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刃は切り裂くことしかできぬ
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アジーンはリトの決然とした言葉を受けて、緩く頭を仰のかせた。
「ハルが、似たようなことを言っていたな。均された世界で、自分たちは、足りないものは異端の存在だと。ハルは自分のことを、足りないというより、あまりある者だと思っていたようだが。異端の存在を包み隠し、角を取った世界は、進歩なく、やがて衰退して滅びるのだろうと。
誰も己を理解するとは思わない。しかし、やり遂げねばならぬと。そして新しい世界を作ると」
リトはそれを聴いて思う。ハルに足りないとされたもの。足りないものはなかったのかもしれない。むしろ、有り余るほどの能力を、およそ均された世界を凌駕する力を持って生まれてた彼は、足りないものと同じように、方舟に押し込められ、賢者という仮面を被されて、世界に均されていったのだとしたら――。
世界が裏返る。足りないことが、ユーリにとって見えないことがもたらした、彼の苦しみが、もっと大きな抗いようのない力によって与えられたものになる。均一であろうとする世界からはみ出る者は、庭木の枝を整えるように、折られ、地面で踏みにじられていく。多対一の構図を取ったとき、一であること、その孤独は、いかなる痛みを伴うだろう。
それでも、とリトは思う。それでも、リトは願いを込めて、己の主を見上げる。
玉座に寄り添って立つリトの主。
「……ひとりでは、どんな世界も作れない……でしょう?」
アジーンはリトの言葉に、わずかに眉を震わせた。
リーヌは静かに、アジーンの前に跪き、彼の膝の上に手を重ねた。
そして、ユーリが動いた。
彼の黒い髪が闇に名残惜しく引かれ、白い長衣の裾が揺れる。ユーリの黒瞳が、まっすぐにリトのくすんだ青い瞳に向けられる。
「あまり、俺の兄をいじめてくれるな」
ユーリは、暴戻の限りを尽くして、国を蹂躙しようとする兄王子を背に、リトの前に立ちはだかった。
リトは白く光る剣を正眼にした。剣の先には、ユーリの目がある。
真っ黒い深淵となった瞳に、湯気のように剣気を迸らせるリトが映っていた。
「リト」
名前を呼ばれて、リトの小さく細い背が大きく震えた。
「会いたかったよ。ずっと、俺が、リトを呼んでいたの、聞こえた?」
「うん」
「では、――始めようか」
ユーリの手に闇が凝り、一振りの剣となる。黒曜石のような刀身の周りは、陽炎のように空気が歪む。
一歩、また一歩と、ユーリは腕をぶらりと下げ、下段にしたままリトに近づく。
リトは瞬きもせずに、ユーリの剣が間合いに入ってくるのを待った。
「リーヌ、ユーリは面白いことを言うね」
「アジーンさま……教えて下さいまし。どうして、私を妻にして下さったのですか」
「どうしてだったっけ。よく思い出せないな」
「……知っておられますか? 私、アジーンさまに、一目惚れをしたんです。アルカを助けてくれた、びしょ濡れの王子に」
「ああ、……そんなこともあったね」
リーヌはアジーンの膝の上に顔をこすりつけた。よく猫がやるような仕草だ。猫、死んでしまった猫。本当にかわいい猫だった。胸元の白い毛が柔らかく温かかった。細い毛を指で梳きながら撫でてやると、喉を鳴らして喜ぶ、かわいい猫だった。
先に動いたのはリトだった。
飛び込んだリト、ユーリは下段に剣をはらう。リトはそれを予測して身を躱す。
「ぐぅっ!!」
