いのに、私はこの体温を自分から手放したくないと思ってしまう。まだ許していないのに矛盾している。


 ――――だから、許してあげる代わりに君から言って。


「普通はさぁ、帰ってきたら最初に何て言うんだっけ?」

 淡く光る首飾りに照らし出された泣き顔を見られたくなくて、首飾りを服の中でギュウッと握りしめてそう訊ねれば。推しメンは空気を笑みで震わせて、小さく「ただいま」と言ってくれたから許すよ。

 誰かが誰かの為に捧げる「おかえり」を君にあげる。

 無事で良かったって、今日を一緒に笑えるように。
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