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後宮の偽女官
横溢の薫香①
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さてさて、と白狼は自室の寝台で天井を見上げた。あまりにくしゃみが酷すぎて、流行り病ではないかと疑われたので徳妃に近づくことなかれと部屋へ閉じ込められてしまった。
風邪じゃねえんだけど、と言いたいが口が利けないことになっているので仕方ない。どうせ毒見以外に仕事はないし、しおらしく了承の意を示した後はこれ幸いとばかりに侍女の衣を脱いで寝台へともぐりこんだ。
中衣と裳だけになると、体も軽いが鼻周りもぐっと軽くなった。実際のところ衣にも変なにおいが移ってしまっているので、くしゃみが続いていたのはそのせいかもしれない。
徳妃の宮に来てから、鼻を刺すにおいが多いと思っていたのだが間違いではなかったということか。
「……てことは、原因はあの香だなぁ」
しかし今までそんなことは経験したことがない。誰か詳しい奴がいたら聞いてみるのに、今の監禁状態ではそれもままならないことがもどかしい。
ただ体質によって香のにおいや煙が苦手という人もいるということは、市井暮らしで耳にしたことはあった。しかしそれもそこらの怪しい草やらなにやらを混ぜた、質の悪い香の話だ。後宮で、しかも四夫人の一人でもある徳妃の宮でそんな出所が怪しいものを使うはずもない。そして症状がでたのは白狼だけだ。
そして、それにしてもと白狼は首をひねる。今朝の柏が徳妃の部屋から出てきたことが、今更ながらおかしいという事に気が付いたのだ。初日に寝室に忍び込もうとしたときは見張られているのかと思ったが、常に夜通し徳妃に張り付いているということか。
あの柏という宦官の立ち位置が全く分からない。
徳妃――事実であれば白狼の姉である明玲は、柏に対して敬称を用いていた。養女として貴族の家に引き取られたのだということが真実であったとして、柏はそれより上の立場ということか。
銀月の宮では同性の護衛である周でも、主の寝室には許可がなければ入らない。そして夜は当然のように別室だ。
産み月が近い徳妃の身体を慮ってのことか。それとも何かほかの理由か。たとえ宦官であっても、夫でもない男と同じ寝室で眠るなど白狼には想像ができなかった。
「……俺だったら絶対ごめんだけどな。お偉いさんの考えることは、わかんねえや」
こんな時、承乾宮でなら銀月と話をしながら考えをまとめるというのに、一人では思考が堂々巡りとなる。しかも今は口が利けない設定で侍女となっている都合上、自然と独り言が増えた。
街でくらしていたときは一匹狼を気取ってはいたが、市場の親父や店の者と話す機会がたくさんあったことを思い出す。他人と話さないことなどどうということもないと思っていたが、意外と自分はおしゃべりな性質なのではないか。
扉と壁の向こうでは、下女たちが何事かきゃっきゃとはしゃぎながら走る音がする。礼儀にうるさい翠明のような年寄りがいないせいか、この宮は本当ににぎやかだった。裏事情はどうあれ、貧しい家から働きに来た若い娘たちにとっては大層良い環境なのだろう。
やれやれ、と白狼はため息を吐いた。
「今日は飯時に呼ばれることもないだろうし、ただ寝てるっつうのも暇っちゃあ暇だな……」
こうなってみると、ほぼ引きこもりの銀月が碁を打ちたがったのも分かる気がする。ここしばらくの軟禁生活で、すっかり出番のなくなった指もむずむずする気がするではないか。そのむず痒さが、碁石を持ちたがっているのか人様の財布を持ちたがっているのかは深く考えてはいけない。
まあ仕方ない。ならばと白狼は寝台の上に起き上がった。
手が疼くのであれば動かせばよいのである。
思い立った白狼は部屋に備え付けられた抽斗から、ここで働くことになったときに支給された予備の領巾や裳を取り出した。さすが四夫人の侍女待遇である。領巾も質はともかく一応は絹で出来ており、両端をもってぐいっと力任せに引っ張っても伸びる様子がない。
絹織物はその艶や希少性から高級品扱いされているが、実際は蚕の吐き出すとんでもなく長い繊維を撚り合わせているため引っ張る力には滅法強いのだ。
裳も同様だ。乾燥させやすくするために麻の繊維を混ぜているようだが、主になっているのは絹らしい。裳に関しても引っ張っても千切れないことを確認した白狼は、おもむろにそれを鋏で縦に裂いた。そしていくつかの長い布を作り、その布の端同士をぎゅうぎゅうと力いっぱい結んでいく。
「帯も使えっかな……でもあれちょっと固いからなぁ……」
ぶつぶつ言いながら布同士を結び合わせ、出来上がったのは一本の長い「綱」だった。
これを使って何をするかといえば、答えを言うまでもないだろう。寝台の柱に括りつけて窓から外へたらせば、即席の縄梯子の出来上がりである。
「へへ……見てろよ柏。ほえ面かかせてやる」
夜にこっそり抜け出すのは目立つだろうけれど、昨夜の様に皇帝がくれば柏の気も逸らせるしなんだったら皇帝があの宦官を引き留めておいてくれるかもしれない。銀月が一緒にくるならそれを皇帝に伝えてもらい、より長く時間を稼いでもらえばなお良しだ。
