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本編
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私の進学について、両親はあまりいい顔をしなかった。けれど、世間的には進学校に通っている私が、高卒でつける仕事もほとんどなかったし、彼らはおそらく私と話すことすら面倒になっていた。国公立を専願すること、浪人はしないことを約束して、私は田島のよこしたリストから、志望校を選んだ。
家から遠く離れた大学に進学することも考えた。克彦を置いて家を出ること。
克彦は両親に逆らうことはなかった。けれど、へつらうこともなかった。それは、克彦が高校に入ってからは顕著であった。
克彦は「わかってるよ」と言う。「わかってるよ、母さん」「わかっているよ、父さん」そう言う克彦の顔には、決まって素敵なほほえみが浮かんでいる。非の打ちようのない精悍な笑顔は、両親にそれ以上何も言わせない。「勉強はどうなの克彦」「わかってるよ、母さん」「大会はどうだ克彦」「わかってるよ、父さん」
克彦は結果を出す。望まれた以上の結果を出せば出すほど、両親は克彦にものを言えなくなる。
克彦は理解していた。両親が自分に望む役割を。彼が好むに好まないに関わらず、その役割を演じることに熟達していた。
高校生の日々は、私と克彦の関係がひとつの完成形に至ったこと、また、私が心許せる友人を得たこと、教員も含めた学校全体が寛容であったので、おおよそ穏やかに流れた。私はそれに満足していた。だから、この日々が漫然と続くことを、心の奥底で望んでいたのだろう。
進路を決めることに消極的な私に、カナちゃんは「織愛ってそういうところあるよね」と言った。
「織愛は、どっか危なっかしいっていうか、甘えたがりの猫が人に甘えられないみたいなさ、小さい子が途方に暮れたみたいな。そういうところが男子には放っておけないんじゃないかな」
けれど、私は付き合う男の子達には振られてばっかりなのだ。
「当たり前でしょ」
カナちゃんはばっさりと私の愚痴を切り捨てる。私の悪評のせいかと問い詰めてみれば、
「男子だって、最初から別れるつもりで付き合うわけないのに、織愛の気持ちがこっちにむかないんだから、そりゃさ」
でも私は、彼らの求めに答えているのに。好きだと囁き、身体を開く。
「誰かに何かをあげるときって、自分からその何かをちぎり取ってあげるんだよ。だから痛い。織愛は痛みを感じていないでしょ」
自傷行為と言い切ったカナちゃんが、私は痛みを感じていないというのは矛盾だ。
「織愛は痛みを誰にあげてるの? ねえ、好きになったら相手のことを考えたら胸が痛むんだよ。本当に痛くなるの。織愛はどう?」
カナちゃんは叶わぬ恋のエキスパートにでもなったつもりだったのか。悲劇的でありながら、彼女からは恋する気持ちの甘美さが伝わってきて、私をうらやましい気持ちにさせた。
田島に祝われて、私とカナちゃんは無事に高校を卒業して、同じ大学に進んだ。遠いがぎりぎり電車で通える公立の大学。両親は私に入学式に着るためのスーツを買うお金を与えた。
大学は高校に比べて、更に自由だった。はめを外す大学生もいるのだろうが、私は変なところが真面目で、授業を休むことなどなく大学に通った。
アルバイトも始めた。大学とアルバイトで、通学に時間のかかる私の大学生活はまんぱいになった。友達はカナちゃんがいれば良かったし、サークル活動には興味がなかった。
男の子は相変わらず私に興味を示した。新しくできた彼氏は、バイト先の先輩で、私よりも年上だった。彼は忙しく、私達の会う頻度は高くなかった。
私にはそれが都合良かった。ちょくちょく浮気もされていたらしいが、それも問題なかった。
私はよくいる大学生のひとりに擬態する。
高校二年生になった克彦は、怖いくらいに素敵だった。
よく伸びた四肢と、発達した筋肉。小柄な私に比べ、長身の克彦。並ぶと私の方が妹に見えるくらいだった。
