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偽宦官の立ち位置

帝姫の父君④

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「白狼や」

 初老に差し掛かる男の声で名を呼ばれ、白狼のうなじがぴりりと緊張する。何度呼ばれても素直に反応することができない。ぎこちなく振り返れば、そこには光沢のある絹をたっぷり使った衣を羽織った大柄な男がいて、いかにも好色そうな笑みを浮かべて手招きしていた。
 手招きに応じて男が被る冠の飾りがゆらゆらと揺れる。窓から差し込む日の光がちらちらと白狼の顔を嬲り、そのまぶしさに偽宦官は目を眇めた。

「……は」

 呼びかけより幾分間を要し、拱手こうしゅしつつ渋々ながらした返事は不機嫌な声を誤魔化せていない。しかし男は無礼をとがめるでもなく、自分が向かっている机を指さした。

「ちと、このすずりに墨を用意せよ」
「御意……」
「それが済んだらこちらの書簡を礼部れいぶちょう侍郎じろう(祭祀などを司る部署の高官)に届けておくれ。中秋節の儀式に関すること故、しっかり使いを頼むぞ」
「……は」

 白狼は言われた通り硯に墨を注ぎ、男が差し出した書簡を両手で受け取る。受け取るとき、手を袖から出さずにいたのは礼儀を気にしただけではない。この男には指一本でも触れられたくないという、その気持ちのほうが強かった。
 男は困ったように眉を下げ、頭を下げる白狼に書簡を預けると机の書き物に向かった。何も言われないのを良いことに、白狼はすぐさまその場――皇帝の居室から後ずさるように退室した。


 
 なぜ白狼が皇帝のそばに侍っているのか。話は一日ほどさかのぼる。



「嫌だ! 俺はぜってぇ行かねえぞ!」

 昼下がりの承乾宮。銀月の前に呼ばれた白狼は力の限り抗議していた。
 白狼の前には苦々しい顔で椅子に座り腕組みをする銀月と、書簡を広げて眉根を寄せる翠明、黒花、小葉、周の側近たち。皆、一様に納得しがたいという表情を浮かべて、白狼の激高を受け止めていた。

「どうなってんだよ、なんとか言えよ銀月!」

 押し黙ったままの銀月に白狼が詰め寄った。いつもであればそこで翠明かあるいは周の拳骨が飛んできて制されるはずだが、今日はその二人も困惑しきっているらしい。待て待てと周が白狼を羽交い絞めにするのがせいぜいだった。
 身動きを封じられた白狼がなおも手足をばたつかせて抵抗すると、翠明が手に持った書簡を広げて見せた。簡単な読み書きしかできない上に役人の達筆など読解できない白狼にとって、そこにあるのは落書きほどの価値しか見いだせないものである。しかしこの場にいる他の者にとってはそうではなかった。
 突然発せられた驚愕の辞令である。承乾宮配属の宦官・白狼を明日付けで中秋節ちゅうしゅうせつまでの間、皇帝の居である乾清宮に異動せよとのことが、長々しく記載されている。

「陛下直々のご命令です。吏部りぶ尚書しょうしょ様経由で李尚宮りしょうきゅうよりの正式な辞令……。姫様の一存でお断りできる話ではありません」
「なんなんだよ、それは! 俺は銀月に雇われてんだぞ! 皇帝の宦官に配置換えって、そんなの納得できるかよ!」
「お前の希望など、陛下の命令の前ではなんの意味もありません。しかし、姫様のご意向すらお伺いくださらないなんて……」

 気づかわしげに銀月を見やる翠明は言葉を濁した。出生時からないがしろにされ続けている帝姫に対する皇帝の態度には今更何を言うことがあろうかという側近たちではあったが、さすがにこのような主の頭越しに下された命令には思うところがあるのだろう。

「内々の人事であればまだ何とかできたかもしれぬが……父上、何をお考えなのか」

 なおも暴れる白狼を前に、銀月は腕組みをしたまま窓の外に視線を向けた。その方向は皇帝の住まいたる乾清宮だ。

「嫌だ! 絶対嫌だ、俺は行かねえぞ!」
「行かぬ、断る、で通じるものではない。無理に拒否すれば、お前の首が飛ぶかもしれん」
「それがどうした! あんな助平爺のとこ行くくらいだったら死んだほうがマシだ!」

 先日の一件は思い出すだけでも鳥肌が立つ。白狼は身震いしながらまたバタバタと手足を振りまわした。動くたびにゆとりのありすぎる宦官服と袴がばっさばっさと音を立てる。分厚くさらしを巻いた上、余りまくっている布地を折りたたんだりして着ている服の上からは、白狼の体形は背の高さくらいしか分からないというのに、あの皇帝は見破ったのだ。

「ひと目でこの小僧を女と見抜くなど……陛下の眼力がすさまじいというか、女に対する嗅覚がすさまじいというか……」

 周がぽつりと呟くが、その小さな声は白狼の罵声に飲み込まれる。隣では黒花がじいっと白狼を見つめて、ため息を吐いた。

「でも、断れば白狼だけじゃなく、姫様も罰せられるかもしれないわね。あの陛下がそこまでやるかどうかはわからないけれど、尚宮しょうきゅう様を怒らせたらまずいわ。皇后様の耳に入ったらまた何か因縁つけてくるわよ」
「だから嫌なんだよ! なんだよ権力者ってやつはよ! 脅迫じゃねえか!」

