78 / 97
妃嬪の徴証
追憶の面影③
しおりを挟む
解かれると思った縄は一層きつく縛り直され、乱暴にするなと懇願する徳妃を柏が連れて行きどれほど時間が経ったことだろう。ご丁寧にさるぐつわまで噛まされていてはなすすべもなく、白狼は暗闇の中でただ時間が経つのを待っていた。
自らの失態のせいで銀月をこんな宮まで呼び出されるハメになるとは、とんだ間抜けである。何かあれば自分ひとりが罰を受けるだけだと考えていた己の甘さで、言い訳ができる余地もない。歯ぎしりしたいほどの自己嫌悪に陥りながらも、さるぐつわのせいでそれすら叶わなかった。
銀月が今まで生き延びてきたのは、側近の手腕もさることながら目立たずひっそりと、病弱で無害な姫を装っていたからだ。降りかかる火の粉を払い落とすことに専念し、後宮の争いごとに首を突っ込まずにいたから、母親を殺された後も皇后やほかの妃嬪から直接手を下されることなく生きることができたのだろう。
それを今、自分が脅かしている。
皇后が毒を盛られたことなど、実際のところ銀月の命に直接かかわりがないことなのだ。謀殺を貴妃が本当に企んでいたかどうかも、燕がそれにどうかかわっていたかということも、銀月をはじめとする承乾宮には関係がない。公的な発表をただ受け入れればよかっただけだ。
知りたい、はっきりさせたいというのは白狼個人の欲求である。その個人的な欲求を優先させた結果、銀月の危機を招いている。燕のために動きたいと思ったことは後悔がないが、そのためにはもっと考えるべきだった。
考えなしに飛び込んだせいで、懐に隠し持っていた燕の「手紙」も、忍び込んで手当たり次第に突っ込んだ下女たちの手習いも、全て取り上げられているのだから世話がない。ここまでされれば柏が燕の手蹟について何らかの関係があると言っているも同然だが、証拠となるものは何もなくなってしまった。
くそう、と白狼は呻いた。
物置は窓もしっかりと閉じられ、外の灯りなども入らない。暗い中、そして体の自由が利かない状態では時間の感覚などとうに失われている。ただ自分の無鉄砲さに後悔が募っていく。
呼び出されたという銀月が、この宮に来ているのかどうかも分からない。ひょっとしたら、いや用心深い銀月や翠明のことだ。黒花あたりを身代わりに仕立ててよこしているかもしれない。「主」の身を危険に晒した自分が言う事ではないが、白狼はそうであることを願わずにいられなかった。
いっそ寝てしまおうか、体力温存だと開き直ろうとしてみたものの焦りに似た気持ちが胸をじりじりと締め付けるようで眠れない。
くそう、と白狼はまた呻いた。
そんな頃、がたりと物置の扉が開く音がして室内に光が差し込んだ。縛り上げられた時はまだ深夜だったのに、既に外がうっすらと明るい。久方ぶりの灯りに目を瞬かせていると、やあやあと緊張感のない声とともに柏が顔を出した。
「すっかりお待たせしてしまってね」
「ぐっ……」
「すまなかったねぇ。そんなさるぐつわまでして、さぞ苦しかったことだろう」
柏はそう言って近づくと、白狼の口からさるぐつわを外し体を柱に括りつけている麻縄に手をかけた。
銀月は、と言いかけて白狼は口を噤む。聞きたいことはいろいろあるが、下手に口を開くと何を話してしまうか分からない。代わりに白狼はありったけの力を込めてひょろ長い宦官を睨みつけた。
しかし柏は全く意に介していないように涼しい顔でそれを受け流した。微塵も堪えていないのだろう。随分と厚い面の皮をしているようだ。
まあ、そうでもなければ後宮で謀など企むこともできまい。良い人だと思って騙された自分が悪いのだ。
縄を解かれ自由になった腕を見ると、がっつりと縄目の跡が肌に残っている。きつく縛りやがって、と白狼はこれ見よがしに肩や腕をぐるぐると回して見せた。
「長く縛っていたが、痛みはないかい?」
「あるに決まってんだろ」
「それはそうだ。まあ、首がつながっていてよかったと思ってもらえるとありがたいね」
飄々としている宦官に白狼は舌打ちをした。
「さて、承乾宮の帝姫様と話はついたよ」
「へえ」
何が、とは聞かない。下手にしゃべるより相手に話してもらうほうがいい。銀月はもう帰ったのか、それともどこかで待っているのか、それくらいは確かめたかったが、あえて黙った。そんな白狼の思惑を察したのか、それとも気にしていないのか、柏は切れた麻縄をくるくるとまとめている。
そんな柏が、これみよがしにため息を吐いた。