この克彦は、私が大学生になっても全く態度を変えなかった。
「俺は、姉さんの犬だから」
嬉しそうに、もう笑えない言葉を言って、私に尽くす。克彦は「姉さんのいいようにして」と言う。
新しい彼氏ができても、彼氏が別の女の子に目移りしても、「姉さんのいいようにしたらいいよ」
それは突き放すとか、嫌みであるとかでなくて、克彦の本心であるから、参ってしまった。
克彦は役割を演じることに慣れてきて、彼自身の意志というものを無くしてしまったのではないかと不安になるくらいだった。
ご褒美はもう、誰のためのご褒美なのかわからない。
「姉さん、ご褒美をちょうだい」
克彦に抱かれる時は、胸が、肌が疼いた。麻薬のように夢中になった。麻薬のように痛みを伴った。私は克彦の与える痛みの虜になっていた。
私と弟の間には、いつも痛みがつきまとう。痛みの意味を幼い私は知らなかった。
思い返せば、私の心というのは、冬の戸外に立ち尽くしていた身体のように冷え切っていた。あたたかい風呂に入っても、手足の指先が痛んでしょうがないくらい。
私は、ぬくもりをぬくもりと感じることすら知らなかった。どんなぬくもりであっても、冷え切った身体には――心には、痛みでしかなかった。
そして私が唯一、痛みを感じる相手は弟、克彦だった。
そうこうするうちに克彦が高校三年生になって、受験を迎えた。
克彦は私に受験の相談をするようになった。彼は自分がもう大人になれるとおそらく勘違いをしていた。
この日のことを思い出すと、私は今でも震えが止まらなくなってしまう。
お母さんと、私と、克彦が揃っていた。ダイニング。
これは珍しいことだった。私達が一緒に食事を取ることは、殆どなくなっていた。
「大学に受かったら、家を出ようと思うんだ」
私は予め、克彦のこの希望を知っていた。克彦の志望校は、私が通う大学の工学部だった。克彦は家を出たがっていた――私を連れて。克彦は両親がいるこの家から、私を逃がそうとしていた。
私と母は一緒になって箸を置いた。
「毎日、通うのは大変だから、部屋を借りて姉さんと二人で家を出たらいいと思うんだ」
克彦はこの時も、素敵な笑みを浮かべていた。両親を説得する時の、「わかってるよ」の笑顔だった。
いつもなら誤魔化される母だった。克彦の笑顔はそれくらいの効力を両親に対して持っていた。
だが、お母さんは、私達の母親は、
「だめよ」
と鋭く言った。
それから、私を睨んだ。侮蔑に満ちた、道ばたのゴミをみるような目で。
「お姉ちゃんと一緒だけは、絶対だめ」
こんなに真っ直ぐ母親に見つめられたのは生まれて初めて、と私は思った。
同時に、お母さんは私達が何をしているのか知っているのだと気づいた。
母親は知っていた。彼女の子供達が同じベッドで寝ていることを。同じベッドでしていることを。
知っていて、知らない振りをしていた。知らない振りをして、息子だけを溺愛し、娘を無視し続けていた。
瞼の裏が血の色に染まった。
「克彦は男の子だからしょうがないわよね。男の子にはそういう時期ってあるものね。でももうね、わかるでしょ。もう大人になるって年なんだから。ね、克彦、ちゃんとしなさいね」
母は猫撫で声で克彦に言う。だから、私にはわかった。わかったの、お母さん。
お母さんは、私を娘だなんて、思ってなかったんだね。
お母さんは、私を娘だとも、克彦のお姉ちゃんとも思っていなかったんだね。私達が分かち合った禁断の果実も、意味がなかった。なぜなら、私はあやまちの相手に足る人間ではないから。心を持つ人間だとも思っていなかったんでしょう、お母さん。
あなたのかわいい息子の性欲処理の道具に過ぎないと思っていたのでしょう? 便利だった? よそのお嬢さんなら面倒だったけど、私ならまあいいかとでも思った? そんなに私のことはどうでもよかったの?
だから、無関心でいられたの? 私達がもがいてもがいて、罪に溺れてなおもがいていたのに、放っておけたの?
