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河西の離宮
スリの白狼①
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出会いは唐突で、そしてその夜二人はお互いの秘め事を共有した。
寝台の上で胸倉を掴みあった二人の手が止まったのはほぼ同時。
離宮とはいえそこらの食堂より広い姫君の寝室。寝台に添えられたたった一本しかない燭台のわずかな灯りの中、はだけた夜着からのぞく胸元をお互いが凝視する。
片や白くなだらかな、うっすらと筋肉が乗った胸。
片や硬い麻の布で巻かれ、わずかなふくらみを押しつぶした胸。
胸元を凝視していた二人の視線が、ゆっくりと交差する。
そして、二人の口が同時に開いた――。
★ ★ ★ ★ ★
「おい坊主、今年の芋は甘えしうちの団子は美味えだろうよ」
「俺はもうちょっと甘くねえほうが好みだな」
「小僧が生意気言ってやがる。しかめ面すんなら商売の邪魔だ、あっちいけ」
「なんだよ、まずいとは言ってねえよ」
馴染みにしている甘味売りの店主にしっしと追いやられた白狼は、行商が集う河西の朝市で芋団子を齧りながら行き交う客を物色していた。
小柄なせいで坊主や小僧などと言われてはいるが、すでに数えで十九。童顔の割には鋭い視線であたりをうかがう白狼は、都にいる警邏の人間ならば要注意人物として警戒するだろう。しかしここ、河西はのんびりとした田舎街の風情を残しており、彼を気にする兵もほとんど配置されていないのは幸運だった。
――なんか、やけに人が増えてるな。
口内に広がる芋餡の甘さにちょっと顔をしかめつつ、そういやこの街には皇帝の離宮があって数日前からお姫様の一人が来ているっていってたっけ、と行商たちの噂話を思い出す。体の弱いお姫様は今年の夏の暑さにやられて体調を崩しがちらしく、涼しくなったころ合いを見計らって療養に来たのだという。
秋になればこの水辺の街はすぐに冷え込んでいくのだが、それはまだひと月以上先の話だからそれまでには帰るのだろうか。だとしてもひと月、ひと月半で帝都と往復するなど、病弱な姫様には強行軍なのではなかろうか。
まあそんなことは白狼の知ったことではなかったが。
お姫様の一団が来たときはそれはそれは華やかな行列だったと聞いたが、生憎そのとき白狼は近くのもうちょっと大きな街へ行っていた。大きな街は人出が多く、街を一巡するだけでかなりの稼ぎになる。芋団子を気兼ねなく買えるくらいには、今の白狼の財布は重い。
そんな白狼の仕事はといえば、大きな声では言えないがそれは人様の財布をちょっと拝借すること――つまりスリ稼業だった。ちなみに今着ている胡服はその時の稼ぎで買ったものである。庶民としてはそこそこの身なりのため、街角にたたずんでいても目立ちもしなければ胡散臭がられもしない。便利なものだと、この買い物に白狼は満足していた。
お姫様効果かどうかはともかく人通りが増えれば増えただけ商売がはかどると、市に店を出すそれぞれの行商達の客引き声が大きく響いていた。それに応じて売り物を手に取る客、目的の店までわき目もふらぬ客、冷やかしなのか店ごとに足を止め覗き込む客。いずれにせよにぎわっている市にわざわざ足を運ぶくらいだ、どの客も懐は大層温いに違いない。
ということは、と自然に白狼の頬が緩んだ。今日は白狼にとっても稼ぎ時であるらしい。
であれば早めに「商売相手」の目星をつけてさっさと取り掛かろう。白狼は残りの芋団子を手早く口に放り込み、冷やかし客のふりをして人込みに紛れ込んだ。
薬草売り、肉売り、布売り、野菜売りなど行商の露店が隙間なく立ち並ぶ大通りは、文字通り人でごった返していた。ひょいひょいと人の波をすり抜けるようにして歩く白狼だが、その目は油断なく辺りを観察し続ける。
ヘタな商売相手を掴めば稼ぎは少ないし、かと言ってあまりに上等な商売相手となれば警戒も上等で捕まってしまう可能性もある。程よくカネを持っていそうで、ちょっとトロくさそうで、と「客」を吟味していた白狼の視線がぴたりと止まった。
その先にいたのは、やや貧相な身なりをした二人組の中年男だった。粗末げな服を着てはいるものの当人たちの血色は良く腹はかなり出っ張っている。髪を巻いている布も薄汚れているように見えるが生地自体は上物だ。
どこぞの有閑お貴族様か、その従者かは知らないがその出で立ちはどうにも本物の庶民からしたら浮いて見える。しかし本人たちは街の風景になじんでいるつもりらしく、見る限り護衛らしき者はついていない。いい「商売相手」を見つけた白狼は舌なめずりをしながら二人を観察した。