「姫君自らお越しになったのでね。僭越ながら私が少しお話をさせてもらったよ。ほら、うちの徳妃様は身重でお休みならないといけなかったからね」
「……昨夜は随分と遅くまで起きていらっしゃったしな」
「大きなねずみに驚かれたようで大層興奮されていたからね。お心を休める薬を飲まれて今もゆっくりお眠りになっているよ」
「そりゃあ良かった」
「宮の者もね。昨晩はよく眠れる香を焚いておいたせいかな。まだまだ誰も起きる気配がない。おかげで私が働きづめだよ」
姫君自ら、と聞いて白狼の心がざわついた。本当に銀月が自分で来たのか、それとも身代わりか。柏の言葉だけでは分からない。しらじらしく相槌を打っているのは、自分を落ち着かせるためでもあった。
「まあそんなことでね。徳妃様の身の回りのお世話をする侍女を充実させたい、と帝姫様にご相談したんだ」
「……は?」
話が見えず、白狼は思わずぞんざいに聞き返した。柏の口もとがにやりと持ち上がる。下卑た、そして悪辣な含み笑いだ。いつものらりくらりとした風でいるこの宦官の底知れぬ闇が垣間見えたようで、白狼は総毛だった。
自らの失態のせいで銀月をこんな宮まで呼び出されるハメになるとは、とんだ間抜けである。何かあれば自分ひとりが罰を受けるだけだと考えていた己の甘さで、言い訳ができる余地もない。歯ぎしりしたいほどの自己嫌悪に陥りながらも、さるぐつわのせいでそれすら叶わなかった。
銀月が今まで生き延びてきたのは、側近の手腕もさることながら目立たずひっそりと、病弱で無害な姫を装っていたからだ。降りかかる火の粉を払い落とすことに専念し、後宮の争いごとに首を突っ込まずにいたから、母親を殺された後も皇后やほかの妃嬪から直接手を下されることなく生きることができたのだろう。
それを今、自分が脅かしている。
皇后が毒を盛られたことなど、実際のところ銀月の命に直接かかわりがないことなのだ。謀殺を貴妃が本当に企んでいたかどうかも、燕がそれにどうかかわっていたかということも、銀月をはじめとする承乾宮には関係がない。公的な発表をただ受け入れればよかっただけだ。
知りたい、はっきりさせたいというのは白狼個人の欲求である。その個人的な欲求を優先させた結果、銀月の危機を招いている。燕のために動きたいと思ったことは後悔がないが、そのためにはもっと考えるべきだった。
考えなしに飛び込んだせいで、懐に隠し持っていた燕の「手紙」も、忍び込んで手当たり次第に突っ込んだ下女たちの手習いも、全て取り上げられているのだから世話がない。ここまでされれば柏が燕の手蹟について何らかの関係があると言っているも同然だが、証拠となるものは何もなくなってしまった。
くそう、と白狼は呻いた。
物置は窓もしっかりと閉じられ、外の灯りなども入らない。暗い中、そして体の自由が利かない状態では時間の感覚などとうに失われている。ただ自分の無鉄砲さに後悔が募っていく。
呼び出されたという銀月が、この宮に来ているのかどうかも分からない。ひょっとしたら、いや用心深い銀月や翠明のことだ。黒花あたりを身代わりに仕立ててよこしているかもしれない。「主」の身を危険に晒した自分が言う事ではないが、白狼はそうであることを願わずにいられなかった。
いっそ寝てしまおうか、体力温存だと開き直ろうとしてみたものの焦りに似た気持ちが胸をじりじりと締め付けるようで眠れない。
くそう、と白狼はまた呻いた。
そんな頃、がたりと物置の扉が開く音がして室内に光が差し込んだ。縛り上げられた時はまだ深夜だったのに、既に外がうっすらと明るい。久方ぶりの灯りに目を瞬かせていると、やあやあと緊張感のない声とともに柏が顔を出した。
「すっかりお待たせしてしまってね」
「ぐっ……」
「すまなかったねぇ。そんなさるぐつわまでして、さぞ苦しかったことだろう」
柏はそう言って近づくと、白狼の口からさるぐつわを外し体を柱に括りつけている麻縄に手をかけた。
銀月は、と言いかけて白狼は口を噤む。聞きたいことはいろいろあるが、下手に口を開くと何を話してしまうか分からない。代わりに白狼はありったけの力を込めてひょろ長い宦官を睨みつけた。
しかし柏は全く意に介していないように涼しい顔でそれを受け流した。微塵も堪えていないのだろう。随分と厚い面の皮をしているようだ。
まあ、そうでもなければ後宮で謀など企むこともできまい。良い人だと思って騙された自分が悪いのだ。