避けたはずのユーリの剣は、その軌跡のままリトに衝撃となって襲う。腹部を重く剣が巻き起こした圧力に打たれて、リトはうめいた。
そこを今度は上段からユーリが斬りかかる。キィンと甲高い音を立てて、リトはユーリの剣を受けた。
白い剣と黒い剣が刃を合わせたところから、ぎりぎりと火花が散る。火花はまるで、流れ星のように闇の中に尾を引いて落ちていく。
「リト、もっとだ。もっと、強く」
「……何よ、よわっちぃ……ユーリの、くせに!」
リトは渾身の力で、ユーリの剣を跳ね上がると、鋭く突きを繰り出した。ユーリはすいと深い突きを避ける。
「こ……のぉっ!!」
リトは連続して攻撃を浴びせかける。ユーリはことごとくを躱し、または剣でいなす。リトの息が上がっても、ユーリには髪の毛一筋ほどの乱れもない。
「はぁっ……はぁっ……!」
「もっと、強くだよ、リト。強く欲し、願うんだ。お前にはそれが出来るはず。――リトは何が欲しいの?」
リトの顔が歪む。みるみる彼女のくすんだ青い瞳を覆うように、涙の膜が張る。膜は大きく盛り上がり、あっという間に睫の縁を決壊して、戦いに青ざめたリトの頬に溢れ出した。
「ユーリが……それを私に聞くの? 悪心につけ込むという……まるで、まるで、闇のようね」
涙は止まらなかった。二筋三筋と、リトの頬を伝い、顎からしたたり、剣を握りしめた彼女の拳を濡らす。
思い返されるのは、やはり、幼い頃のユーリと自分の姿だった。
ずっと側にいたくて騎士の誓いを立てた。
騎士になりたかったのではない。ユーリの騎士になりたかった。
ユーリを助けたかった。ユーリの側にいたかった。
どんな欺瞞があったとしても、それは変わらない。
「私が望むのはただひとつ」
誰しも幼い頃のままではない。リトは成長して、リトは変わった。同じようにユーリも変わった。ここにいるのは、リトの知るユーリではない。
だから、リトは叫ぶのだ。どれだけユーリが変わっても、リトはここにいると、いつもユーリのそばにいると、ユーリが忘れてしまわないように。
「私の主、ユーリを返して!」
リトの振り下ろした剣を、今度はユーリが剣で受け止める。
渾身の一撃。ユーリの表情が揺らぐ。
「返して! ユーリを返して! 私の! 私のユーリを返して!」
「そうだ、もっとだよ、リト」
リトの剣が白く炎を噴き上げる。白い光の剣を受けた黒い刀身がびりびりと震え始めた。
「ユーリ! ユーリ! お願い……! お願い! ユーリを返して!」
リトが更なる力を込める。二つの剣が、ぎりぎりとしなり、力がせめぎ合う。剣が放つ光が、リトの目を焼く。
剣とリトの境目がぼやける。リトの意識は剣に飲み込まれる。
――剣を。敵を――。
――敵を倒す――倒さなければ――。
――脅威を――打ち砕かなければ――。
剣が放つ光が内側からリトの腕を這い上る。リトの腕が内側から光を発する。光は、リトの鼓動に合わせて強くなる。その度に、剣は凄まじい剣風を噴き上げる。じり、じりとユーリの剣が圧され始めた。
――騎士は――討つ――。
――闇を討ち――。
――闇を――。
――闇の化身――彼女の主の姿を取った――。
剣に飲み込まれるリトの意識の片隅で、小さな声がする。幼い頃の彼女自身の声に似ていた。幼い声は呼んでいる。どこ? どこにいるの? 不安に怯える上ずった声。返事をして欲しい。この声が聞こえるなら、いつまでも呼んでいるから、ずっと、ずっと、何度でも繰り返し、あなたを呼んでいるから。
べき、と黒い刀身が、高温に溶ける鉄のようにひしゃげる。
リトの剣の勢いは止まらない。黒い剣がへし折られる。白い光はそのまま、ユーリの肩に食い込む。
