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「第八話 ユリ武伝 ~海棲の刺客~」
11章
しおりを挟む「ユッッッ・・・ユリいいィィィッッ―――ッッッ!!!」
3階建ての雑居ビルの最上階、総合格闘技の猛者たちが失神して眠る“アタック”ジムの窓から、正義の女神と邪悪なヤドカリ怪物との闘いを見守っていた西条エリが、思わず愛する妹の名を叫ぶ。
己を抱き締めるように両手で腹部を押さえた柔術少女は、兵頭英悟に蹂躙された内臓の痛みも忘れて、ガラス越しに妹の奮戦を眺めていた。美しい銀色の女神と化した双子の妹は、ヤドカリのキメラ・ミュータントに苦戦を強いられ、燃え盛る炎に包まれて高く掲げられている。このままの状態が続けば、ファントムガール・ユリアが全身を焼き尽くされて絶命することは、子供にでもわかることだった。
“や、やっぱりあの状態のユリを、闘わせるべきではなかったの? で、でも・・・”
「ユリアッッ!! あなたしか、闘えるひとはいないんだよ?! 自分の力で脱出しないと!」
聞こえるはずもないエールを、エリは必死で室内から送る。
“里美さん・・・どうして・・・どうしてあのとき私を・・・”
巨大少女の悲鳴を聞きながら、西条エリの脳裏にはつい2週間前に五十嵐家の地下で話した、美麗な少女との会話が蘇っていた。
「エリちゃんを、ファントムガールにさせるわけにはいかないわ」
憂いを帯びた瞳を横顔に浮べながらも、ファントムガールのリーダーである五十嵐里美は、毅然とした口調で言い放った。
「ど、どうして・・・ですか? 『エデン』は・・・まだひとつあるって聞きました・・・」
おずおずとしながらも、エリは誰もがしり込みせずにはいられない圧倒的美少女に食い下がる。
「確かに『エデン』はまだひとつ残っているわ。でも、できるならそれは使いたくはないの。私たちにとって、最後の切り札になるものだから」
「それは・・・私では、実力不足という意味ですか?・・・」
双子の妹に敗れ、次期後継者の座を失っているエリにとって、ユリと実力を比べられるのは、本来実にデリケートな話題であるはずだった。
内気で真面目で純粋な少女が、そのことで妹と仲違いする可能性は無に等しいが、それでもユリより劣ることを指摘されるのは、少なからぬ屈辱であるはず。そんな背景を理解していないわけがない里美だが、切れ長の瞳で真正面からエリを見据えてきっぱりと言う。
「そう思うなら、そう受けとってもらっていいわ」
ピンク色の唇をキュッと噛んだエリが、俯いて視線を落とす。
部屋の隅でソフトクリームを舐めながら、本人としてはさりげないつもりで様子を窺っていた藤木七菜江の細い眉根が思わず寄る。単純な少女がムッとしてしまうほど、里美の口調は厳しいものだった。だが、冷淡な姿勢を見せるときほど、尊敬する生徒会長が深い慈愛を隠していることを知る七菜江は、動きかけた足を止め口出しするのを我慢する。
西条エリがたったひとりで五十嵐家を訪ねてきたときから、なにやら平静ではない空気は感じていた。七菜江が見たエリの固い表情は、修羅の世界に入ろうとする少女の決意が生んでいたのだ。
エリの武道家としての実力を、七菜江は身をもって知っている。極限のレベルで見ればユリとは差があるのだろうが、その辺の男が数人がかりで襲っても敵わない強さを持つのは確実だった。6人目のファントムガールとして、これ以上の適任はいないはずなのに、里美が強く拒否するのがスポーツ少女には不思議だった。
「じゃあ・・・七菜江さんと手合わせさせてください・・・・・・実力を証明しますから・・・」
「いいィッッ?!!」
突然飛びかかってきた火の粉に、ショートカットの少女からソフトが落ちそうになる。
「だめよ」
「ど、どうしてですか?!・・・・・・今度は柔術以外を使ってもらっていいですから・・・」
「このコはわざと負けるもの。それにもし、真剣にやるのなら・・・結果はわかっているわ」
胡桃のような丸い瞳が、みるみるうちに伏せられていく。
