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◆一年生◆

*8* あ、これには訳があってですね……?

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 ――パラッ、

 ――パラララッ、

 ――パラ……パタン。

 誰もいない静かすぎる図書館の西側では、たった一人の人間が本の頁をめくる音ですら大袈裟に響く。私が今読み終えて表紙を閉じた紺色の本は、いつぞやホーンスさんに選んでもらった臙脂色の児童書“みんなのせいざ”シリーズの内の一冊だ。

「今度は一目惚れした相手を“どうせ自分に惚れるだろうから”って理由で拐かす人攫いの話か……。相変わらずこう、倫理観が狂ってるなぁ」

 これが本日読んだ“美しい怪物と捕らわれ娘”の話に対する私なりの感想だ。もっと端的に言えば「頭おかしい」である。

 児童書であるにも関わらず、その読後感の悪さに思わずそう漏らした独り言ですら響くのだから、本当にこの西側には人気がない。

 私は隣に置いた鞄の中から、昨日借りた”愛妻家の楽師の悲劇”と一昨日借りた“野獣の一族に生まれた賢者”の話を取り出して、本棚のポッカリ空いていた部分に返却する。

 最近では寮の自室での睡眠時間を抜いたら、この場所で過ごす時間が一番長い。授業を受ける教室は移動教室とかもあるから、自室よりも少ない換算になる。

「……静かだなぁ……」

 真夏の外の暑さも日差しも、こことは無縁だ。

 ひんやりとした空気の中に埃と紙と、インクと歴史と、その他の何だかんだがミックスされたこの空間が今の私には心地良い。誰もいないのを良いことに思い切りだらけられる。

 中身を減らしてちょうど良い高さになった鞄を枕にして寝転がりながら、新たに何を読もうかと本棚に視線を走らせるけれど――夏バテなのか、なかなか本棚に納められている本の背表紙の文字が頭に入って来ない。

 今日は“七月十一日”。

 夏休みまでの日数も残り僅かなのに、エフェクトを持った攻略対象キャラが二人ほど足りていないのだが、そこはまぁ良い。

 あの今のところ毎日恒例で繰り広げられている、ヨシュア・キャデラックの【子猫ちゃんにならない?】イベントも、あと四日もその場に出くわさなければ攻略対象ルートが消失するはずだからね。

 いくら何でも手が早いと評判のチャラ男の前に、無垢なヒロインちゃんであるアリシアを連れて行くことは考えられない。世の中にはゲームを購入したら、全キャラクターをクリアしないと気が済まないという猛者もいるようだけれど、私は気に入ったキャラを何度も攻略する派なのでチャラ男は今回無視しよう。

 せっかくあの一週間前に主催した“捏造イベント”のお陰で、今は猶予期間が出来た状態だと言っても過言ではないからな。

 しかし、そのせいで私は一日の授業が終了すると同時に教室から逃げ出してここに入り浸っているのだけれど。

「うーん……スティルマン君は今頃、水色カイン赤色アーロンに邪魔されないでアリシアとの会話出来てるのかな?」

 そう呟いてみたところで、教室から逃げ出した私にそんな心配をする権利はない。それでも確実にあの一週間前の“捏造イベント”から二人の関係性は少しだけ改善している気がする。

「水色カインに会いに来るついでだとしても、ヒロインちゃんからスティルマン君に話しかけてくれるようになっただけでも大進歩だもんね。それは良いとしても――」

 ゴロンと本棚の方に向けていた視線を天井に向ける。元から立っている時でさえ高い天井は、最早蟻が見上げる空のように高い。何だか一気に自分が小さくなった気がして、私は一人で笑ってしまった。

 一週間前のイベントの誤算は、アリシアが私も込みで、スティルマン君と仲良くしてくれようとするところか。

 たぶん自分の教室で浮いているアリシアが、同性の友人を求めているからなんだろうけれど、本来一人が苦にならない私からすれば「正直ないわぁ」の一言で片が付いてしまうのだ。そもそも私だって入学してからこの方、同性の友人なんて出来ていない。

 でも私は別にお手洗いに一緒に行ったり、昼食を一緒に食べたり、恋愛の話を頬を赤らめてするような友人を求めてこの学園に入学した訳ではないからして――正直推しメンのヒロインちゃんであるアリシアに、どう対処すればいいのか分からないのだ。