――闇を、切るのだ――。
肩の骨が砕ける。剣はそのまま肉を断ち、大きな動脈を切断する。
切り口は皮膚が焼け焦げ、内側から血が噴き出した。
「……リト」
名前を呼ばれてリトの目に光が戻る。
「リト、俺の騎士。――ごめんね、俺のために、たくさん、痛い思いをさせて。でも、リトがよかった……。リトじゃなきゃ、どんな終わりも、嫌だった……」
ユーリの端整な顔。見慣れるということのない、恋しいひとの顔。
次第に鮮明になるその顔に、苦悶が浮かぶ。白い衣は真っ赤に染まっている。
リトは自分の手が、ユーリの血に染まっているのを見た。
「……ユーリ……? 探して……どこに……? どこにずっと……いたの……?」
リトの震える唇がこぼす言葉は意味をなさない。ユーリの手が伸びてきて、リトの涙の痕をこする。
「……騎士じゃなくても、リトが、そばにいてくれれば本当はそれでよかったんだ」
絶命は必至のユーリの傷に、闇が蠅のように集り始める。やっと得た宿主を、闇は決して手放さない。ユーリが身じろぐと、傷はまた広がり新たに血が溢れ出る。彼はそれに構わなかった。そして、忘我の境に入ったリトの剣を握ったままの血塗られた手の甲に、そっと口づけた。
「俺を……どうか、嫌いにならないで……」
リーヌはアジーンの膝から顔を上げた。夫は目の前の戦いに目を輝かせている。彼女の言葉はなかなか夫に届かない。諦めかけたこともあった。
リーヌはリトとユーリを振り返った。剣の放つ白い光と、虫たちのように群がる闇が押し合いへし合いする間で、リトは呆然と立ち尽くしていた。リトの前で、ユーリは闇に食われているのか、人としての輪郭が崩れている。
「リト、この国の騎士は、みんなアジーンさまがユリ姫に食わせてしまわれたの。闇からアジーンさまを引き離してくれるのはあなたしかいなかった。私の味方はあなたと、約定の小鳥だけ」
リーヌの声はそれほど大きくはなかったが、沈黙の満ちる闇である。聞き咎めたアジーンが、膝の妻を見下ろす。
「リーヌ、何を言ってるんだい?」
リーヌは、歌うように微笑んだ。
リーヌはアジーンに倣って、彼の知識を追った。知識はリーヌに様々なことを教えてくれた。夫について、そして自分自身について。リーヌは彼女なりに懸命に考えた。ひとえに、夫を理解するために、夫に尽くすために。夫の悩み苦しみを分かち、彼とともに生きるために。生きて、そして死ぬために。
リーヌはアジーンに微笑んだまま、短剣をアジーンの胸に突き立てた。 短剣はいつも与えられていた。アジーンを傷つけるために。痛みを与えるために。
「……リーヌ?」
「……私が、あなたの杖になりますから。あなたの側にいますから」
何度も何度もこう言った。その度に、夫は笑って相手にしなかった。
今も、アジーンが不思議そうに見下ろしてくる。
「ありがとう。僕には弟も妻もいる。だから、……孤独ではない、そうだよね」
「……そうです。アジーンさま。リーヌはいつも、いつもあなたの側にいますから」
「どうして泣いているの? リーヌ。ああ、そうだ」
リーヌは彼の心臓に短剣を突き立てたまま、自分の胸元に手を入れる。出した掌には、小さな白い小鳥が乗っていた。
「あの時、私の手と、アジーンさまの手を、アルカの爪が裂いたんです。そして私たちの血は混ざった。
アジーンさま。
私はあの時から、あなたの騎士なのです」
小鳥が目を覚ます。赤い紅玉の目が現れ、白い翼が広がる。小鳥は大きな翼を持つ鳥に姿を変える。
「約定よ。騎士が……騎士リーヌが、アジーン王子の悪心を貫きました。今が、その時なのです」
