上 下
85 / 97
後宮の偽女官

横溢の薫香①

しおりを挟む
 さてさて、と白狼は自室の寝台で天井を見上げた。あまりにくしゃみが酷すぎて、流行り病ではないかと疑われたので徳妃に近づくことなかれと部屋へ閉じ込められてしまった。
 風邪じゃねえんだけど、と言いたいが口が利けないことになっているので仕方ない。どうせ毒見以外に仕事はないし、しおらしく了承の意を示した後はこれ幸いとばかりに侍女の衣を脱いで寝台へともぐりこんだ。
 中衣ちゅういだけになると、体も軽いが鼻周りもぐっと軽くなった。実際のところ衣にも変なにおいが移ってしまっているので、くしゃみが続いていたのはそのせいかもしれない。
 徳妃の宮に来てから、鼻を刺すにおいが多いと思っていたのだが間違いではなかったということか。

「……てことは、原因はあのこうだなぁ」

 しかし今までそんなことは経験したことがない。誰か詳しい奴がいたら聞いてみるのに、今の監禁状態ではそれもままならないことがもどかしい。
 ただ体質によって香のにおいや煙が苦手という人もいるということは、市井しせい暮らしで耳にしたことはあった。しかしそれもそこらの怪しい草やらなにやらを混ぜた、質の悪い香の話だ。後宮で、しかも四夫人の一人でもある徳妃の宮でそんな出所でどころが怪しいものを使うはずもない。そして症状がでたのは白狼だけだ。
 そして、それにしてもと白狼は首をひねる。今朝の柏が徳妃の部屋から出てきたことが、今更ながらおかしいという事に気が付いたのだ。初日に寝室に忍び込もうとしたときは見張られているのかと思ったが、常に夜通し徳妃に張り付いているということか。
 あの柏という宦官の立ち位置が全く分からない。
 徳妃――事実であれば白狼の姉である明玲は、柏に対して敬称を用いていた。養女として貴族の家に引き取られたのだということが真実であったとして、柏はそれより上の立場ということか。
 銀月の宮では同性の護衛であるしゅうでも、主の寝室には許可がなければ入らない。そして夜は当然のように別室だ。
 産み月が近い徳妃の身体を慮ってのことか。それとも何かほかの理由か。たとえ宦官であっても、夫でもない男と同じ寝室で眠るなど白狼には想像ができなかった。

「……俺だったら絶対ごめんだけどな。お偉いさんの考えることは、わかんねえや」

 こんな時、承乾宮でなら銀月と話をしながら考えをまとめるというのに、一人では思考が堂々巡りとなる。しかも今は口が利けない設定で侍女となっている都合上、自然と独り言が増えた。
 街でくらしていたときは一匹狼を気取ってはいたが、市場の親父や店の者と話す機会がたくさんあったことを思い出す。他人と話さないことなどどうということもないと思っていたが、意外と自分はおしゃべりな性質なのではないか。
 扉と壁の向こうでは、下女たちが何事かきゃっきゃとはしゃぎながら走る音がする。礼儀にうるさい翠明すいめいのような年寄りがいないせいか、この宮は本当ににぎやかだった。裏事情はどうあれ、貧しい家から働きに来た若い娘たちにとっては大層良い環境なのだろう。
 やれやれ、と白狼はため息を吐いた。

「今日は飯時めしどきに呼ばれることもないだろうし、ただ寝てるっつうのも暇っちゃあ暇だな……」

 こうなってみると、ほぼ引きこもりの銀月が碁を打ちたがったのも分かる気がする。ここしばらくの軟禁生活で、すっかり出番のなくなった指もむずむずする気がするではないか。そのむず痒さが、碁石を持ちたがっているのか人様の財布を持ちたがっているのかは深く考えてはいけない。
 まあ仕方ない。ならばと白狼は寝台の上に起き上がった。
 手がうずくのであれば動かせばよいのである。
 思い立った白狼は部屋に備え付けられた抽斗から、ここで働くことになったときに支給された予備の領巾ひれを取り出した。さすが四夫人の侍女待遇である。領巾も質はともかく一応は絹で出来ており、両端をもってぐいっと力任せに引っ張っても伸びる様子がない。
 絹織物はそのつやや希少性から高級品扱いされているが、実際はかいこの吐き出すとんでもなく長い繊維を撚り合わせているため引っ張る力には滅法強いのだ。
 裳も同様だ。乾燥させやすくするために麻の繊維を混ぜているようだが、主になっているのは絹らしい。裳に関しても引っ張っても千切れないことを確認した白狼は、おもむろにそれをはさみで縦に裂いた。そしていくつかの長い布を作り、その布の端同士をぎゅうぎゅうと力いっぱい結んでいく。

「帯も使えっかな……でもあれちょっと固いからなぁ……」

 ぶつぶつ言いながら布同士を結び合わせ、出来上がったのは一本の長い「綱」だった。
 これを使って何をするかといえば、答えを言うまでもないだろう。寝台の柱にくくりつけて窓から外へたらせば、即席の縄梯子なわばしごの出来上がりである。