 これはゲーム内で私が立てるポジションがないのだから当然である。

「あー……駄目だ、何か、色々考えてたら……眠い」

 前世から嫌なことや考えてもどうしようもない答えしか浮かんでこない時は、電源が切れるように眠くなる。苦しみを感じずに生きる上で“この先を考えてはいけない”と身体の方が勝手に判断してくれるらしい。

 生前の嫌な記憶と、虫食いだらけのゲーム知識以外は何もスキル的な物を持って転生出来なかった私としては、これは立派な“処世術”という自己防衛スキルだ。

 この考えてはいけない先の答えは、転生したことを知ってからずっと出ているのだから。

「……私が……」


       ――“■■■■■■■■■■■■のに”――と。


 タイミング良くそこで睡魔に力尽きた目蓋がおりてきて、私の意識は深い闇に堕ちていく。


***


 次に意識が戻った時、私はいま自分がどこにいるのかが全く分からなかった。ただ取り敢えず背中が悲鳴をあげているのだけはよーく分かる。瞬きをしながら天井を見上げるけれど、薄暗い坑のような闇が見えるだけで終点であるはずの部分が見えない。

「……うわぉ……寝過ぎた」

 もうね、寝過ぎたどころか感覚で理解したぞ。これは絶対に門限を大幅に過ぎている。私の正確な腹時計がそう告げているから間違いない。

 そもそも私はこの“処世術”スキルの使い勝手が悪いのだということを、すっかり失念していた。このスキルはプツッと嫌な時間から意識を切り離してくれる代わりに、覚醒するまでに結構な時間を有するのだ。

 恐る恐る背中を庇いながら身体を起こしたけれど、近くに置いてあったはずの星火石のランプがない。そのことに一瞬で血の気が引いた。喉の奥が狭まり、息が苦しくなる。

 この世界は、私の大嫌いだったあの世界とは違う。だから暗闇恐怖症なんてものは、もうとっくに克服済みのはずなんだ。あの頃みたいに失敗したら放り込まれた押入の中とは違う。

 私はもう無力な子供でもなければ、親の顔色を窺う生活とも無縁なのだ。なのに今ここで思い出すのは、あの押入の中。

 夏の暑い中で放り込まれた押入れの中は、真っ暗な上にじっとりとしていて、まるで得体の知れない怪物の腹の中のようで。衣服の虫除けに使われる樟脳しょうのうの香りは、自分を溶かす酸のように身体にまとわりつく気がしたものだった。

 咄嗟に感じたのは、懐かしさすら覚える剥き出しの恐怖。


 ――――嫌だ、怖い。

 ――――暗いのは嫌だ。

 ――――怖い怖い怖い怖い。


 私は無言のまま狂ったように鞄を弄って、中から教師にまで“安物”と称された宝物を取り出し、転生してから得た今の両親や領地の皆の顔を思い浮かべながら、暗闇の中で抱きしめた。

 身体を小さく折りたたんで呼吸が落ち着くのを待つ。心臓がドッドッドと、内側から身体を突き破りそうなくらい激しく打つせいで吐き気がしてきた。

 でもまさかここで吐くわけにいかないでしょうが。そんなことしたら明日から図書館出禁になっちゃうよ……! 悶絶しながらも堪えろ、何としても堪えるんだ私――と、必死になって自分に言い聞かせていたその時だ。

 こちらに近付いてくる靴音と、本棚の間から薄ぼんやりと漏れる星火石の灯りに、私は飛んで火に入る虫の如くやってきた相手に飛び付いた。いや、いくら私でも相手の予測ぐらいはちゃんとつけてある。

「ホーンスさん、急に飛びついたりして、すみません……私です、リンクスです。だけどあの、ちょっとだけこのまま。本当に、すぐ離れるから、ちょっとだけごめんなさい……」

 ここへ本を読みに来るようになってからというもの、ホーンスさん以外の人を見たことがない。それにこんな時間にここにいるのも、院生だと言っていたから寮の門限にも自由が利くのかもしれないし。

