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「第八話 ユリ武伝 ~海棲の刺客~」

6章

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 「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」
 
 夕闇が押し寄せるジムに、荒い息遣いが充満する。
 せわしない呼吸は複数のものだった。西条ユリが、この総合格闘技ジム“アタック”の策謀渦巻く室内に姿を現してから、約20分が過ぎようとしている。夏の暑さ対策で、エアコンにより涼しく調整されているはずの部屋は、蒸せかえる熱で占め尽くされていた。白いマットのところどころに、ポツポツと汗の滴りが落ちている。
 
 圧倒的不利な状況に陥りながら、天才武道少女はいまだに致命的なダメージを受けずにいた。
 右頬が切れて、一筋の朱線が横切っている。
 黄色のタンクトップや白のシャツは乱れ、腹部や肩口には汚れがついている。これまでの闘いで、何発か打撃はもらっているが、そのダメージはわずかなものだった。わずかですむよう、巧みな防御でユリはかわしていた。素人ではない、総合格闘技を学ぶ猛者たち数名に囲まれて、ここまで凌ぐこと自体、華奢な少女の実力が飛び抜けていることを示していよう。
 だが、今、西条ユリの愛くるしいマスクにこびりついているのは、疲労と焦りの色だった。
 
 ユリが無傷であるのと同じく、周囲を囲んだ男たちもまた、無傷であった。
 次々と襲いかかる屈強な男どもは、面白いように美少女柔術家に投げ飛ばされていた。殴りかかっては手首を掴まれ宙を舞い、タックルを仕掛けてはすかされて倒れこむ。高見を決め込む兵頭と、手を出せないでいる兼子賢児以外の6人が、津波となって飛びかかるが、細身の武道少女は柳のようにしなやかに揺れながら、鮮やかに受け流し、撥ね返していく。幼少のころより稽古に明け暮れた天才武術家と、屈強とはいえまだ格闘経験の浅い男たちとの力の差は歴然だった。
 だが、今現在西条ユリを取り囲んでいる状況は、この闘いが始まったころから全く好転を見せてはいなかった。6人の敵は誰ひとり欠けることなく、孤立した美少女を包囲している。
 
 「フフン、どうした、西条ユリ? だいぶ息があがってきたようだが?」
 
 腕組みをしたまま嘲る兵頭英悟を、悔しさのこもった瞳でユリは見る。
 これが試合ならば、武道少女は男たちを相手に30連勝以上しているだろう。
 技術を駆使して、関節を極め、投げ飛ばしていくユリ。しかし、彼女の攻撃は、その全てに遠慮が入っていた。
 投げる時には背中から落とし、関節を極めても、あと少し力を入れれば外れるというところで離してしまう。しばらくの間は苦しんでいる敵も、時間が経つにつれ戦列に復帰してくる。倒しては立ち上がり、立ち上がっては再び襲ってくる敵を相手に、ユリはたったひとりで闘い続けているのだ。6人という人数の多さ、それに下が柔らかいマットであることが、ユリに苦境を忍ばせている。
 
 「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・う・・・うぅぅ・・・・・・」
 
 白い額に柔らかな黒髪がへばりついている。黄色のタンクトップには、点々と汗の沁みが浮き出ている。投げられ、痛めつけられている男たちの息もあがっているが、孤独な闘いを強いられている美少女の疲労は遥か濃い。どこかのショートカットの少女とは対照的に、ユリの闘い方は体力のロスが極端に少ないが、20分以上も休む間もなく襲われては、さすがの達人も限界が近い。
 
 “こ・・・こんなに・・・倒したいと思っているのに・・・・・・どうして・・・どうして、手加減してしまうの・・・?”
 
 自問する答えを、ユリ自身の奥底は気付いていた。
 後継者を決める闘いで、双子の姉であるエリを完膚なきまでに叩き潰してしまったあの日。
 あの日以来、心に負ったトラウマは、己の感情などでは制御できない深いレベルのものだった。傷つけてしまった当事者のエリの許可がなければ、全力を出せなくなってしまったユリ。ファントムガール・ユリアとして、この星の守護者の顔も持つことになった彼女にとって、それは致命的な欠点であり、克服しなければならない弱点であった。姉がいなければ本気をだせないということは、ユリを窮地に落とすだけではない。普通の人間であるエリを、「エデン」寄生者の死闘に巻き込むことにもなる。事実、エリは葛原修司という「エデン」の寄生者に、瀕死の重傷に遭わされていた。
 かけがえのない姉・エリのためにも・・・いや、エリのためにこそ、ユリはこの弱点に打ち克たなければならなかった。
 