返す言葉を失った白い少女は、しおれた華のように無言でその場に佇んだ。儚げな少女をさらに沈痛な空気が包み、見ている七菜江にまで痛々しさが伝わってくる。
白いセーラー服の丸い肩に、そっと優しく手が添えられたのはその時だった。
「なぜ、そこまでしてファントムガールになりたがるの?」
咎めるためでも諌めるためでもない、純粋にエリを心配するがゆえの里美の言葉。
底の見えない優しさに包まれて、エリの心に温かい奔流が沸きあがる。溢れようとする涙を懸命にこらえ、静かな少女は質問に答えた。
「ユリは・・・ひとりでは、本気で闘えないんです・・・私が、いつも側にいないと・・・・・・」
「あなたたちがふたりでひとりのファントムガールであることは理解しているわ」
「でも・・・ユリは多分、気付いてないんです・・・私が“許可”なんて、だしたくないことを・・・本当はあのコに・・・闘って欲しくなんかないことを・・・」
“許可”をだすこと、それはつまり、闘いに送り出すのと同意。
世界でただひとり、西条ユリを本気にさせることができる姉は、世界でもっとも妹を本気にさせたくなかったのだ。
だが、窮地が迫った折に、人類を、仲間を、そしてユリを救うためには、エリは“許可”を出さざるを得ない。その葛藤のなか、淑やかな少女はひとり苦しんできたのだった。
「だから私が・・・私がユリの代わりになりたいんです・・・柔術の腕は、劣るかもしれないけど」
「エリちゃん・・・」
品のある柳眉が、哀しげに垂れる。深い湖をたたえた漆黒の瞳が、ひどく切なく揺らいで見えた。トラウマを抱えた妹を守りたい気持ち。姉の切実な想いは、心優しき正義の守護者には突き刺さるように伝わっているはずだ。
それでも五十嵐里美は、エリが望む返事を返そうとはしなかった。
「あなたたち姉妹を、ふたりとも『エデン』と融合させるわけにはいかないわ」
じっと見詰める美しい瞳を、エリは生涯忘れることはないだろう。
「ふたり揃って不幸になる必要は・・・ないのよ」
“あのとき私をファントムガールにしてくれてたら・・・ユリを助けにいけるのに・・・”
焦るエリの心に浮かぶのは、里美への不満ではなく、疑問であった。
麗しき令嬢がエリのためを思って『エデン』との合体を拒否したのは、痛いほどよくわかっている。しかし、戦士として中途半端なユリを守るためには、エリに異能力を与えるのは決して無駄ではないはずだ。
それだけではない。トラウマに縛られた妹を倒すため、まずは姉を襲う作戦は十分に案じられた。エリ自身を守るためにも、『エデン』との融合はむしろ積極的に進められてもおかしくはないのだ。あの思慮深い美少女が、それに気付いていないわけがない。
他にもなにか、理由がある。エリに『エデン』を渡さぬ理由が。
そして、恐らく、その理由は里美以外の誰かが、彼女に強制しているであろうことを、エリは本能的に悟っていた。
だが、今はその誰かを推測している余裕はなかった。
遠く離れた伊豆の地に、残り4人のファントムガールが駆けつける可能性はゼロだ。来てもタイムリミットの1時間はとっくに過ぎ去り、ユリもエリも悲惨な運命を辿っていることであろう。
どんなに悔やんでも、エリに『エデン』の能力が宿ることはない。どう考えても、ユリアの窮地は彼女自身が脱出するしかないのだ。
「ユリアッッ、冷静になって! 相手の身体はあなたに接しているのよ」
無駄と知りつつ、ガラス越しにエリは叫ぶ。
苦痛に意識を奪われているユリアにはわかっていないようだが、想気流柔術を習得した者にとって、今の状態は決して脱出不可能ではない。少しヒントをやれば、恐らくユリアも気付くだろう。しかし・・・。
このジムから死闘の現場まで、300mくらいか。巨大な正邪が闘う轟音のさなか、おとなしいエリの声量でことばを届けるのは実に困難といわざるを得ない。
「ユリちゃん!」
突然背後から抱き締められ、条件反射でエリは投げ飛ばしそうになる。