「へへ……見てろよ柏。ほえ面かかせてやる」

 夜にこっそり抜け出すのは目立つだろうけれど、昨夜の様に皇帝がくれば柏の気も逸らせるしなんだったら皇帝があの宦官を引き留めておいてくれるかもしれない。銀月が一緒にくるならそれを皇帝に伝えてもらい、より長く時間を稼いでもらえばなお良しだ。
 そうなれば、宮の外には逃げられなくても家探しする程度はできるだろう。
 白狼はにやりと笑いながら、出来上がった長い綱を寝具の下に隠したのだった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く

gari
キャラ文芸
☆たくさんの応援、ありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。  そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。  心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。  峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。  仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。  ※ 一話の文字数を1,000~2,000文字程度で区切っているため、話数は多くなっています。    一部、話の繋がりの関係で3,000文字前後の物もあります。

後宮の隠れ薬師は、ため息をつく~花果根茎に毒は有り~

絹乃
キャラ文芸
陸翠鈴(ルーツイリン)は年をごまかして、後宮の宮女となった。姉の仇を討つためだ。薬師なので薬草と毒の知識はある。だが翠鈴が後宮に潜りこんだことがばれては、仇が討てなくなる。翠鈴は目立たぬように司燈(しとう)の仕事をこなしていた。ある日、桃莉(タオリィ)公主に毒が盛られた。幼い公主を救うため、翠鈴は薬師として動く。力を貸してくれるのは、美貌の宦官である松光柳(ソンクアンリュウ)。翠鈴は苦しむ桃莉公主を助け、犯人を見つけ出す。※表紙はminatoさまのフリー素材をお借りしています。※中国の複数の王朝を参考にしているので、制度などはオリジナル設定となります。 ※第7回キャラ文芸大賞、後宮賞を受賞しました。ありがとうございます。

スマホの小言

阿賀野めいり
キャラ文芸
とあるスマホからみた、人間(持ち主)の話。

さらばブラック企業、よろしくあやかし企業

星野真弓
キャラ文芸
 大手ブラック企業に勤めて三年が経った深川桂里奈はある日、一ヶ月の連続出勤による過労で倒れてしまう。  それによって入院することになった桂里奈だったが、そんな彼女の元へやって来た上司は入院している間も仕事をしろと言い始める。当然のごとくそれを拒否した彼女に上司は罵詈雑言を浴びせ、終いには一方的に解雇を言い渡して去って行った。  しかし、不幸中の幸いか遊ぶ時間も無かった事で貯金は有り余っていたため、かなり余裕があった彼女はのんびりと再就職先を探すことに決めていると、あやかし企業の社長を名乗る大男が訪れ勧誘を受ける。  数週間後、あやかし企業で働き始めた彼女は、あまりのホワイトぶりに感動することになる。  その頃、桂里奈が居なくなったことで彼女の所属していた部署の人たちは一斉に退職し始めていて―― ※あやかしには作者が設定を追加、または変更している場合があります。 ※タイトルを少し変更しました。

婚約をなかったことにしてみたら…

宵闇 月
恋愛
忘れ物を取りに音楽室に行くと婚約者とその義妹が睦み合ってました。 この婚約をなかったことにしてみましょう。 ※ 更新はかなりゆっくりです。

【完結】悪役令嬢の猫かぶり

谷絵 ちぐり
恋愛
少女達は出会ってしまった 気づいてしまった 思い出してしまった この世界の理を 自分達の役割を この物語は運命に翻弄され、また抗いながらも歩み続ける少女達の物語・・・かもしれない ※少女達の口が大変悪いです(下ネタ含) ※独自の緩い設定ですので、きっちりかっちりの方はご注意ください ※頭空っぽにして暇つぶし程度の心構えが必要です

【完結】「幼馴染を敬愛する婚約者様、そんなに幼馴染を優先したいならお好きにどうぞ。ただし私との婚約を解消してからにして下さいね」

まほりろ
恋愛
婚約者のベン様は幼馴染で公爵令嬢のアリッサ様に呼び出されるとアリッサ様の元に行ってしまう。 お茶会や誕生日パーティや婚約記念日や学園のパーティや王家主催のパーティでも、それは変わらない。 いくらアリッサ様がもうすぐ隣国の公爵家に嫁ぐ身で、心身が不安定な状態だといってもやりすぎだわ。 そんなある日ベン様から、 「俺はアリッサについて隣国に行く!  お前は親が決めた婚約者だから仕方ないから結婚してやる!  結婚後は侯爵家のことはお前が一人で切り盛りしろ!  年に一回帰国して子作りはしてやるからありがたく思え!」 と言われました。 今まで色々と我慢してきましたがこの言葉が決定打となり、この瞬間私はベン様との婚約解消を決意したのです。 ベン様は好きなだけ幼馴染のアリッサ様の側にいてください、ただし私の婚約を解消したあとでですが。 ベン様も地味な私の顔を見なくてスッキリするでしょう。 なのに婚約解消した翌日ベン様が迫ってきて……。 私に婚約解消されたから、侯爵家の後継ぎから外された? 卒業後に実家から勘当される? アリッサ様に「平民になった幼馴染がいるなんて他人に知られたくないの。二度と会いに来ないで!」と言われた? 私と再度婚約して侯爵家の後継者の座に戻りたい? そんなこと今さら言われても知りません! ※他サイトにも投稿しています。 ※百合っぽく見えますが百合要素はありません。 ※加筆修正しました。2024年7月11日 「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」 2022年5月4日、小説家になろうで日間総合6位まで上がった作品です。 ※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。

転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す

RINFAM
ファンタジー
年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。 4コマ漫画版もあります。

処理中です...