 きったねえ、と白狼が悪態をつく。まあ待てと銀月が片手をあげた。

「私への罰についてはひとまず置いておけ。どうせ減俸程度だろう。ただな、白狼」
「あんだよ」
「一応、一応聞くぞ?」
「だから何なんだよ!」

 居住いずまいを正した銀月の意を酌んだかのように、周が白狼の拘束を解いた。そして肩を押され銀月の前に座らされた白狼は、イライラした気持ちを押し隠さずに目の前の姫君を睨みつけた。
 
「私が雇うより皇帝の宮で働けば役人にもなれるし立身出世の道が立つ。陛下の元で宦官としてではなく女官になったとしてもここで働くより給金が上がるだろうし、万が一お手付きになったとしたら宮をたまわり妃になれるかもしれない。少なくとも、何かしらの褒美は出るはずだ」

 一言一言、奥歯にものが挟まったような言い方をする銀月に、白狼のこめかみがぴくりと反応する。意図するところを薄々察し、腹の底からどろりと熱いものが込み上げた。
 それ以上言うな。言ったら何を叫んでしまうか分からない。お前には言ってほしくない。そんな気持ちと、言えるもんなら言ってみろという相反する気持ちで白狼の目が妖しくぎらついた。

「何が言いたい?」

 どす黒いものを吐き出すように白狼が問えば、銀月はわずかに目を逸らし一瞬ためらったのちに口を開いた。

「お前は、その、いいのか? このままずっと男として、自分を偽って生きてい……」

 その一言は、白狼のくそほど短い導火線の根元に火をつけるに十分なものだった。

「ふっざけんじゃねえぞ!」

 辞令の書簡を読み上げられたときより激しく白狼は叫んだ。

「言ったよな? ドが付くような田舎で女に生まれたからって借金返すために死ぬまで体売らされるような生き方も死に方もまっぴらだってな! てめえ今、それに近いこと言ったって自覚あんのかよ! 宦官として立身出世? そんなわけあるか! あの爺の下衆い目見ただろ?」

 はっとしたように銀月の目が見開いた。その瞳に後悔の色が浮かび、動揺したように揺れる。しかしそれに気づきながらも白狼は罵声を止めることができなかった。
 理解してくれていると思っていたのに。共感できていると思っていたのに。それが目の前でガラガラと崩れていくような錯覚を覚え、それを振り払うように白狼は頭を床に打ち付けた。

「やめろ白狼!」
「うるっせえ! てめえに俺の生き方にどうこう言われる筋合いはねえ。ましてやぽっと出の爺に好きに決められてたまるか! 俺は俺の好きなように生きて好きなように死ぬんだ!」」
「分かった。分かったすまん。私の失言だ」
「知るか! 馬鹿銀月!」

 珍しく狼狽えた銀月の声がまた癪に障った。周か、それとも銀月か、肩に触れた手を乱暴に振り払うと、白狼は正房を飛び出したのだった。

★ ★ ★ ★ ★

 よいですか、という柔らかな翠明の声に返事もできず、白狼は自室の寝台で寝具を被って丸くなっていた。応答をせずとも古参の侍女頭は静かに部屋へ入ってきたのだろう、寝台が自分以外の重みを受けてかすかに軋んだ音を立てた。
 今更顔を出すにも出せずじっとしていると、ぽんぽんと寝具越しに背中を叩かれる。一定の調子を刻むそれは、赤子をなだめるときのアレである。十九にもなってこれか、と気恥ずかしいやら情けないやらで白狼はますます丸くなった。

「姫様が随分と気落ちしていましたよ」

 いつになく穏やかな声で翠明が言った。

「まあ、あれはお前の気持ちを考えなかった姫様がよくありませんでしたね。お前が怒るのももっともです。上に立つものとして、軽率にもほどがありましょう。誰であれ、心の中で譲れない部分というものがあるものですから」

 落ち着かせるようにゆっくりと話す翠明の声は耳に心地よく入ってきた。帝姫の腹心である翠明にこんなに肯定されたことなどない。白狼はむずかゆい気持ちで膝を抱えた。
 部屋に駆け込んで一人で蹲り、こみ上げてくる激情をやり過ごした後、白狼は銀月がなぜあんなことを言ったのかぼんやりと考えていた。
 お互いに唯一の理解者だと思っていたのは白狼だけだったのだろうか。自分より四つも年下の少年に理解しろなど、自分が無理に求めすぎていたのだろうか。
 しかし逆に考えてみたらどうだ。自分は銀月の身の上の不自由さをきちんと考えていただろうか。自身を偽って生きる道で、どう生きていこうと考えているのは銀月も同じだろう。あの言葉は銀月自身にも当てはまることであり、白狼はそれを理解できるはずではなかったか。

「白狼、姫様はお前が心配なのですよ。ご自身の身の上と重なる部分が多いのでしょう、それだからこそ、お前には選択肢があると伝えたかったのです。言い方はよくありませんでしたけどね」
「……それは、わかってら」

 寝具の中で呟く自分の声は、低く、くぐもっていた。鼻声になっているのは翠明に気づかれたくはなかった。

「お前が来てから、姫様は随分とお元元気になられて笑顔も増えました。その姫様が、ご自身が疎まれてもお前に選択肢を示したということがどういうことか、分かってあげてちょうだい」
「くそ……」
「あの後、すぐに姫様はご自分が罰せられる可能性を顧みず陛下にお手紙をしたためていました。お止めしましたが周を介さずご自身で陛下に届けると言って聞きません。どうしますか?」
「……んなもん、やらせるわけにいかねえだろ。あいつは病弱で、宮から出るのもままならないお姫様なんだから」

 どこまでも姫様思いの翠明に掌の上で転がされていることを理解して、たったひと月程度のことだ、と寝具から這い出た白狼は吐き捨てた。

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