だが、男には悪意が潜んでいなかったことが幸いした。細身の身体を包む両腕に、慈しむような温かさを感じ取ったエリは、瞬時に男が敵ではないことを悟る。
「よかったァ~! ユリちゃん! 無事だったんだなッ、よかったァ~!」
泣き出しそうな声で何度もよかった、よかったと繰り返し、男は強く抱いたら壊れてしまいそうなエリの背中に頬を擦りつけてくる。
予想外の事態に動転しつつも、真っ赤な顔をしたエリはゆっくりと男の両腕をほどいた。
「え、えっと・・・カネコさん?」
一旦宿舎に戻ってきたユリから、兼子賢児の容姿とどういう人間かは聞かされていた。
長身、金髪、焼けた肌。鼻と口から血を溢れさせているのと、エリが倒した連中のなかにいなかったことを思うと、兵頭を裏切って粛清でもされたと考えるのが妥当か。ひとを見るのが意外と確かなユリが悪いひとじゃないと言っていたのも、見た目軽薄そうな男を信用する助けになっている。
双子の姉の存在を知らない彼が、エリをユリと間違えるのも無理はない。髪型や服装の違いなど、この緊急事態では大して気にもならないのだろう。
ユリアの正体を知られるわけにはいかないエリにとって、この勘違いは好都合といえた。
「オレはてっきり兵頭さんに殺されるんじゃないかと・・・よかったッ、よかったァ・・・」
再び抱きついてくる興奮気味の少年を、さりげなく押し戻しながらエリは切迫した声をあげる。
「この建物・・・屋上にいけますか?!」
「えッ?! あ、ああ、いけるけど」
「一緒に・・・来てください!」
白く長い指が、黒く焼けた手を握るや、セミロングの美少女は走り出す。なにがなんだかわからぬまま、金髪少年は可憐な少女に引き連れられていく。
数十秒後、白い少女と褐色の少年は、灰色の雑居ビルの屋上に現れていた。
「うおおッ?! なんだありゃあッ!!」
つい先程まで失神していた兼子は、巨大な赤茶色のヤドカリを目にして、たまらず叫んでいた。
どう見ても、災いをもたらすとしか思えぬ凶悪な外見。白い巻貝を背負った岩のような怪物が、か細い銀と黄色の戦士を蹂躙している。巨大な鋏が左腕と右脇腹に食い込み、ポトポトと鮮血を滴らせている。全体にオレンジのヴェールがかかった可愛らしい顔の女神からは、炎が蜃気楼のように立ち昇り、少女戦士が灼熱地獄に陥っていることはすぐにわかった。
「んんああああああッッッ――――ッッッ!!!! あッッ、熱いいイイィィッッ――――ッッッ!!!! いやああああああッッッ~~~~ッッッ!!!!」
ファントムガール・ユリアが生きたまま焼かれていく苦しみに、悲痛な叫びをあげ続けてどれくらいたっただろうか。
細い左腕にはもう半分は鋏が食い込んでいた。ギリギリと絞まる脇腹の内側で、アバラが歪んでいくのがわかる。溶岩を内臓に流し込まれたような苦痛が、永遠に続いている。半分意識を吹き飛ばされながら、ユリアは苦悶の海を泳がされていた。破壊欲に囚われた怪物シェルは、明らかに武道天使を嬲り殺して楽しんでいる。ユリアの悲鳴を搾り出して、悦びに浸っているのだ。
「あ、あれがファントムガール・・・やばいぜ、死にそうじゃねえかッ!」
「カネコさん、手伝ってください!」
言うなりエリは、ありったけの大声でファントムガールの名を叫び始めた。
本来ならば、巨大生物にも存在を知られてしまう、実に危険な行為。だが、希望をユリアに賭けるしかない以上、エリは精一杯の声で呼び掛ける。
「お~~い! ファントムガール! こっちだあああ~~ッッ!!!」
「!! ・・・ありがとうございます、カネコさん」
事情を察していない兼子が、エリの真似をして大声で絶叫する。
鈴のようなエリの声とは違い、猛々しい少年の咆哮は何倍もの大きさで夜空を渡っていった。危険であることを了解しつつ、金髪少年はよくわからないまま、ユリと間違えたエリの願いを聞いて声を嗄らして叫ぶ。切羽詰った状況下で、見掛けとは違う少年の優しさが、エリには頼もしく心に響く。
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