花びらの君に散るらしく

千日紅

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君に捧げるすべて

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 リトは見た。
 ユーリの白い頬に、細いひびが入り、内側から黒く広がってくるのを。
 ユーリの瞳が、白目との境を無くし、ぽっかりと開いた深い穴になるのを。
「ユーリ……」
 光が降ってくる。残酷なほどに白く、ユーリの上に降り注ぐ。
 リトの手から剣が落ちる。
 リトが震える手を伸ばすと、ユーリはリトの指に指を絡め、力強く握りしめた。
「……ユーリ……」
 ユーリはリトの声に、深く感じ入ったというように眉根を寄せて、瞼を閉じた。
「ここは、眩しすぎていけないね」
 ユーリはリトの身体を抱きしめた。巨大な光の柱が、城を包み、光弾が次から次へと駆け下りてくる。
「……ユーリ……いや……」
 光弾は鋭くユーリの身体を貫ぬこうとする。リトは理解した。あの光は、ユーリだけではない。リトも焼き尽くそうとしている。
 だから、ユーリはこのように黒い翼の鳥が雛を抱くように、リトを抱きしめている。
「いや……、もう、離れるのは……一緒に……」
 ユーリは、リトが自分の背に手を回すことも許さなかった。
 強く握りしめた手を、胸に抱いて、心臓の、魂の座の上に抱いた。
「リトはずっと一緒にいてくれた。だからもういい」
 光弾は勢いを増し落ちてくる。ユーリの身体から闇が剥がれ落ち、焼けていく。ユーリが焼き消されていく。
「い、一緒に……ユーリ、一緒に……」



 お別れだね。







 リトの意識は、闇の深い底に沈んでいた。
 そこには、アジーン王子と、彼の妻がいた。王子は妻の手を取って、「ああ、そうだ」と言う。
「君を妻に迎えた理由を思い出したよ。
 君が僕に笑ったのを見たとき、なぜだか心臓が痛かった。ずっと忘れていた痛みが、戻ってきたような気がした。
 最初から、僕は君にそう言えばよかったのかもしれない」
 妻は夫に笑いかける。柔らかく湿った土の上に、降り積もった落ち葉の色をした瞳をきらめかせて、懐かしい夏の日を思い出すように夫を見上げた。
「あなたが望むなら、いくらでも」
 王子の妻の微笑みは、リトが今まで触れて、見て、聞いて、匂いをかぎ、味わってきた、すべての美しいものによく似ていた。
 王子と彼の妻は、寄り添って、闇の向こうへ消えていく。



 リトはふっと目を覚ました。
 継ぎ目のない白い天井が目に入る。あたりの無機質な眩しさに瞼が引きつった。身体はまるで首から下が泥の塊になってしまったよう。
 しばらくリトは何も考えられないまま、呼吸の数を数えていた。
 いち、に、さん。いち、に、さん。
 リトは途方に暮れていた。うちひしがれて、海岸に打ち上げられた流木のように固く冷たくなっていた。
 いち、に、さん。
 リトの目から静かに涙が溢れ出る。
「随分、長い間あなたは眠っていました」
 頭巾が肩で滑って、かさかさと音を立てる。リトは自分を上から見下ろす、すっぽりと頭から頭巾を被り、長い袖で指の先も見せない人物の名前を、記憶に探す。
「……ここは、方舟ですか……」
「ええ、そうです。騎士リト。私があなたをここに引き寄せました」
 かさかさ、と張りのある薄い生地がこすれる。グルモリは笑ったらしかった。
 グルモリはリトを手伝って身体を起こさせた。グルモリはリトが自分の頬を濡らす涙を拭うのを待った。
「あなたはよくやりました、騎士リト。あなたともう一人の騎士の手柄です」
「それは……リーヌさまのことね」
「そうです」
 リトの両手、血に塗れた筈の手は、爪の間さえも清潔だ。リトという存在自体が、漂白されてしまったように、彼女は自分に、一片の力も見出すことができなかった。
「……あなたは、どこまで知っているの!? ユリさまのこともあなたは知ってた……でも、教えてくれなかった」
「私にわからないこともあります。闇が深くなれば、見えなくなるのです」
「勝手だわ」
「私に見えることはすべて教えます。リト」