わかってるよ、母さん、と克彦は言わなかった。
「……してやる……」
克彦の手が、わなわなと震える力強い指が、茶碗を掴んだ。
私がこの時、反応できたのは奇跡に近い。
克彦の茶碗が母に向けて投げられる。私は寸でで、母親の前に身を投げ出した。母の座っていた椅子もろとも床に倒れる。
テーブルクロスとともに食器が床に散乱する。
母にあたる筈だった茶碗は、私の額をかすめた。
「何するの、織愛!」
私に抗議した母に向ける克彦の目は、三角になってつり上がっていた。
「……どいて、姉さん」
克彦はいつだって、優しく従順な私の弟だった。その弟が、こんなにも憎しみに燃えた目をするなんて、私は悲しくてならない。背後で母が悲鳴を上げる。
――お母さん、こっちを見て。お母さん、織愛を好きになって。
――ねぇ、克彦、どうしてかなぁ。織愛、いい子にしてるのに。
悲しくてならない。
私は首を振った。
母は私の肩越しに、克彦に向かって謝る。「言い過ぎたわね、克彦ごめんなさい、悪かったから落ち着いて」
彼女の手は、私の肩に置かれていた。
私は母を庇って額に傷を負う。母は息子に謝る。そして、息子は、弟は、やっと私の傷に気づく。
さっと頬が青ざめた克彦は小さい声で「どうして」と呟いた。
私もわからない。いいえ、わかっていたの。本当はずっとわかっていた。
――克彦を助けて、誰か。私の弟を。
ねえお母さん。助けてよ、この苦しみから、私を救って。助けてあげてよ、克彦を。
お父さんお母さん、私じゃ無理なの。
ねえ、お母さん。ねえ、お父さん。私を助けて。
私のことを愛してよ。
気づくと、私は克彦に抱きしめられていた。母はもういなくて、私達はダイニングに二人きりだった。
「……俺のせいだ、俺のせいで、姉さんはいつも傷ついて……」
私はぼんやりと、克彦の胸に傷ついた額を凭れさせ、低い声を聞く。
何度も謝る克彦に、そうではないと言ってやりたいのだが、なぜだか疲れ果てていて、指一本も動かせない。
私は弟とあやまちを犯した。私は克彦を傷つけた。
――お父さんは、お母さんは、あんなに可愛がっている克彦を、私から救うこともしなかったのだ。
その方が、面倒でなかったから。克彦に勝手な「理想の息子」の役割を押しつけておけるから。
両親は私の弟を、私にたったひとり与えられた克彦を、私から助けることをしなかった。
彼らにとって、私が無価値であったから。
「ごめん……姉さん……ごめん……」
優しい克彦の心はおそらく深く傷ついたろう。克彦は私がちょっとでも悪口を言われると、もの凄く怒っていたから。それは小さい頃から変わらない。克彦はこんな私を変わらずずっと慕い続けてくれた。それなのに私のせいで、克彦は多くの傷を受けた。
「もっと……早く大人になるから……姉さんを守れるように、強くなるから……」
食い縛った歯の間から克彦は言う。
バカね、克彦。あなたを守るのは、今も昔も私の仕事なのに。
田島先生、先生が言ってたこと、本当だったね。
私にとって、克彦は最も大切な存在だった。かけがえのない、私の弟。
克彦の、心も、身体も、欲望も、すべて私に必要だった。どれひとつとして私から奪われてはならないものだった。
私達は冷え切った巣で、お互いの身体を寄せ合って、必死に生き延びたひな鳥だった。
そして、私達は傷つきすぎてお互いを思う気持ちを愛とすることもできなかった――それくらい、私達は不幸だった。
家から遠く離れた大学に進学することも考えた。克彦を置いて家を出ること。
克彦は両親に逆らうことはなかった。けれど、へつらうこともなかった。それは、克彦が高校に入ってからは顕著であった。
克彦は「わかってるよ」と言う。「わかってるよ、母さん」「わかっているよ、父さん」そう言う克彦の顔には、決まって素敵なほほえみが浮かんでいる。非の打ちようのない精悍な笑顔は、両親にそれ以上何も言わせない。「勉強はどうなの克彦」「わかってるよ、母さん」「大会はどうだ克彦」「わかってるよ、父さん」
克彦は結果を出す。望まれた以上の結果を出せば出すほど、両親は克彦にものを言えなくなる。
克彦は理解していた。両親が自分に望む役割を。彼が好むに好まないに関わらず、その役割を演じることに熟達していた。
高校生の日々は、私と克彦の関係がひとつの完成形に至ったこと、また、私が心許せる友人を得たこと、教員も含めた学校全体が寛容であったので、おおよそ穏やかに流れた。私はそれに満足していた。だから、この日々が漫然と続くことを、心の奥底で望んでいたのだろう。
進路を決めることに消極的な私に、カナちゃんは「織愛ってそういうところあるよね」と言った。
「織愛は、どっか危なっかしいっていうか、甘えたがりの猫が人に甘えられないみたいなさ、小さい子が途方に暮れたみたいな。そういうところが男子には放っておけないんじゃないかな」
けれど、私は付き合う男の子達には振られてばっかりなのだ。
「当たり前でしょ」
カナちゃんはばっさりと私の愚痴を切り捨てる。私の悪評のせいかと問い詰めてみれば、
「男子だって、最初から別れるつもりで付き合うわけないのに、織愛の気持ちがこっちにむかないんだから、そりゃさ」
でも私は、彼らの求めに答えているのに。好きだと囁き、身体を開く。
「誰かに何かをあげるときって、自分からその何かをちぎり取ってあげるんだよ。だから痛い。織愛は痛みを感じていないでしょ」