鳥は白い優美な首を天に向かって伸ばし、高く一声鳴いた。
その直後、世界の鉄槌が、幾百幾千を束ねた雷が、王城に向かって落とされた。
「ハルが、似たようなことを言っていたな。均された世界で、自分たちは、足りないものは異端の存在だと。ハルは自分のことを、足りないというより、あまりある者だと思っていたようだが。異端の存在を包み隠し、角を取った世界は、進歩なく、やがて衰退して滅びるのだろうと。
誰も己を理解するとは思わない。しかし、やり遂げねばならぬと。そして新しい世界を作ると」
リトはそれを聴いて思う。ハルに足りないとされたもの。足りないものはなかったのかもしれない。むしろ、有り余るほどの能力を、およそ均された世界を凌駕する力を持って生まれてた彼は、足りないものと同じように、方舟に押し込められ、賢者という仮面を被されて、世界に均されていったのだとしたら――。
世界が裏返る。足りないことが、ユーリにとって見えないことがもたらした、彼の苦しみが、もっと大きな抗いようのない力によって与えられたものになる。均一であろうとする世界からはみ出る者は、庭木の枝を整えるように、折られ、地面で踏みにじられていく。多対一の構図を取ったとき、一であること、その孤独は、いかなる痛みを伴うだろう。
それでも、とリトは思う。それでも、リトは願いを込めて、己の主を見上げる。
玉座に寄り添って立つリトの主。
「……ひとりでは、どんな世界も作れない……でしょう?」
アジーンはリトの言葉に、わずかに眉を震わせた。
リーヌは静かに、アジーンの前に跪き、彼の膝の上に手を重ねた。
そして、ユーリが動いた。
彼の黒い髪が闇に名残惜しく引かれ、白い長衣の裾が揺れる。ユーリの黒瞳が、まっすぐにリトのくすんだ青い瞳に向けられる。
「あまり、俺の兄をいじめてくれるな」
ユーリは、暴戻の限りを尽くして、国を蹂躙しようとする兄王子を背に、リトの前に立ちはだかった。
リトは白く光る剣を正眼にした。剣の先には、ユーリの目がある。
真っ黒い深淵となった瞳に、湯気のように剣気を迸らせるリトが映っていた。
「リト」
名前を呼ばれて、リトの小さく細い背が大きく震えた。
「会いたかったよ。ずっと、俺が、リトを呼んでいたの、聞こえた?」
「うん」
「では、――始めようか」
ユーリの手に闇が凝り、一振りの剣となる。黒曜石のような刀身の周りは、陽炎のように空気が歪む。
一歩、また一歩と、ユーリは腕をぶらりと下げ、下段にしたままリトに近づく。
リトは瞬きもせずに、ユーリの剣が間合いに入ってくるのを待った。
「リーヌ、ユーリは面白いことを言うね」
「アジーンさま……教えて下さいまし。どうして、私を妻にして下さったのですか」
「どうしてだったっけ。よく思い出せないな」
「……知っておられますか? 私、アジーンさまに、一目惚れをしたんです。アルカを助けてくれた、びしょ濡れの王子に」
「ああ、……そんなこともあったね」
リーヌはアジーンの膝の上に顔をこすりつけた。よく猫がやるような仕草だ。猫、死んでしまった猫。本当にかわいい猫だった。胸元の白い毛が柔らかく温かかった。細い毛を指で梳きながら撫でてやると、喉を鳴らして喜ぶ、かわいい猫だった。
先に動いたのはリトだった。
飛び込んだリト、ユーリは下段に剣をはらう。リトはそれを予測して身を躱す。
「ぐぅっ!!」
避けたはずのユーリの剣は、その軌跡のままリトに衝撃となって襲う。腹部を重く剣が巻き起こした圧力に打たれて、リトはうめいた。
そこを今度は上段からユーリが斬りかかる。キィンと甲高い音を立てて、リトはユーリの剣を受けた。