二人組は食材を買い出しに来ているのか、肉屋や野菜売りの前でなにかしら額を寄せ合って相談しながらあれこれと店主に言いつけていた。品物が手渡されると、一人がそれを持ちもう一人がカネを払う。なるほど、財布係はそっちかとアタリを付けた白狼はそっと二人組に近づいた。
「おい、江淳、もっと値切らんか」
「陳該殿はそうはおっしゃいますが、お嬢様のお食事となればそれなりのものをご用意せねばなりませんしな」
「まったく、お主が土地の者に顔が利くというから……」
「いやいや、顔が利くとは申しておりませんよ。知った行商がこの時期にこのあたりにいるというだけで……」
食材を抱える男に財布の男がぶちぶちと文句をつけていた。男のくせにやけに高い声でキンキンと耳に響く。しかし立場はその財布係のほうがやや上か、その割にはケチくさいことを言っている。半端な金持ちはこれだから、と白狼は思わず鼻を鳴らした。
「それにしても河西は西方からの薬草や香辛料も豊富に手に入るので腕がなりますなぁ」
「そうだな、先ほどお主が買った八角とかいう香辛料も良い香りだった。今夜の夕餉にはあれを使え」
「香りが飛ばぬよう小分けにしてもらいましたからな。新鮮なうちに今夜の分は羹(スープ)に使うつもりですよ」
「それはよい。てい……いやお嬢様もお喜びになるだろうて……おっと」
白狼はすれ違いざまに財布の男に肩をぶつけた。よろけた男は尻もちをつくほどではなかったが大きく体勢を揺らす。とっさを装いそれを抱きとめた白狼の右手が、彼の懐から色鮮やかな糸で織られた財布を抜き取った。その速さはまさに神速。ましてこの人込みである。気が付いた者は誰もいなかった。
「小僧! どこに目を付けている!」
「すいやせん、ちょっと腹が痛くて……」
「まあまあ陳殿、この人込みです。ぶつかってしまったとて仕方ない。倒れず済んだと思えば良いではないですか」
「すいやせん、すいやせん」
食材を抱える男に諭された財布男は忌々し気に白狼を睨む。しかしそれ以上追及することもなく促されるままに背を向けた。白狼はその背に深々と頭を下げる。心の中で毎度あり、とほくそ笑んでいるなど誰が知ろうか。傍目には「横柄な金持ちにぶつかった小僧がその背に詫びて」いるようにしか見えないだろう。
わずかに膨らんだ袖の重みは、スった財布にそこそこの銭が入っていることを知らせてくれる。それを考えたらかわいそうな商売相手に頭を下げることなど何の苦もない。
――今日は定食屋で美味いものでも食ってやろう。
白狼の頭に浮かんだ美味いもの、それは卵をふんだんに使った鶏粥だった。自然と軽くなる足取りで白狼は街でも有名や定食屋に向かったのだった。
寝台の上で胸倉を掴みあった二人の手が止まったのはほぼ同時。
離宮とはいえそこらの食堂より広い姫君の寝室。寝台に添えられたたった一本しかない燭台のわずかな灯りの中、はだけた夜着からのぞく胸元をお互いが凝視する。
片や白くなだらかな、うっすらと筋肉が乗った胸。
片や硬い麻の布で巻かれ、わずかなふくらみを押しつぶした胸。
胸元を凝視していた二人の視線が、ゆっくりと交差する。
そして、二人の口が同時に開いた――。
★ ★ ★ ★ ★
「おい坊主、今年の芋は甘えしうちの団子は美味えだろうよ」
「俺はもうちょっと甘くねえほうが好みだな」
「小僧が生意気言ってやがる。しかめ面すんなら商売の邪魔だ、あっちいけ」
「なんだよ、まずいとは言ってねえよ」
馴染みにしている甘味売りの店主にしっしと追いやられた白狼は、行商が集う河西の朝市で芋団子を齧りながら行き交う客を物色していた。
小柄なせいで坊主や小僧などと言われてはいるが、すでに数えで十九。童顔の割には鋭い視線であたりをうかがう白狼は、都にいる警邏の人間ならば要注意人物として警戒するだろう。しかしここ、河西はのんびりとした田舎街の風情を残しており、彼を気にする兵もほとんど配置されていないのは幸運だった。
――なんか、やけに人が増えてるな。
口内に広がる芋餡の甘さにちょっと顔をしかめつつ、そういやこの街には皇帝の離宮があって数日前からお姫様の一人が来ているっていってたっけ、と行商たちの噂話を思い出す。体の弱いお姫様は今年の夏の暑さにやられて体調を崩しがちらしく、涼しくなったころ合いを見計らって療養に来たのだという。
秋になればこの水辺の街はすぐに冷え込んでいくのだが、それはまだひと月以上先の話だからそれまでには帰るのだろうか。だとしてもひと月、ひと月半で帝都と往復するなど、病弱な姫様には強行軍なのではなかろうか。
まあそんなことは白狼の知ったことではなかったが。
お姫様の一団が来たときはそれはそれは華やかな行列だったと聞いたが、生憎そのとき白狼は近くのもうちょっと大きな街へ行っていた。大きな街は人出が多く、街を一巡するだけでかなりの稼ぎになる。芋団子を気兼ねなく買えるくらいには、今の白狼の財布は重い。