自傷行為と言い切ったカナちゃんが、私は痛みを感じていないというのは矛盾だ。
「織愛は痛みを誰にあげてるの? ねえ、好きになったら相手のことを考えたら胸が痛むんだよ。本当に痛くなるの。織愛はどう?」
カナちゃんは叶わぬ恋のエキスパートにでもなったつもりだったのか。悲劇的でありながら、彼女からは恋する気持ちの甘美さが伝わってきて、私をうらやましい気持ちにさせた。
田島に祝われて、私とカナちゃんは無事に高校を卒業して、同じ大学に進んだ。遠いがぎりぎり電車で通える公立の大学。両親は私に入学式に着るためのスーツを買うお金を与えた。
大学は高校に比べて、更に自由だった。はめを外す大学生もいるのだろうが、私は変なところが真面目で、授業を休むことなどなく大学に通った。
アルバイトも始めた。大学とアルバイトで、通学に時間のかかる私の大学生活はまんぱいになった。友達はカナちゃんがいれば良かったし、サークル活動には興味がなかった。
男の子は相変わらず私に興味を示した。新しくできた彼氏は、バイト先の先輩で、私よりも年上だった。彼は忙しく、私達の会う頻度は高くなかった。
私にはそれが都合良かった。ちょくちょく浮気もされていたらしいが、それも問題なかった。
私はよくいる大学生のひとりに擬態する。
高校二年生になった克彦は、怖いくらいに素敵だった。
よく伸びた四肢と、発達した筋肉。小柄な私に比べ、長身の克彦。並ぶと私の方が妹に見えるくらいだった。
この克彦は、私が大学生になっても全く態度を変えなかった。
「俺は、姉さんの犬だから」
嬉しそうに、もう笑えない言葉を言って、私に尽くす。克彦は「姉さんのいいようにして」と言う。
新しい彼氏ができても、彼氏が別の女の子に目移りしても、「姉さんのいいようにしたらいいよ」
それは突き放すとか、嫌みであるとかでなくて、克彦の本心であるから、参ってしまった。
克彦は役割を演じることに慣れてきて、彼自身の意志というものを無くしてしまったのではないかと不安になるくらいだった。
ご褒美はもう、誰のためのご褒美なのかわからない。
「姉さん、ご褒美をちょうだい」
克彦に抱かれる時は、胸が、肌が疼いた。麻薬のように夢中になった。麻薬のように痛みを伴った。私は克彦の与える痛みの虜になっていた。
私と弟の間には、いつも痛みがつきまとう。痛みの意味を幼い私は知らなかった。
思い返せば、私の心というのは、冬の戸外に立ち尽くしていた身体のように冷え切っていた。あたたかい風呂に入っても、手足の指先が痛んでしょうがないくらい。
私は、ぬくもりをぬくもりと感じることすら知らなかった。どんなぬくもりであっても、冷え切った身体には――心には、痛みでしかなかった。
そして私が唯一、痛みを感じる相手は弟、克彦だった。
そうこうするうちに克彦が高校三年生になって、受験を迎えた。
克彦は私に受験の相談をするようになった。彼は自分がもう大人になれるとおそらく勘違いをしていた。
この日のことを思い出すと、私は今でも震えが止まらなくなってしまう。
お母さんと、私と、克彦が揃っていた。ダイニング。
これは珍しいことだった。私達が一緒に食事を取ることは、殆どなくなっていた。
「大学に受かったら、家を出ようと思うんだ」
私は予め、克彦のこの希望を知っていた。克彦の志望校は、私が通う大学の工学部だった。克彦は家を出たがっていた――私を連れて。克彦は両親がいるこの家から、私を逃がそうとしていた。
私と母は一緒になって箸を置いた。
「毎日、通うのは大変だから、部屋を借りて姉さんと二人で家を出たらいいと思うんだ」
克彦はこの時も、素敵な笑みを浮かべていた。両親を説得する時の、「わかってるよ」の笑顔だった。
いつもなら誤魔化される母だった。克彦の笑顔はそれくらいの効力を両親に対して持っていた。
だが、お母さんは、私達の母親は、
「だめよ」
と鋭く言った。
それから、私を睨んだ。侮蔑に満ちた、道ばたのゴミをみるような目で。
「お姉ちゃんと一緒だけは、絶対だめ」
こんなに真っ直ぐ母親に見つめられたのは生まれて初めて、と私は思った。
同時に、お母さんは私達が何をしているのか知っているのだと気づいた。
母親は知っていた。彼女の子供達が同じベッドで寝ていることを。同じベッドでしていることを。
知っていて、知らない振りをしていた。知らない振りをして、息子だけを溺愛し、娘を無視し続けていた。
瞼の裏が血の色に染まった。
「克彦は男の子だからしょうがないわよね。男の子にはそういう時期ってあるものね。でももうね、わかるでしょ。もう大人になるって年なんだから。ね、克彦、ちゃんとしなさいね」
母は猫撫で声で克彦に言う。だから、私にはわかった。わかったの、お母さん。
お母さんは、私を娘だなんて、思ってなかったんだね。
お母さんは、私を娘だとも、克彦のお姉ちゃんとも思っていなかったんだね。私達が分かち合った禁断の果実も、意味がなかった。なぜなら、私はあやまちの相手に足る人間ではないから。心を持つ人間だとも思っていなかったんでしょう、お母さん。
あなたのかわいい息子の性欲処理の道具に過ぎないと思っていたのでしょう? 便利だった? よそのお嬢さんなら面倒だったけど、私ならまあいいかとでも思った? そんなに私のことはどうでもよかったの?