白い剣と黒い剣が刃を合わせたところから、ぎりぎりと火花が散る。火花はまるで、流れ星のように闇の中に尾を引いて落ちていく。
「リト、もっとだ。もっと、強く」
「……何よ、よわっちぃ……ユーリの、くせに!」
リトは渾身の力で、ユーリの剣を跳ね上がると、鋭く突きを繰り出した。ユーリはすいと深い突きを避ける。
「こ……のぉっ!!」
リトは連続して攻撃を浴びせかける。ユーリはことごとくを躱し、または剣でいなす。リトの息が上がっても、ユーリには髪の毛一筋ほどの乱れもない。
「はぁっ……はぁっ……!」
「もっと、強くだよ、リト。強く欲し、願うんだ。お前にはそれが出来るはず。――リトは何が欲しいの?」
リトの顔が歪む。みるみる彼女のくすんだ青い瞳を覆うように、涙の膜が張る。膜は大きく盛り上がり、あっという間に睫の縁を決壊して、戦いに青ざめたリトの頬に溢れ出した。
「ユーリが……それを私に聞くの? 悪心につけ込むという……まるで、まるで、闇のようね」
涙は止まらなかった。二筋三筋と、リトの頬を伝い、顎からしたたり、剣を握りしめた彼女の拳を濡らす。
思い返されるのは、やはり、幼い頃のユーリと自分の姿だった。
ずっと側にいたくて騎士の誓いを立てた。
騎士になりたかったのではない。ユーリの騎士になりたかった。
ユーリを助けたかった。ユーリの側にいたかった。
どんな欺瞞があったとしても、それは変わらない。
「私が望むのはただひとつ」
誰しも幼い頃のままではない。リトは成長して、リトは変わった。同じようにユーリも変わった。ここにいるのは、リトの知るユーリではない。
だから、リトは叫ぶのだ。どれだけユーリが変わっても、リトはここにいると、いつもユーリのそばにいると、ユーリが忘れてしまわないように。
「私の主、ユーリを返して!」
リトの振り下ろした剣を、今度はユーリが剣で受け止める。
渾身の一撃。ユーリの表情が揺らぐ。
「返して! ユーリを返して! 私の! 私のユーリを返して!」
「そうだ、もっとだよ、リト」
リトの剣が白く炎を噴き上げる。白い光の剣を受けた黒い刀身がびりびりと震え始めた。
「ユーリ! ユーリ! お願い……! お願い! ユーリを返して!」
リトが更なる力を込める。二つの剣が、ぎりぎりとしなり、力がせめぎ合う。剣が放つ光が、リトの目を焼く。
剣とリトの境目がぼやける。リトの意識は剣に飲み込まれる。
――剣を。敵を――。
――敵を倒す――倒さなければ――。
――脅威を――打ち砕かなければ――。
剣が放つ光が内側からリトの腕を這い上る。リトの腕が内側から光を発する。光は、リトの鼓動に合わせて強くなる。その度に、剣は凄まじい剣風を噴き上げる。じり、じりとユーリの剣が圧され始めた。
――騎士は――討つ――。
――闇を討ち――。
――闇を――。
――闇の化身――彼女の主の姿を取った――。
剣に飲み込まれるリトの意識の片隅で、小さな声がする。幼い頃の彼女自身の声に似ていた。幼い声は呼んでいる。どこ? どこにいるの? 不安に怯える上ずった声。返事をして欲しい。この声が聞こえるなら、いつまでも呼んでいるから、ずっと、ずっと、何度でも繰り返し、あなたを呼んでいるから。
べき、と黒い刀身が、高温に溶ける鉄のようにひしゃげる。
リトの剣の勢いは止まらない。黒い剣がへし折られる。白い光はそのまま、ユーリの肩に食い込む。
――闇を、切るのだ――。
肩の骨が砕ける。剣はそのまま肉を断ち、大きな動脈を切断する。
切り口は皮膚が焼け焦げ、内側から血が噴き出した。
「……リト」