そうなれば、宮の外には逃げられなくても家探しする程度はできるだろう。
白狼はにやりと笑いながら、出来上がった長い綱を寝具の下に隠したのだった。
風邪じゃねえんだけど、と言いたいが口が利けないことになっているので仕方ない。どうせ毒見以外に仕事はないし、しおらしく了承の意を示した後はこれ幸いとばかりに侍女の衣を脱いで寝台へともぐりこんだ。
中衣と裳だけになると、体も軽いが鼻周りもぐっと軽くなった。実際のところ衣にも変なにおいが移ってしまっているので、くしゃみが続いていたのはそのせいかもしれない。
徳妃の宮に来てから、鼻を刺すにおいが多いと思っていたのだが間違いではなかったということか。
「……てことは、原因はあの香だなぁ」
しかし今までそんなことは経験したことがない。誰か詳しい奴がいたら聞いてみるのに、今の監禁状態ではそれもままならないことがもどかしい。
ただ体質によって香のにおいや煙が苦手という人もいるということは、市井暮らしで耳にしたことはあった。しかしそれもそこらの怪しい草やらなにやらを混ぜた、質の悪い香の話だ。後宮で、しかも四夫人の一人でもある徳妃の宮でそんな出所が怪しいものを使うはずもない。そして症状がでたのは白狼だけだ。
そして、それにしてもと白狼は首をひねる。今朝の柏が徳妃の部屋から出てきたことが、今更ながらおかしいという事に気が付いたのだ。初日に寝室に忍び込もうとしたときは見張られているのかと思ったが、常に夜通し徳妃に張り付いているということか。
あの柏という宦官の立ち位置が全く分からない。
徳妃――事実であれば白狼の姉である明玲は、柏に対して敬称を用いていた。養女として貴族の家に引き取られたのだということが真実であったとして、柏はそれより上の立場ということか。
銀月の宮では同性の護衛である周でも、主の寝室には許可がなければ入らない。そして夜は当然のように別室だ。
産み月が近い徳妃の身体を慮ってのことか。それとも何かほかの理由か。たとえ宦官であっても、夫でもない男と同じ寝室で眠るなど白狼には想像ができなかった。
「……俺だったら絶対ごめんだけどな。お偉いさんの考えることは、わかんねえや」
こんな時、承乾宮でなら銀月と話をしながら考えをまとめるというのに、一人では思考が堂々巡りとなる。しかも今は口が利けない設定で侍女となっている都合上、自然と独り言が増えた。
街でくらしていたときは一匹狼を気取ってはいたが、市場の親父や店の者と話す機会がたくさんあったことを思い出す。他人と話さないことなどどうということもないと思っていたが、意外と自分はおしゃべりな性質なのではないか。
扉と壁の向こうでは、下女たちが何事かきゃっきゃとはしゃぎながら走る音がする。礼儀にうるさい翠明のような年寄りがいないせいか、この宮は本当ににぎやかだった。裏事情はどうあれ、貧しい家から働きに来た若い娘たちにとっては大層良い環境なのだろう。
やれやれ、と白狼はため息を吐いた。
「今日は飯時に呼ばれることもないだろうし、ただ寝てるっつうのも暇っちゃあ暇だな……」
こうなってみると、ほぼ引きこもりの銀月が碁を打ちたがったのも分かる気がする。ここしばらくの軟禁生活で、すっかり出番のなくなった指もむずむずする気がするではないか。そのむず痒さが、碁石を持ちたがっているのか人様の財布を持ちたがっているのかは深く考えてはいけない。
まあ仕方ない。ならばと白狼は寝台の上に起き上がった。
手が疼くのであれば動かせばよいのである。
思い立った白狼は部屋に備え付けられた抽斗から、ここで働くことになったときに支給された予備の領巾や裳を取り出した。さすが四夫人の侍女待遇である。領巾も質はともかく一応は絹で出来ており、両端をもってぐいっと力任せに引っ張っても伸びる様子がない。
絹織物はその艶や希少性から高級品扱いされているが、実際は蚕の吐き出すとんでもなく長い繊維を撚り合わせているため引っ張る力には滅法強いのだ。
裳も同様だ。乾燥させやすくするために麻の繊維を混ぜているようだが、主になっているのは絹らしい。裳に関しても引っ張っても千切れないことを確認した白狼は、おもむろにそれを鋏で縦に裂いた。そしていくつかの長い布を作り、その布の端同士をぎゅうぎゅうと力いっぱい結んでいく。
「帯も使えっかな……でもあれちょっと固いからなぁ……」
ぶつぶつ言いながら布同士を結び合わせ、出来上がったのは一本の長い「綱」だった。
これを使って何をするかといえば、答えを言うまでもないだろう。寝台の柱に括りつけて窓から外へたらせば、即席の縄梯子の出来上がりである。
「へへ……見てろよ柏。ほえ面かかせてやる」
夜にこっそり抜け出すのは目立つだろうけれど、昨夜の様に皇帝がくれば柏の気も逸らせるしなんだったら皇帝があの宦官を引き留めておいてくれるかもしれない。銀月が一緒にくるならそれを皇帝に伝えてもらい、より長く時間を稼いでもらえばなお良しだ。
そうなれば、宮の外には逃げられなくても家探しする程度はできるだろう。
白狼はにやりと笑いながら、出来上がった長い綱を寝具の下に隠したのだった。
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