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白狼の憂鬱

昼、宦官は甘味の罠を知る④

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「白狼! 白狼!」

 唐突に目が覚めたとき、白狼は乱暴に体をゆすられていた。ちかちかと明滅めいめつするような視界には、美しく整えられた眉も眦も吊り上げ必死の形相をした銀月が映りこむ。何をそんなに焦ってんだ、という言葉は声にならなかった。
 意識を取り戻した白狼だったが唇はわななくだけだったし、手足を動かそうにも氷のように冷たくしびれて力が入らなかったのだ。

「白狼! 気が付いたか!?」
「姫様! だめです、落ち着いて! そんなに揺さぶっては……!」
「しかし!」
「倒れたときに頭を打っているかもしれません! 流行り病の可能性もございます! 白狼をお放しください!」

 貧相な体つきではあったがいたって大きな病気などしたことがない。そんな白狼の異常に、普段は礼儀作法にうるさい翠明ですら大きな声を上げている。
 落ち着けよという代わりに白狼の喉からはうめき声が上がった。ずくんずくんと脈を打つように腹が痛む。経験したことがないその痛みに身体を折り曲げ歯を食いしばった。

「腹か? 腹が痛むのか? 何を食った? 毒か!?」
「お願いです、姫様。後宮に流行り病の噂はありませんが、この子はつい先日まで乾清宮に行っていましたし、万が一もございます。お離れになってください」
「構わん! 周、帝姫の一大事として侍医じいを呼べ! とにかく寝台へ運ぶぞ!」

 古参の侍女頭を振り切った銀月は白狼の背と膝の下に腕を滑り込ませ、小さな身体を抱き上げた。中衣という軽装だったからか、衣越しに銀月の体温がじんわりと伝わる。背と腹が少しだけ温まったせいか、不覚にも白狼は細い安堵のため息を吐いた。

「小葉! 白狼が食った宮餅を調べろ! 中身が恒例のナツメ餡ではないということは遅効性ちこうせいの毒かもしれん」
「は、はい!」
「翠明は私の寝台を整えろ! 黒花はかつらを! 急げ!」

 白狼を抱き上げ大股で歩きだした銀月は、矢継やつばやに側近たちへ指示を出した。侍女たちははっとしたように顔を見合わせると、即座に支度にとりかかった。銀月の命令の意味を把握したのだ。
 有能な侍女たちのおかげですぐさま帝姫の寝台は整えられ、白狼はそこに横たえられた。そして手早く黒花は白狼の頭に括りつけられている布をはぎ取り、代わりに黒く長い付け毛を結わえ付ける。

「ごめんね、白狼。ちょっと我慢して」

 そう言いながらぎゅうぎゅうと髪を引っ張られたが、当の白狼は抵抗する余裕もなかった。文句を口にすることもできず、ただひたすら腹の痛みの波に耐え続ける。白粉を叩かれ、薄く紅を引かれる頃には息も絶え絶えだった。

「かなり体が冷えているな。火を焚いて部屋を暖めろ。上に掛けるものも増やせ」
かしこまりました。姫様はお召し替えを。まもなく周が医師を連れて戻りましょう」
「頼んだ。白狼、お前の衣を借りるぞ」

 勝手にしろ、というつもりで頷いた……ように見えただろうか。髪を後ろ手でくくりながら去っていく銀月の背を見つめながら、白狼は痛みに顔を歪めた。
 とにかく痛い。腹の中をこねくり回されるように痛い。そして目の前がちかちかして、ぐるぐると回る。一体自分の体がどうなったのか、自分でも全く分からない。
 毒と言われればそうなのかもしれない。黒花が楽しみにしていた宮餅を盗み食った罰か。誰が銀月を狙ったのか。銀月は食わなくてよかった。でもこんな所で毒見のつもりもなかったのに死にたくはない。欲張って一度に二個食ったのが悪かったのか。晩飯まで我慢すりゃよかった。普段だったらそんなに欲をかくこともないのにやけに腹が減ってたんだ。でも銀月が食う前で良かった。いやこんな所で死んでたまるか――。
 そんなとりとめのない思考は都度、腹の痛み遮断しゃだんされる。何度死んでたまるかというところにたどり着いた頃だろうか、周が戻ってきたという小葉の声がしたかと思うとおもむろに部屋の扉が開く音がした。

「帝姫様にはご機嫌麗しゅう……」
「至急の事態です、挨拶は結構」
「ああ、いや申し訳ございません。では……」

 しわがれた声はいつもの侍医か。そろそろと寝台に近づく足音と衣擦きぬずれの音が近づいてくる。
 ご無礼を、と侍医が白狼の腕をとって脈を調べ始めた。いくつか問診もされ白狼は頷いたり首を横に振ったりで応じる。貴人は侍医であっても直答はしない。なけなしの理性と経験をかき集め、声を出さないように頑張ったことは後から褒めてもらいたい。
 生きていればだが。
 そんなことを悶えながら考えていた白狼をよそに、問診内容のあれこれを帳面に書いていた侍医はふむと呟いた。側に控えていた翠明が厳しい顔つきのまま立ち上がった。

「いかがでしょうか。やはりこれは毒――」
「おめでとうございます」

 ――月事つきじでございますな。

「は?」

 翠明にしては一生の不覚ではないかと思われるような、間抜けな声が部屋に響く。しかしそれを指摘する者は誰もいない。侍医の放った一言に白狼自身も耳を疑った。

「月事にございます。帝姫様はお身体が弱いのでこのまま始まることが無いのかと心配しておりましたが、ようございました。これで良いご縁のもとお輿入れも出来ましょう」
「月、事……?」
「はい、御脈が分かりやすくそのご様子です。じきに出血もはじまると思われますので、温かく養生なさってくださいませ」
「え……あ、はい。いえ、腹痛は……? 毒の可能性は……」
「これはその類のものではございますまい。皇帝陛下も皇后陛下もお喜びになりましょう。すぐにご報告せねば」

 拱手して深く頭を下げた侍医の診断に、白狼も翠明も、そして戸口で様子を見守っていた銀月もただ目を丸くしたのだった。
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