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「第十話 桃子覚醒 ~怨念の呪縛~ 」

7章

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 「もうッ、まったくモモったらどこ行っちゃったのよ・・・」

 額に輝く汗を拭おうともせず、藤木七菜江は道中に広がった若者たちの間を縫って疾走する。
 夏休み期間中の谷宿は密度が通常の2倍ほどに膨れ上がっていた。そこかしこに中高生のグループが人波の途中に島を形成している幅狭な歩道。全力としか思えぬ速度でいながら、誰の肩にも触れることないアスリート少女の動きは、一流のラガーマンですら真っ青なものであった。
 
 “絶対里美さんに叱られるよ・・・こんなとこに来るなんて一体何考えてんだろ?!”

 夕子が重傷を負って運ばれた翌日、敬愛する生徒会長に桃子を見張っておくよう言われた七菜江は、その理由がよくわかっていなかった。非を一身に背負ったようなエスパー少女の落ち込みぶりは激しく、到底何らかのアクションを起こすようには見えない。といってまさか自殺するわけはないし・・・呑気に構えていた己の愚鈍さが、今となっては腹立たしい。あのときすでに、五十嵐里美には桃子が危うい行動に出ることがわかっていたのだろう。
 桜宮桃子の足取りを辿るのは、比較的容易な作業であった。持って生まれた華やかさ。本人が望むと望まざるとに関わらず、究極レベルまで達した美貌はどうしても目立ってしまう。どこにでもいそうで、しかし飛び抜けて美しい少女がどちらに向かったか・・・寄せられた証言はひとつやふたつではない。七菜江は桃子が通ってきた道をほぼ正確に追うことができていた。

 しかし・・・よりによって谷宿とは。
 若者の街、と呼ばれるその場所が、5人のファントムガールたちにとっていかに危険な区域であるか。無謀の代名詞のごとく思われているアスリート少女にしても、今ではなんの準備もなく谷宿にくるような愚は犯さない。守護少女たちにとってはブロンクスの無法地帯以上に危険な街。「闇豹」神崎ちゆりが支配する暗黒のテリトリーに、戦士としてもっとも未完成な桃子は単独で踏み込んでしまったのだ。

 “お願いだから無事でいてよね・・・せめて極悪ケバケバ豹女に見つかってないといいけど”

 もしこの街で神崎ちゆりに出会ったら・・・考えただけでもゾッとする。尽きることない配下の不良軍団、どこに仕掛けられているかもわからない罠の数々、周り全てが敵のようなものだ。腕に多少の自信がある七菜江ですら、ひとり谷宿に足を踏み入れるのは正直怖い。緊張感と焦りのなか、飛燕の速度でショートカットの少女は親友を探し続けていた。

 偶然か、あるいは運命か。事態が急な展開を見せたのはその時だった。
 雑多な人混みのなか、七菜江は確かに感知した。その異様なオーラを。疾走する少女の顔がなにげない自然さで横を向く。傍から見ているぶんには特に変わった様子もないメインストリートの一角。引き寄せられるように、誘われるように、猫顔少女の吊り気味の瞳はその人物の姿を捉えていた。

 「ッ吼介先輩ッッ?!!」

 筋肉の鎧を身に纏った男が、華やかな通りの真ん中で仁王立ちしている。
 あの南の島以来の邂逅。Tシャツもデニムもはちきれそうな張りのある肉体も、浅黒く焼けた精悍な顔も、立ち昇る圧倒的な熱量も、なんら変わるところはない。最強と呼ばれる高校生は、唐突に七菜江が良く見知るその姿を現した。ただひとつ、変わったところ。それは、銀色の女神の秘密が、秘密ではなくなったということのみ。ドキリと心臓を鳴らした少女に、別の緊張が湧き上がってくる。

 “先輩、どんな顔で話してくれるのかな・・・?”

 なにもなかったように話す? 前みたいに笑いかけてくれる? それとも・・・もう話してはくれないのかな?
 最大の秘密を知られた守護天使と、その秘密を知っていることを悟られた格闘獣。外見上は数日前とはなにも変わらないふたり、だが置かれた状況は今までとは大きく変わってしまったふたりの高校生が、不意な再会を遂げようとしている。
 ショートカットの少女は覚悟をしていた。この日が来るのを。愛する男にファントムガール・ナナの正体を知られる日を。知られたうえで、なにげなく会わねばならない日を。どんな顔をして、どんな声を掛ければいいのか、まだ答えは見つかっていなかったのに・・・

 “こんなところで出会っちゃうなんて・・・神サマはひどい、よね・・・”

