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妃嬪の徴証

雌豹の巣窟④

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「お前が倒れてから、まだほんの十日かそこらだ。あんなに息も絶え絶えになって、まだ十日ほどしか経っていない。それを身代わりにして、これを心配せずにいられるものか!」
「……いや、だってお前、それが俺の仕事だしよ」
「仕事だからといって私が毒を喰らいに行かせたいと思っているとでも思ってるのか!」
「そう思ってるわけじゃねえけどさぁ……別に今までだったら普通に、なあ?」
「今までとは話が違う!」

 人間、自分が売った喧嘩であっても相手が自分の予想以上に興奮すると、しかも予想とは違う方向に興奮していると、びっくりするほど冷静になるものである。
 白狼は自分を怒鳴りつけている雇い主をじっと見上げた。
 普段は涼やかな目元は眉と一緒に吊り上がり、陶器の様に白く滑らかな頬は赤く上気している。姫君の装いはしているものの軽装であるせいか、化粧もいつもより控えめ、あるいは唇と目元に薄紅を引いた程度であろう。女子に見えるが細い顎の下から伸びる喉のわずかな隆起は、その形をはっきりと見て取れる程に成長していた。
 その隆起がごくりという音とともに上下した。

「すまぬ……ここまで声を荒げるつもりはなかった」

 白狼の視線に気が付いたのだろう。口を閉じ幾分落ち着きを取り戻した銀月は大きなため息をついて手近な椅子に腰を落とした。

「まあ、いいけど。俺が吹っ掛けたんだし。怒鳴られるのは慣れっこだしよ」
「理不尽だったと謝ってるんだ。素直に受け取ってくれ」
「……おう」

 ここで反論してもまた揉めるだけだろう。白狼は一旦引き下がることにした。しかし、怒鳴られたことはともかく肝心なことは聞けていない。今後の仕事にも差し支えるし、やはり気になるし、なにより毎日が物足りないと思ってしまう。
 白狼は頭を掻きながら、あのさ、と口を開いた。

「落ち着いたところで悪いんだが、はっきりさせておきたいことが一つだけあるんだけど」
「……なんだ」
「その、最近の態度? お前が俺のこと避けてた理由が知りたい」

 あぁ、と銀月は力なく頷いた。珍しい姿だったが額に手をやり項垂れる様子もまた珍しい。白狼はその珍しい面を拝んでやろうと、しゃがみ込んで銀月の顔を覗き込んだ。

「……悪趣味だな」
「こんな珍しいお前、この先見られるかどうかわかんねえからな」
「……怒るなよ?」

 指の隙間から銀月の瞳がちらりと白狼に向けられる。よほど言いたくないらしい。が、ここまで来て引き下がるつもりも白狼にはない。うん、と頷くと銀月はまた大きなため息を吐いた。

「……女だから」

 ぽつりと、それこそ消え入りそうな声でつぶやかれた言葉は白狼の意表を突きすぎていた。

「……は?」

 思いもかけないことに驚きすぎて言葉が出ない。怒るかどうか以前の問題である。白狼は眉根を寄せて首を傾げた。女だから、なんで避けられるのか。出会った直後にそれを明かし、半年以上ほとんど毎日一緒に過ごしていたではないか。
 その間、侍医の診察などで数回の身代わりも務めさせられている。それは白狼が若い女の身体を持っていたからではなかったか。

「……もともと、知ってんだろそんなこと」

 ようやくひねり出した言葉に、銀月はふるふると首を振る。

「お前が、その、改めて女なのだと、ようやく実感したというか、頭では分かっていたはずなのだが、それが現実なのだと……気が付いたから……」
「それで? なんで避けんだよ。女なら翠明様も黒花さんも小葉さんもこの宮にいるじゃねえか」
「……そうなのだが、物心つく前からいる彼女たちとはまた、少し違って」

 今更なのは承知している、と銀月は言った。

「これまで、お前が女であるということは頭では分かっていたのだ。しかしどこか別のものだと思っていたのかもしれない。何度も替え玉として使っておいて、今更何を言っていると言われても仕方ないが」
「だよなぁ。身代わりにはされたし、あとお前、皇帝の手つきになって妃嬪にとか言ってたじゃねえか」
「……そんなこともあった」

 白狼の指摘に銀月は肩を揺らした。小さなその笑いは、どこか自嘲じみている。

「ただ、この間お前が倒れて、それが月事のせいだと知り、改めてお前が私と大差ない歳の女だと気が付いてしまったのだ。しかもあの苦しみ方を見たら、なんというか、どう扱ってよいか分からなくなった。あまり無理をさせられないとも……」
「いやぁ、そりゃ俺もびっくりしたけどさ、小葉さんはああいうことは割と普通にあるからって言って……」
「それでもだ。私が、お前に無理をさせたくないと思ったのだから。扱い方を思案しているうちにどうしてよいものか分からなくなり、結果あのような態度になってしまった」

 すまない、と銀月は頭を下げた。

「……怒るか?」
「いや、別に……」

 しゃがみ込む白狼に頭を下げた銀月の肩から、さらりとした長い髪が滑り落ちる。艶のあるそれは翠明や黒花が手入れに手入れを重ねた逸品だった。
 そこらの女よりよほど美しく貴婦人として育てられたはずの銀月が、自分を女と認識したという事になぜか白狼はむず痒くなる。ただ以前の様に逆上して怒りだすかといえばそうではない。怒りの感情は湧かず、ただ何か気恥ずかしさを覚えるだけだった。

「けど、まあ、俺は別に変ったわけじゃねえから、いつも通りにしてもらえるとありがたい、かな」
「……分かった。以前のように殴られるかと、ちょっと覚悟した」
「さすがにずっと避けられてると、こっちも気になるし。理由も分かったから、もうこれで終わろうぜ」

 な、と努めて明るく白狼は銀月の肩を叩く。これで手打ちにすればいい。そう思ったのだ。
 しかし顔を上げた銀月の表情はまだ曇っていた。それどころか真剣味が増した目を向けられ、白狼は一瞬たじろいだ。

「どうしたんだよ」
「もう一つ言わねばならんことがある」
「なに?」
「輿入れの件だ。お前が寝込んでいる間に、翠明から提案があった。打つ手は、それしかないと」

 風向きが変わった。帰りの道中、輿の中で考えていた以外の手があるのか。
 白狼はぎゅっと唇を結び、銀月の話を聞く体制を取ったのだった。
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