 私は譫言のように早口にそう言いながらも、逃げられないようにガッチリとその身体をホールドする。右手に天体望遠水晶を握りしめたまま異性に抱きつくとか、娘のこんな姿を父様が見たら卒倒しそうだ。母様は笑って許してくれそうだけど。

 無理矢理でも人様に抱き付いて心音を聴いていると、ようやく私の心臓も落ち着いてくるが……落ち着いてきたところで、ふと、ある疑問が頭の中に浮かぶ。

 それは極々単純な疑問なのだけれど――“あれ、そういえば私の体格でホーンスさんをホールド出来るだろうか?”と。

 見上げるほど大柄なホーンスさんに比べて、私は一般的な女子生徒よりほんの少し背が高い程度の中肉中背モブ体型だ。その私の腕で胴回りのほぼ大半を抱えられるものだろうか……?

 顔を(たぶん)相手方の胸板に押し付けたままそこまで考えてから、さっきとは別の意味で血の気が引いていく。私は悟った。うん、あの……人違いだわ、これ。

 こういう時にお嬢様っぽく“あ、眩暈が……”とか言って、一瞬で一切の機能を停止してしまえれば良いのに、惜しいかな、私は頑丈な田舎娘なのだ。非常に気まずいけれど謝らなければ……そう思って勇気を出して顔を上げた瞬間、今度こそ私の息の根が止まりそうになった。

 星火石ランプの柔らかい灯りに照らし出されたその表情の険しさに、思わず喉が鳴る。さよなら、今日までチマチマ貯めた好感度。いらっしゃい、今から痴女認定される私。

「あーっと……スティルマン君は、何で、こんなところ、に?」

「――それは俺の台詞だ。今が何時だか分かっているのか?」

 絶対に引きつった笑顔になっているであろう私の頭上から、不機嫌さを隠そうともしない声音で降ってきたその言葉に、今すぐ回れ右して逃げ出したくなる。

 推しメンからの怒気のこもった声音に首を竦めつつも“怒ってても美声だ”などと思ってしまうこの悲しい生態よ。

「所用を終えてから今日付けで返却予定の本があったから返却に来てみれば、入口で司書から星火石ランプが一つ返却されていないと聞いて――もしかしたらと思ってここまで来てみて正解だった」

 スティルマン君はそう言うと“はぁー……”と、心底呆れたように眉間に深い皺を刻んだまま溜息を吐いた。

「君の分の星火石ランプは今しがた返却を済ませて来たところだが……そこは別にもう良い。だがな、これだけは言っておく」

 人を諭すことに慣れた教師のように言葉を続ける推しメンに対し、私はと言えば「はい」と従順に返すことしか出来ない。

「君には女である自覚が足りていないのではないか? いくら眠かろうが人気の少ない場所で無防備に眠りこけるなど……。何かあってからでは遅いんだぞ?」

「えっ?」

「“えっ?”じゃない。現に君は今、俺と誰かを間違えただろう? その相手がもしもおかしな人間だったらどうするんだ」

「あ、えぇと……はい。仰る通りです」

「ふん――本当に分かっているのか怪しいところだが……まぁ良い。分かったなら、取り敢えずそろそろ離れてくれ。このままだと身動きが取れない」

「え? あぁ、ゴ、ゴメン!」

 慌てて自分が今どういう状況だったのか思い出した私は、顔から火が出そうな気恥ずかしさを感じて身体を離した。その時、スティルマン君の不機嫌な表情の中に少しだけ戸惑いのような物が見えたような気がしたけれど、流石にそれは都合の良すぎる見間違いだろう。

 気まずさから手早く帰宅の準備を整える私の背後で、星火石ランプを掲げてくれていたスティルマン君を振り返った瞬間に、何だか張り詰めていた物が緩んで泣きそうな気分になってしまった。

 そんな私に向かってスティルマン君はランプを持たない方の手を差し出して「暗がりが怖い星詠みなど聞いたことがないな」と皮肉を言いつつ、ゲームの中でも見せてくれた、その不器用な優しさを覗かせてくれる。

 二人で繋いだ手と手にいつの間にか恐怖は薄れて。ランプの灯りがトロリと優しく照らし出す闇は、生前の私が知らない温かさを持っていた。
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