 グルモリはリトを下階に連れて降りた。リトの両脚はすっかり萎えていて、階段をひとつ降りる度に、息が切れるほどだった。
 グルモリはリトを振り返りながら足音もさせず、滑るように螺旋の先を行った。
 方舟の最深部、七層目に辿り着く。リトは中央に鎮座する青い棺を覗き込んで、息を飲んだ。
 褐色の長い目に、うっすらと開いた茶色の目は、以前見た少女のものと変わらない。けれど、そこにいるのは少女ではなかった。リトよりも年嵩に見える女性が横たわっていた。
「これは……」
「クレインですよ。銀月に教えられたでしょう。果ての塔は命を力にする。あなたの王国を焼いた光は、クレインを始め、塔に集められた足りない者たちから吸い取った力でできています」
 リトはクレインから目が離せない。そして、グルモリの言葉の放つ禍々しさに怖気立つ。
 戦いの場にあって、リトは剣に飲まれた。騎士としての使命に支配され、ユーリを切った。リトの剣は、己の主を切っただけでなく、遠く離れた者たちの命を砂のように零した。
「う……」
 吐き気に襲われたリトは棺に手をつく。伝わってくる温かささえ、リトを責め立てた。
「リト、聞きなさい。本来なら、クレインは老いて、死んでいるはずなのです」
 リトは潤んだ瞳を瞬かせた。
「クレインの命を吸い取ることを、銀月が拒絶しました。銀月は、光を遮断した。クレインの命の漏出は止まり、老いは止まった。それがこの姿です」
「銀月さまは!?」
「銀月は、いません」
 グルモリは長い裾をさばいて、リトに向き直った。
「銀月は約定、国々の盟主。彼が存在するためには、クレインの命を食らい続けなければいけない。彼は、光と一緒に、それも拒否したのです。従って、銀月、約定は消えました。
 約定の無い世界はとても不安定です。私ひとりでは支えられない」
 リトは青い棺を背に立ち上がった。
「グルモリ……あなたは誰……? いいえ、あなたは何なの?」
 頭巾が震えるカサカサという音が、青に沈んだ空間に響く。
「私は、この世界の法則。
 根があり、幹があり、枝葉がある。実は、熟せば地に落ち、種がまた芽を出す。太陽が昇り昼になり、夜が来て月が昇る。世界は法則で成り立っているのです。この世界における、ありとあらゆる事象が私の管理するところです。
 しかし、闇とは法則の網の目をすり抜ける。私には捉えられないもの。時に、地に落ちた実を枝に戻し、散った花を再び咲かせる。海の水を逆巻き、天に昇らせる。
「……闇の根源は、生命と近いところにあるようです。
 法則は生命を生み出すことはできない。生命は、法則のない、いいえ何もないところから生まれてくるのです」
 リトは銀月を思う。白い髪に赤い目の少年は、棺に横たわる少女に笑って欲しいと言っていたのではなかったか。
 この少女は命のみを小さな身体から吸い出され、魂もなく、虚ろな目で世界の果てに隷属し続けていた。生まれてから、一度たりと、小さな微笑みすら浮かべることもなく、ただ命を燃やし尽くし、少年の依り代となって死んでいく。この少女を、銀月は哀れに思ったのではなかったか。

 ――鳥がいいじゃろう。鳥はどこにでも行ける。空を駆けていく。それはそれは広い、広い空を。

 白い大きな翼を広げて、約定は光の鉄槌を受け入れた。

「アジーン王子は、リーヌ妃に、生命の躍動を感じたのでしょう。彼の魂は、痛みを失って、大分世界から遠く離れていました。雷はリーヌ妃とアジーン王子に落ちました。彼らを焼き尽くしました。けれど、銀月が雷を止めた。闇を完全に焼き尽くすことはできなかった」
「闇を、完全に……?」
「あなたの主です」
 リトは目をかっと見開いた。消えたと思っていた力がまたふつふつと蘇るのを感じる。
 この力は、リトの思いだ。リトの欲望、リトの心、命。リトが死ぬまで、きっと消えることはない。
 いやリトの命が失われ、魂だけになったとしても、忘れられる記憶だけになっても、消えはしないのだ。
「私にわからないこともあります。闇が深くなれば、見えなくなるのです」
「……勝手だわ」
「だから、あなたの主のことは見えません。彼を見つけることができるのはリト、あなただけです。行きますか?」
「行くわ」
「約定が不在の今、あなたは騎士ではありません。わかりますか? あなたは騎士ではないのです。それでも?」
 騎士ではない。リトはふいに笑いたくなった。「ふふ」声に出して笑ってみる。騎士でいろ、騎士でいるな、リトの主が言った言葉だ。

 ユーリは、目が見えないから。
 ――いいえ。

 騎士だから、主のもとへ?
 ――いいえ。それだけではない。

 リトだから、ユーリのもとへ?
 ――そう。私は。

 笑うと、なぜか涙も一緒に溢れた。清々しい涙だった。
「……行くわ」
「約定も、人も、世界も変わる。それでも私は変わらない。私は世界の法則、秩序。世界の成り立ち。私は世界にあるものを永遠に育むもの。リト、あなたも私の愛しい養い子なのです。
 さあ、私を超えて行きなさい、リト」

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