 気付かないフリをして立ち去るという選択肢も、七菜江にはあった。
 だがグラマラスな少女の足は、しばし親友の捜索を後に回し、闘神の化身に近付いていく。
 わかっている。逃げても意味はないことを。今後、工藤吼介との距離を今まで以上に縮めようと願うのならば、『エデン』の戦士に選ばれた運命に目を背け続けることはできない。どんな反応が返るのか、震えるほどに怖くても。どんな態度をすればいいのか、混乱してガチガチになっていても。
 七菜江は決めた。ファントムガール・ナナの正体を知る男・工藤吼介に、真正面から会ってやる―――

 絶えることのない若者たちの波を縫って、Tシャツにホットパンツというラフな格好の少女が頭ひとつ突き出た巨体に歩み寄る。横から見る工藤吼介の男臭い顔は、いつにもまして引き締まって見えた。じっと前方を見詰めたまま近付く七菜江に気付いていない様子の筋肉獣に、哀しげにも見える表情を浮かべた少女が声を掛けんとする。

 「来るな、七菜江」

 予想外の台詞が、岩のごとき男の口から洩れた。
 アスリート少女の存在に気付いていたのも意外だが、毅然とした口調で接近を拒否されたのが、純粋な乙女の心を揺さぶる。やっぱり・・・ダメなのかな? 闘いに身を置く女なんて。翳りかけた七菜江の表情が、吼介が一瞬たりともそらさない視線の先を見て一変する。

 飛び込む深紅。
 フェラーリを彷彿とさせる鮮やかなレッド。派手な色遣いのスーツを着こなしたスタイル抜群の美女は、他者を見下したようないつもの余裕を見せず、緊張した面持ちで吼介の先7mに立っていた。

 「ッッ?! 片倉ッ・・・響子ッッ!!」

 迂闊。工藤吼介の圧倒的存在感に惑わされて、この悪女の存在に気付かなかったなんて。
 七菜江を敗北に追い込んだ妖艶な天才生物学者が、こんなところで最強の男と対峙しているとは。ただならぬ状況と雰囲気が、守護少女を一気に戦闘モードに切り換えていく。

 「なんであんたがこんなところにッ?!」

 「とんだところで邪魔な子猫が現れたわね」

 ハーフを思わせる美女の瞳は、可憐な女子高生を映してはいなかった。釘付けの目線。向けられた先に立っているのは、筋肉が合体してできた逆三角形の巨体。

 「藤木七菜江、あなたとは今度遊んであげるから、手は出さないでもらおうかしら? これは私と工藤くんの問題だから」

 思わず少女の視線が、仁王立つ闘神に向き返る。

 「片倉センセイの言う通りだ、七菜江」

 淡々と語る吼介の表情にも、静かな、そして濃密な緊張が漂っている。
 闘うつもりなのか、工藤吼介と片倉響子。
 メフェレス側の参謀格ともいえるこの妖女が、最強の高校生に接触を図っていたことは七菜江も知っている。そしてその狙いが、恐らく最強のミュータントを誕生させることにあるのも。『エデン』との融合を納得してもらうため、吼介へのアタックは幾度も繰り返されたようだった。
 だが、もし吼介が智謀に富んだ悪女の誘いを、ハッキリと断ったらどうなるか?
 戦力にならなくなった最強の格闘獣は、響子にとって脅威でしかないはず。ならばふたりの激突は避けられないと考えるのが当然。

 “で、でも、いくら先輩が強くっても、この女はフツウじゃない! あたしが・・・あたしが先輩を守らないと!”

 異様な空気を感じ始めたのか、行き交う中高生たちがすれ違いざまに奇妙な三角関係を見ていく。キュートな美少女と、妖艶な美女と、筋肉に包まれた男。ショートカットの女子高生が、わずかに腰を下ろし身構える。

 「やめろ、七菜江」

 「け、けど・・・」

 「自分のケツは自分でふくさ」

 メキョ・・・メシメシメシィッ・・・ミチミチッッ・・・

 聞き慣れない怪音が逆三角形の肉体から響いてきたのは、その時だった。
 鋼鉄のごとき筋肉の鎧が膨張していく。Tシャツに浮き彫りになった膨大な筋繊維はダイヤモンドのように研ぎ澄まされ、体内で沸騰する熱が男の周囲を陽炎で揺らす。
 最強の名に恥じぬ格闘獣、見参。
 若者の街のメインストリートに、今、破壊の香り立ち込める闘神がその変身を完了させようとしていた。
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