そんな白狼の仕事はといえば、大きな声では言えないがそれは人様の財布をちょっと拝借すること――つまりスリ稼業だった。ちなみに今着ている胡服はその時の稼ぎで買ったものである。庶民としてはそこそこの身なりのため、街角にたたずんでいても目立ちもしなければ胡散臭がられもしない。便利なものだと、この買い物に白狼は満足していた。
お姫様効果かどうかはともかく人通りが増えれば増えただけ商売がはかどると、市に店を出すそれぞれの行商達の客引き声が大きく響いていた。それに応じて売り物を手に取る客、目的の店までわき目もふらぬ客、冷やかしなのか店ごとに足を止め覗き込む客。いずれにせよにぎわっている市にわざわざ足を運ぶくらいだ、どの客も懐は大層温いに違いない。
ということは、と自然に白狼の頬が緩んだ。今日は白狼にとっても稼ぎ時であるらしい。
であれば早めに「商売相手」の目星をつけてさっさと取り掛かろう。白狼は残りの芋団子を手早く口に放り込み、冷やかし客のふりをして人込みに紛れ込んだ。
薬草売り、肉売り、布売り、野菜売りなど行商の露店が隙間なく立ち並ぶ大通りは、文字通り人でごった返していた。ひょいひょいと人の波をすり抜けるようにして歩く白狼だが、その目は油断なく辺りを観察し続ける。
ヘタな商売相手を掴めば稼ぎは少ないし、かと言ってあまりに上等な商売相手となれば警戒も上等で捕まってしまう可能性もある。程よくカネを持っていそうで、ちょっとトロくさそうで、と「客」を吟味していた白狼の視線がぴたりと止まった。
その先にいたのは、やや貧相な身なりをした二人組の中年男だった。粗末げな服を着てはいるものの当人たちの血色は良く腹はかなり出っ張っている。髪を巻いている布も薄汚れているように見えるが生地自体は上物だ。
どこぞの有閑お貴族様か、その従者かは知らないがその出で立ちはどうにも本物の庶民からしたら浮いて見える。しかし本人たちは街の風景になじんでいるつもりらしく、見る限り護衛らしき者はついていない。いい「商売相手」を見つけた白狼は舌なめずりをしながら二人を観察した。
二人組は食材を買い出しに来ているのか、肉屋や野菜売りの前でなにかしら額を寄せ合って相談しながらあれこれと店主に言いつけていた。品物が手渡されると、一人がそれを持ちもう一人がカネを払う。なるほど、財布係はそっちかとアタリを付けた白狼はそっと二人組に近づいた。
「おい、江淳、もっと値切らんか」
「陳該殿はそうはおっしゃいますが、お嬢様のお食事となればそれなりのものをご用意せねばなりませんしな」
「まったく、お主が土地の者に顔が利くというから……」
「いやいや、顔が利くとは申しておりませんよ。知った行商がこの時期にこのあたりにいるというだけで……」
食材を抱える男に財布の男がぶちぶちと文句をつけていた。男のくせにやけに高い声でキンキンと耳に響く。しかし立場はその財布係のほうがやや上か、その割にはケチくさいことを言っている。半端な金持ちはこれだから、と白狼は思わず鼻を鳴らした。
「それにしても河西は西方からの薬草や香辛料も豊富に手に入るので腕がなりますなぁ」
「そうだな、先ほどお主が買った八角とかいう香辛料も良い香りだった。今夜の夕餉にはあれを使え」
「香りが飛ばぬよう小分けにしてもらいましたからな。新鮮なうちに今夜の分は羹(スープ)に使うつもりですよ」
「それはよい。てい……いやお嬢様もお喜びになるだろうて……おっと」
白狼はすれ違いざまに財布の男に肩をぶつけた。よろけた男は尻もちをつくほどではなかったが大きく体勢を揺らす。とっさを装いそれを抱きとめた白狼の右手が、彼の懐から色鮮やかな糸で織られた財布を抜き取った。その速さはまさに神速。ましてこの人込みである。気が付いた者は誰もいなかった。
「小僧! どこに目を付けている!」
「すいやせん、ちょっと腹が痛くて……」
「まあまあ陳殿、この人込みです。ぶつかってしまったとて仕方ない。倒れず済んだと思えば良いではないですか」
「すいやせん、すいやせん」
食材を抱える男に諭された財布男は忌々し気に白狼を睨む。しかしそれ以上追及することもなく促されるままに背を向けた。白狼はその背に深々と頭を下げる。心の中で毎度あり、とほくそ笑んでいるなど誰が知ろうか。傍目には「横柄な金持ちにぶつかった小僧がその背に詫びて」いるようにしか見えないだろう。
わずかに膨らんだ袖の重みは、スった財布にそこそこの銭が入っていることを知らせてくれる。それを考えたらかわいそうな商売相手に頭を下げることなど何の苦もない。
――今日は定食屋で美味いものでも食ってやろう。
白狼の頭に浮かんだ美味いもの、それは卵をふんだんに使った鶏粥だった。自然と軽くなる足取りで白狼は街でも有名や定食屋に向かったのだった。
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