縄を解かれ自由になった腕を見ると、がっつりと縄目の跡が肌に残っている。きつく縛りやがって、と白狼はこれ見よがしに肩や腕をぐるぐると回して見せた。
「長く縛っていたが、痛みはないかい?」
「あるに決まってんだろ」
「それはそうだ。まあ、首がつながっていてよかったと思ってもらえるとありがたいね」
飄々としている宦官に白狼は舌打ちをした。
「さて、承乾宮の帝姫様と話はついたよ」
「へえ」
何が、とは聞かない。下手にしゃべるより相手に話してもらうほうがいい。銀月はもう帰ったのか、それともどこかで待っているのか、それくらいは確かめたかったが、あえて黙った。そんな白狼の思惑を察したのか、それとも気にしていないのか、柏は切れた麻縄をくるくるとまとめている。
そんな柏が、これみよがしにため息を吐いた。
「姫君自らお越しになったのでね。僭越ながら私が少しお話をさせてもらったよ。ほら、うちの徳妃様は身重でお休みならないといけなかったからね」
「……昨夜は随分と遅くまで起きていらっしゃったしな」
「大きなねずみに驚かれたようで大層興奮されていたからね。お心を休める薬を飲まれて今もゆっくりお眠りになっているよ」
「そりゃあ良かった」
「宮の者もね。昨晩はよく眠れる香を焚いておいたせいかな。まだまだ誰も起きる気配がない。おかげで私が働きづめだよ」
姫君自ら、と聞いて白狼の心がざわついた。本当に銀月が自分で来たのか、それとも身代わりか。柏の言葉だけでは分からない。しらじらしく相槌を打っているのは、自分を落ち着かせるためでもあった。
「まあそんなことでね。徳妃様の身の回りのお世話をする侍女を充実させたい、と帝姫様にご相談したんだ」
「……は?」
話が見えず、白狼は思わずぞんざいに聞き返した。柏の口もとがにやりと持ち上がる。下卑た、そして悪辣な含み笑いだ。いつものらりくらりとした風でいるこの宦官の底知れぬ闇が垣間見えたようで、白狼は総毛だった。
0
お気に入りに追加
106
あなたにおすすめの小説
【完結】出戻り妃は紅を刷く
瀬里
キャラ文芸
一年前、変わり種の妃として後宮に入った気の弱い宇春(ユーチェン)は、皇帝の関心を引くことができず、実家に帰された。
しかし、後宮のイベントである「詩吟の会」のため、再び女官として後宮に赴くことになる。妃としては落第点だった宇春だが、女官たちからは、頼りにされていたのだ。というのも、宇春は、紅を引くと、別人のような能力を発揮するからだ。
そして、気の弱い宇春が勇気を出して後宮に戻ったのには、実はもう一つ理由があった。それは、心を寄せていた、近衛武官の劉(リュウ)に告白し、きちんと振られることだった──。
これは、出戻り妃の宇春(ユーチェン)が、再び後宮に戻り、女官としての恋とお仕事に翻弄される物語。
全十一話の短編です。
表紙は「桜ゆゆの。」ちゃんです。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
家出した伯爵令嬢【完結済】
弓立歩
恋愛
薬学に長けた家に生まれた伯爵令嬢のカノン。病弱だった第2王子との7年の婚約の結果は何と婚約破棄だった!これまでの尽力に対して、実家も含めあまりにもつらい仕打ちにとうとうカノンは家を出る決意をする。
番外編において暴力的なシーン等もありますので一応R15が付いています
6/21完結。今後の更新は予定しておりません。また、本編は60000字と少しで柔らかい表現で出来ております
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
国王陛下、私のことは忘れて幸せになって下さい。
ひかり芽衣
恋愛
同じ年で幼馴染のシュイルツとアンウェイは、小さい頃から将来は国王・王妃となり国を治め、国民の幸せを守り続ける誓いを立て教育を受けて来た。
即位後、穏やかな生活を送っていた2人だったが、婚姻5年が経っても子宝に恵まれなかった。
そこで、跡継ぎを作る為に側室を迎え入れることとなるが、この側室ができた人間だったのだ。
国の未来と皆の幸せを願い、王妃は身を引くことを決意する。
⭐︎2人の恋の行く末をどうぞ一緒に見守って下さいませ⭐︎
※初執筆&投稿で拙い点があるとは思いますが頑張ります!
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる