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偽宦官の立ち位置
名月の狂宴④
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白狼の膝蹴りを喰らった宦官は、顔を歪めながら立ち上がった。めり込ませたというのに随分と頑丈な体をしているらしい。宦官はゆらりと上体を起こすと、白狼ではなく上座にその顔を向ける。その視線の先に、椅子に座ったままの貴妃がいた。
金糸で彩られた赤い衣が艶やかで、高く結い上げた黒髪はいくつもの大振りな花で彩られている。装いだけ見れば皇后と遜色ないほどに華美で豪華である。ただ、序列に沿った席に座っているから彼女が貴妃であると分かるだけだ。
その貴妃がゆっくりと紅を差した口を開いた。
「よくぞ捕らえました、潤円。その簪はわたくしが陛下より賜った命より大切な品です。礼を言います」
「はっ」
「さて陛下。これは由々しき事態でございますわ。盗人を後宮に招き入れた承乾宮の帝姫様にも何らかの罰をお与えにならないとなりませんし、それに」
皇后や普段の銀月は高貴な女性の嗜みとして扇で顔を隠しているが、貴妃は堂々とした風情で顔を大勢の前に晒している。透き通ってはいるが温度を感じない声音が響くと、辺りは怯えたように静まり返った。
「承乾宮の責任もさることながら、この事態、陛下の花園の管理をなさる皇后陛下におかれましては管理不行届きと言わざるを得ないのでは……?」
扇子を揺らし貴妃は兵に取り囲まれた二人の宦官に顎をしゃくる。あからさまな挑発に、皇后を取り囲む侍女たちが「まあ」とざわめいた。挑発をされた本人である皇后は、扇を傾けじろりと貴妃を睨みつける。
ばちっと二人の間に火花が散った、ように見え白狼は息を飲む。
「……何が言いたい、祥貴妃殿」
「昨今、巷では国母たる皇后陛下としての資質を問う声が上がっていることはご存知でしょう。婦徳に欠けるお振舞い、お心当たりがおありでは?」
「ほう……」
「直接の盗人は承乾宮の者ですが、得体の知れない者が後宮内を歩き回れるような風紀が乱れる原因をおつくりになったのは皇后様ご自身かと。この場をどうお収めになるのか、お手並みを拝見しとうございますわ」
ほほほ、と貴妃が口に手を当てて笑う。対する皇后は無言で氷のようなまなざしを赤い衣の女に向けた。
どうやら今回の企みは銀月と皇后の両方を狙ったものらしい。銀月を廃するついでに皇后へも嫌味をあてこするという、なんとも嫌らしいやり方だ。
この場を収めるべき人間は二人だが、情けないことにその一人である皇帝は皇后と貴妃へ交互に青い顔を向けている。あらかじめ貴妃が何か企んでいると分かっていながら、結局は何も口をはさめずに両の眉を限度いっぱいまで下げておろおろしているだけだった。これでは釣り餌になった甲斐もない。
だめだ、使えねえ。白狼は横目で下座を伺った。あちらのほうには銀月がいるはずだ。このままでは遅かれ早かれ銀月までこの場に引きずり出されてしまう。
この状態で顔を合わせたら、あいつは何と言うだろうか。やっぱりな、と蔑んだ表情を浮かべるだろうか、それともやっていないということを信じてくれるだろうか。
きっと唇を結び、白狼は兵たちの真ん中で仁王立ちになった。
「俺は盗ってねえ!」
腹の底から声を出した。無礼は百も承知である。しかしさすがに中秋節という大きな宴の中、皇帝と並みいる妃嬪の目の前でいきなり串刺しにはされないだろうという計算はあった。貴妃に嫌味を言われっぱなしでこの場を終わらせるなど、皇后の威信にも関わる。むしろやり返す機会をつくってやるから引っかかってくれればありがたい。
するとどうだろう。槍を構えなおした兵たちに、上座から皇后が待てと制する声を上げたのだ。兵たちに躊躇いが生まれた。この機を逃さず、白狼は一歩踏み出した。
「こいつにハメられたんだ!」
隣に立つ潤円とかいう宦官を指させば、馬鹿めと鼻で笑われた。しかしここでひるむわけにはいかない。自分のためにも、銀月のためにも、なんとか無実であることを証明しなければいけないのだ。白狼は自分より頭二つ分も三つ分も大柄な宦官を下からねめつけた。
「小僧。偸盗だけでなく中秋節を汚した罪は重いぞ」
「俺が盗ったって証拠でもあんのかよ! いつ、どこで!」
「盗人猛々しいとはこのこと。この宴のために磨いておいたというのに今朝になったら見当たらなくなっていたのだ。まさか盗んだ後も持ち歩いているとはな」
「何言ってやがる。こちとら朝からずっと陛下の雑用で後宮にいなかったんだぞ! 今だってだって休む間もなく働かされて、これからやっと飯が食えると思ったところなのに台無しにしやがって。俺の飯返せよ!」
どういうことじゃ、と皇后が白狼に尋ねた。
――かかった。
白狼は潤円から皇后へ向き直り、その隣にいる皇帝の、更に後ろの主席宦官を指さした。
「恐れながら皇后様に申し上げます。俺、いや私は今月ずっと乾清宮で働き詰めで、今日も朝から陛下や主席宦官の昌健《しょうけん》様のお供をしておりました! 誓って貴妃様の宮に近づいてはおりません!」
「昌健殿だと? 昌健殿、それは誠ですか?」
「皇后陛下、このような盗人の嘘を真に受けてはなりません。この者が皇帝陛下に侍っていたなど、あり得ないことでございます」
大柄な宦官はせせら笑ったが、急に話題に出され皇后に問いかけられた昌健はきょとんとしてから、慌てたように頷いた。その瞬間、場の空気ががらりと変わった。
「た、確かにそこにいる白狼は、このひと月ほど乾清宮で陛下の身の回りのお世話を……」
「ほらみろ!」
「くっ……それがどうした。宦官なら後宮にも自由に出入りできる。今朝こっそり忍び込んだのであろう! 貴妃様の簪はお前の懐から出てきたのは確かなのだ! 無駄な言い逃れはよせ!」
白狼が詰め寄ると潤円が語気を強めた。胸倉をつかみ上げられ、白狼の身体が宙に浮く。その時だ。お待ちください、と涼やかな声が上がった。
声のもとを見れば、貴妃より一つ下の席で一人の女性が立っていた。楚々とした薄青の衣が夜風になびき、会場の視線が一斉にその女性に注がれた。
「と、徳妃?」
皇帝の間抜けな声がしんとした会場ではやけに大きく聞こえた。場が静まり十分な注目を集めたことがわかると、女性はゆっくりと一歩下がった。代わりに一人の宦官が前に進み出ると、白狼はその顔を見て息を飲んだ。
乾清宮でお遣いに出たときに芋餡の餅を押し付けていった、ひょろりと背の高い宦官だったのだ。
「恐れながら皇后陛下に申し上げます。白狼殿が本日未明より皇宮にて皇帝陛下のお側に控えていらしたのは確かでございます。わたくしも兵部侍郎 様とともに参列しておりましたので、お疑いであれば兵部へお問い合わせいただいても結構でございます」
「それがどうしたというのです」
「いえ、皇宮の祭事は明け方から昼まで休む間もないもので、その間に白狼殿が後宮へ忍び込む時間などあり得ないという話でございますよ、貴妃様」
憎々し気に顔をゆがませる貴妃に対してにっこりと笑ってみせた宦官は一礼して徳妃の後ろに下がる。それを見ていた潤円は、白狼の胸倉をつかんだ手を震わせた。
「し、しかし陛下! この者がこの簪を隠し持っていたことは確かなのです。懐に入って居たのをご覧になったでしょう! どうかこの者に厳しい処罰をお与えください!」
「だから俺じゃねえ! 好き放題まさぐりやがって、てめえが持ってたんだろうがよ! ……あれ?」
胸倉をつかまれたまま体を揺さぶられていた白狼だったが、潤円が掲げた簪が目に入るとそれをじいっと見つめた。
かがり火に照らされたそれは無数の繊細な彫刻の蝶が舞っており、全体に金が塗布してある豪華なものだ。いかにも腕のいい職人が細工したものだろうが、一部に何か物足りなさがある。なんだ、と思えば記憶の中からこれと似たものが蘇った。
皇帝が白狼に下賜しようとして見せた、あの簪ではないか。しかし一番目立つ大きな碧玉の飾りがない。それだけで随分と印象が違うのでわからなかったのだ。
「でもここに大きい碧玉が付いてたはずなのに……ちょっと貸せ!」
白狼は潤円の顔面に蹴りを入れ、その手から簪を奪い取った。
金糸で彩られた赤い衣が艶やかで、高く結い上げた黒髪はいくつもの大振りな花で彩られている。装いだけ見れば皇后と遜色ないほどに華美で豪華である。ただ、序列に沿った席に座っているから彼女が貴妃であると分かるだけだ。
その貴妃がゆっくりと紅を差した口を開いた。
「よくぞ捕らえました、潤円。その簪はわたくしが陛下より賜った命より大切な品です。礼を言います」
「はっ」
「さて陛下。これは由々しき事態でございますわ。盗人を後宮に招き入れた承乾宮の帝姫様にも何らかの罰をお与えにならないとなりませんし、それに」
皇后や普段の銀月は高貴な女性の嗜みとして扇で顔を隠しているが、貴妃は堂々とした風情で顔を大勢の前に晒している。透き通ってはいるが温度を感じない声音が響くと、辺りは怯えたように静まり返った。
「承乾宮の責任もさることながら、この事態、陛下の花園の管理をなさる皇后陛下におかれましては管理不行届きと言わざるを得ないのでは……?」
扇子を揺らし貴妃は兵に取り囲まれた二人の宦官に顎をしゃくる。あからさまな挑発に、皇后を取り囲む侍女たちが「まあ」とざわめいた。挑発をされた本人である皇后は、扇を傾けじろりと貴妃を睨みつける。
ばちっと二人の間に火花が散った、ように見え白狼は息を飲む。
「……何が言いたい、祥貴妃殿」
「昨今、巷では国母たる皇后陛下としての資質を問う声が上がっていることはご存知でしょう。婦徳に欠けるお振舞い、お心当たりがおありでは?」
「ほう……」
「直接の盗人は承乾宮の者ですが、得体の知れない者が後宮内を歩き回れるような風紀が乱れる原因をおつくりになったのは皇后様ご自身かと。この場をどうお収めになるのか、お手並みを拝見しとうございますわ」
ほほほ、と貴妃が口に手を当てて笑う。対する皇后は無言で氷のようなまなざしを赤い衣の女に向けた。
どうやら今回の企みは銀月と皇后の両方を狙ったものらしい。銀月を廃するついでに皇后へも嫌味をあてこするという、なんとも嫌らしいやり方だ。
この場を収めるべき人間は二人だが、情けないことにその一人である皇帝は皇后と貴妃へ交互に青い顔を向けている。あらかじめ貴妃が何か企んでいると分かっていながら、結局は何も口をはさめずに両の眉を限度いっぱいまで下げておろおろしているだけだった。これでは釣り餌になった甲斐もない。
だめだ、使えねえ。白狼は横目で下座を伺った。あちらのほうには銀月がいるはずだ。このままでは遅かれ早かれ銀月までこの場に引きずり出されてしまう。
この状態で顔を合わせたら、あいつは何と言うだろうか。やっぱりな、と蔑んだ表情を浮かべるだろうか、それともやっていないということを信じてくれるだろうか。
きっと唇を結び、白狼は兵たちの真ん中で仁王立ちになった。
「俺は盗ってねえ!」
腹の底から声を出した。無礼は百も承知である。しかしさすがに中秋節という大きな宴の中、皇帝と並みいる妃嬪の目の前でいきなり串刺しにはされないだろうという計算はあった。貴妃に嫌味を言われっぱなしでこの場を終わらせるなど、皇后の威信にも関わる。むしろやり返す機会をつくってやるから引っかかってくれればありがたい。
するとどうだろう。槍を構えなおした兵たちに、上座から皇后が待てと制する声を上げたのだ。兵たちに躊躇いが生まれた。この機を逃さず、白狼は一歩踏み出した。
「こいつにハメられたんだ!」