だから、無関心でいられたの? 私達がもがいてもがいて、罪に溺れてなおもがいていたのに、放っておけたの?
わかってるよ、母さん、と克彦は言わなかった。
「……してやる……」
克彦の手が、わなわなと震える力強い指が、茶碗を掴んだ。
私がこの時、反応できたのは奇跡に近い。
克彦の茶碗が母に向けて投げられる。私は寸でで、母親の前に身を投げ出した。母の座っていた椅子もろとも床に倒れる。
テーブルクロスとともに食器が床に散乱する。
母にあたる筈だった茶碗は、私の額をかすめた。
「何するの、織愛!」
私に抗議した母に向ける克彦の目は、三角になってつり上がっていた。
「……どいて、姉さん」
克彦はいつだって、優しく従順な私の弟だった。その弟が、こんなにも憎しみに燃えた目をするなんて、私は悲しくてならない。背後で母が悲鳴を上げる。
――お母さん、こっちを見て。お母さん、織愛を好きになって。
――ねぇ、克彦、どうしてかなぁ。織愛、いい子にしてるのに。
悲しくてならない。
私は首を振った。
母は私の肩越しに、克彦に向かって謝る。「言い過ぎたわね、克彦ごめんなさい、悪かったから落ち着いて」
彼女の手は、私の肩に置かれていた。
私は母を庇って額に傷を負う。母は息子に謝る。そして、息子は、弟は、やっと私の傷に気づく。
さっと頬が青ざめた克彦は小さい声で「どうして」と呟いた。
私もわからない。いいえ、わかっていたの。本当はずっとわかっていた。
――克彦を助けて、誰か。私の弟を。
ねえお母さん。助けてよ、この苦しみから、私を救って。助けてあげてよ、克彦を。
お父さんお母さん、私じゃ無理なの。
ねえ、お母さん。ねえ、お父さん。私を助けて。
私のことを愛してよ。
気づくと、私は克彦に抱きしめられていた。母はもういなくて、私達はダイニングに二人きりだった。
「……俺のせいだ、俺のせいで、姉さんはいつも傷ついて……」
私はぼんやりと、克彦の胸に傷ついた額を凭れさせ、低い声を聞く。
何度も謝る克彦に、そうではないと言ってやりたいのだが、なぜだか疲れ果てていて、指一本も動かせない。
私は弟とあやまちを犯した。私は克彦を傷つけた。
――お父さんは、お母さんは、あんなに可愛がっている克彦を、私から救うこともしなかったのだ。
その方が、面倒でなかったから。克彦に勝手な「理想の息子」の役割を押しつけておけるから。
両親は私の弟を、私にたったひとり与えられた克彦を、私から助けることをしなかった。
彼らにとって、私が無価値であったから。
「ごめん……姉さん……ごめん……」
優しい克彦の心はおそらく深く傷ついたろう。克彦は私がちょっとでも悪口を言われると、もの凄く怒っていたから。それは小さい頃から変わらない。克彦はこんな私を変わらずずっと慕い続けてくれた。それなのに私のせいで、克彦は多くの傷を受けた。
「もっと……早く大人になるから……姉さんを守れるように、強くなるから……」
食い縛った歯の間から克彦は言う。
バカね、克彦。あなたを守るのは、今も昔も私の仕事なのに。
田島先生、先生が言ってたこと、本当だったね。
私にとって、克彦は最も大切な存在だった。かけがえのない、私の弟。
克彦の、心も、身体も、欲望も、すべて私に必要だった。どれひとつとして私から奪われてはならないものだった。
私達は冷え切った巣で、お互いの身体を寄せ合って、必死に生き延びたひな鳥だった。
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