名前を呼ばれてリトの目に光が戻る。
「リト、俺の騎士。――ごめんね、俺のために、たくさん、痛い思いをさせて。でも、リトがよかった……。リトじゃなきゃ、どんな終わりも、嫌だった……」
ユーリの端整な顔。見慣れるということのない、恋しいひとの顔。
次第に鮮明になるその顔に、苦悶が浮かぶ。白い衣は真っ赤に染まっている。
リトは自分の手が、ユーリの血に染まっているのを見た。
「……ユーリ……? 探して……どこに……? どこにずっと……いたの……?」
リトの震える唇がこぼす言葉は意味をなさない。ユーリの手が伸びてきて、リトの涙の痕をこする。
「……騎士じゃなくても、リトが、そばにいてくれれば本当はそれでよかったんだ」
絶命は必至のユーリの傷に、闇が蠅のように集り始める。やっと得た宿主を、闇は決して手放さない。ユーリが身じろぐと、傷はまた広がり新たに血が溢れ出る。彼はそれに構わなかった。そして、忘我の境に入ったリトの剣を握ったままの血塗られた手の甲に、そっと口づけた。
「俺を……どうか、嫌いにならないで……」
リーヌはアジーンの膝から顔を上げた。夫は目の前の戦いに目を輝かせている。彼女の言葉はなかなか夫に届かない。諦めかけたこともあった。
リーヌはリトとユーリを振り返った。剣の放つ白い光と、虫たちのように群がる闇が押し合いへし合いする間で、リトは呆然と立ち尽くしていた。リトの前で、ユーリは闇に食われているのか、人としての輪郭が崩れている。
「リト、この国の騎士は、みんなアジーンさまがユリ姫に食わせてしまわれたの。闇からアジーンさまを引き離してくれるのはあなたしかいなかった。私の味方はあなたと、約定の小鳥だけ」
リーヌの声はそれほど大きくはなかったが、沈黙の満ちる闇である。聞き咎めたアジーンが、膝の妻を見下ろす。
「リーヌ、何を言ってるんだい?」
リーヌは、歌うように微笑んだ。
リーヌはアジーンに倣って、彼の知識を追った。知識はリーヌに様々なことを教えてくれた。夫について、そして自分自身について。リーヌは彼女なりに懸命に考えた。ひとえに、夫を理解するために、夫に尽くすために。夫の悩み苦しみを分かち、彼とともに生きるために。生きて、そして死ぬために。
リーヌはアジーンに微笑んだまま、短剣をアジーンの胸に突き立てた。 短剣はいつも与えられていた。アジーンを傷つけるために。痛みを与えるために。
「……リーヌ?」
「……私が、あなたの杖になりますから。あなたの側にいますから」
何度も何度もこう言った。その度に、夫は笑って相手にしなかった。
今も、アジーンが不思議そうに見下ろしてくる。
「ありがとう。僕には弟も妻もいる。だから、……孤独ではない、そうだよね」
「……そうです。アジーンさま。リーヌはいつも、いつもあなたの側にいますから」
「どうして泣いているの? リーヌ。ああ、そうだ」
リーヌは彼の心臓に短剣を突き立てたまま、自分の胸元に手を入れる。出した掌には、小さな白い小鳥が乗っていた。
「あの時、私の手と、アジーンさまの手を、アルカの爪が裂いたんです。そして私たちの血は混ざった。
アジーンさま。
私はあの時から、あなたの騎士なのです」
小鳥が目を覚ます。赤い紅玉の目が現れ、白い翼が広がる。小鳥は大きな翼を持つ鳥に姿を変える。
「約定よ。騎士が……騎士リーヌが、アジーン王子の悪心を貫きました。今が、その時なのです」
鳥は白い優美な首を天に向かって伸ばし、高く一声鳴いた。
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