隣に立つ潤円とかいう宦官を指させば、馬鹿めと鼻で笑われた。しかしここでひるむわけにはいかない。自分のためにも、銀月のためにも、なんとか無実であることを証明しなければいけないのだ。白狼は自分より頭二つ分も三つ分も大柄な宦官を下からねめつけた。
「小僧。偸盗だけでなく中秋節を汚した罪は重いぞ」
「俺が盗ったって証拠でもあんのかよ! いつ、どこで!」
「盗人猛々しいとはこのこと。この宴のために磨いておいたというのに今朝になったら見当たらなくなっていたのだ。まさか盗んだ後も持ち歩いているとはな」
「何言ってやがる。こちとら朝からずっと陛下の雑用で後宮にいなかったんだぞ! 今だってだって休む間もなく働かされて、これからやっと飯が食えると思ったところなのに台無しにしやがって。俺の飯返せよ!」
どういうことじゃ、と皇后が白狼に尋ねた。
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白狼は潤円から皇后へ向き直り、その隣にいる皇帝の、更に後ろの主席宦官を指さした。
「恐れながら皇后様に申し上げます。俺、いや私は今月ずっと乾清宮で働き詰めで、今日も朝から陛下や主席宦官の昌健《しょうけん》様のお供をしておりました! 誓って貴妃様の宮に近づいてはおりません!」
「昌健殿だと? 昌健殿、それは誠ですか?」
「皇后陛下、このような盗人の嘘を真に受けてはなりません。この者が皇帝陛下に侍っていたなど、あり得ないことでございます」
大柄な宦官はせせら笑ったが、急に話題に出され皇后に問いかけられた昌健はきょとんとしてから、慌てたように頷いた。その瞬間、場の空気ががらりと変わった。
「た、確かにそこにいる白狼は、このひと月ほど乾清宮で陛下の身の回りのお世話を……」
「ほらみろ!」
「くっ……それがどうした。宦官なら後宮にも自由に出入りできる。今朝こっそり忍び込んだのであろう! 貴妃様の簪はお前の懐から出てきたのは確かなのだ! 無駄な言い逃れはよせ!」
白狼が詰め寄ると潤円が語気を強めた。胸倉をつかみ上げられ、白狼の身体が宙に浮く。その時だ。お待ちください、と涼やかな声が上がった。
声のもとを見れば、貴妃より一つ下の席で一人の女性が立っていた。楚々とした薄青の衣が夜風になびき、会場の視線が一斉にその女性に注がれた。
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「それがどうしたというのです」
「いえ、皇宮の祭事は明け方から昼まで休む間もないもので、その間に白狼殿が後宮へ忍び込む時間などあり得ないという話でございますよ、貴妃様」
憎々し気に顔をゆがませる貴妃に対してにっこりと笑ってみせた宦官は一礼して徳妃の後ろに下がる。それを見ていた潤円は、白狼の胸倉をつかんだ手を震わせた。
「し、しかし陛下! この者がこの簪を隠し持っていたことは確かなのです。懐に入って居たのをご覧になったでしょう! どうかこの者に厳しい処罰をお与えください!」
「だから俺じゃねえ! 好き放題まさぐりやがって、てめえが持ってたんだろうがよ! ……あれ?」
胸倉をつかまれたまま体を揺さぶられていた白狼だったが、潤円が掲げた簪が目に入るとそれをじいっと見つめた。
かがり火に照らされたそれは無数の繊細な彫刻の蝶が舞っており、全体に金が塗布してある豪華なものだ。いかにも腕のいい職人が細工したものだろうが、一部に何か物足りなさがある。なんだ、と思えば記憶の中からこれと似たものが蘇った。
皇帝が白狼に下賜しようとして見せた、あの簪ではないか。しかし一番目立つ大きな碧玉の飾りがない。それだけで随分と印象が違うのでわからなかったのだ。
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