 何も罪のない女性を、楽しむために嬲る兵頭に対し、かつてないほど怒りを覚えたユリは、密かに自分が本気を出せることを期待した。火がついたように熱くなった少女の胸は、間違いなく卑怯な相手を倒すことに燃えていたはずなのだ。
 だが・・・それでもやはり、ユリは全力を出すことが出来なかった。
 頭から落とそうとするのに・・・関節を外そうとするのに・・・できない。
 魔法でもかかったように、武道少女の肉体は意志を裏切って、敵を仕留めることを許さない。無限とも思える格闘地獄に落ち込んだ幼い少女に、破滅の足音はすぐ背後にまで迫っていた。
 
 「なかなかの腕だが、どうやら詰めが甘いようだな。どれ・・・そろそろオレの出番かな」
 
 ずい・・・と腕組みを解いた「皇帝」兵頭英悟が、数歩進み出る。
 激しく呼吸を繰り返す童顔が、厳しい視線を向ける。怒りはこもっているが、どこか可愛らしさの拭えない瞳。薄めの唇は半開きであり、熱い吐息がせわしなく吐き出されている。
 圧倒的優位にありながら、より安全な方法を選択する兵頭。敵のなかで最も強いのが、“アタック”総帥である兵頭であるのは雰囲気からも確実だが、それでも卑劣な男はユリの体力が枯れるのを待っていたのだ。改めて怒りが沸きあがるのを感じるユリ。しかし、感情を裏切り、疲弊しきった肉体は、思うように動かなくなりつつあった。
 
 一気に、流れるように、兵頭の頑強な肉体は水仙の少女の目前に飛び込む。
 うまい。間合いの詰め方は本物だった。
 すっ・・・と自然な動きで射程距離に入った兵頭の、初弾。
 異形の拳が、唸りをあげて振りかかる。
 大振りの右フック。ボクサーのような華麗さはないが、空気を切り裂く尋常でない速度が、危険なまでの破壊力を教える。
 バックステップでかわす武道少女。続けて襲いくる左のアッパーも、同じく下がって空振りさせる。
 鼻先をかすめる風圧。石が埋まっているような凶悪な拳の一撃は、決して耐久性に優れているとはいえぬユリにとって、もらってはならない代物だった。
 
 “この男・・・強い! でも・・・”
 
 捕らえられる。
 兵頭英悟の瞬発力、パンチの軌道は、彼がこの街で権勢を振るっていることを十分に納得させるだけのものがあった。格闘家としての実力は、本物であると断言してもいい。
 だが、格闘家の実力を論じるならば、天才であるユリには敵わない。
 次。いや、次の次のパンチ。
 速度と軌道を把握しきった武道少女が、逆転へのカウンターを狙う。
 兵頭の右拳が、真っ直ぐに伸びてくる。右ストレート。
 三度、下がって凶悪な拳をよける美少女柔術家。
 
 「!!」
 
 ゾクリという悪寒が、ユリの背筋を駆け登る。
 背中に飛んでくる、蹴り。
 少女戦士の敵は兵頭だけではなかった。囲んだ男たちのひとりが、無防備な背後から不意打ちを仕掛けてきたのだ。
 背に眼がついているかのような反応で、身体を捻って蹴りをかわすユリ。
 その身のこなしは、まさに天才武道家の名に相応しい。前からの兵頭のパンチをよけるだけでも凄いのに、背後からの不意打ちすら同時によけてしまうとは。
 だが。
 
 ”しまッ・・・!!”
 
 白のマイクロミニから生えたカモシカの脚が、積み重なった疲労でもつれる。
 達人が見せる、大きな隙。チャンスを窺っていたハイエナたちが、それを逃すはずはない。
 
 鈍い音を残して、強烈な蹴りが白い少女の背中を打つ。
 軽量のユリが吹き飛ぶ。反りあがった肢体の先に待つのは・・・兵頭英悟。
 蹴り飛ばされたユリの姿勢はあまりに不安定であった。ふらふらとつんのめる美少女の腹部に、ついに凶悪な拳が突き刺さる。
 
 ドボオオオオオオッッッ!!!!
 
 「ぐはあアアッッ?!!」
 
 一気に見開かれる、胡桃の瞳。
 兵頭のボディブローは、斜め下から鳩尾に突き刺さっていた。異形の拳がまるまる細身の内臓に埋まりこんでいる。叫びとともに、ユリの口からは大量の唾液が溢れた。胃が破れてしまったのではないか。身体の中央を灼く圧迫と痛みに、華奢な肢体がビクビクと痙攣する。
 容赦ない「皇帝」の追撃は、左のフックとなって、人形のごとき愛らしい顔面に撃ち込まれる。
 
 パシッッ!!
 
 猛スピードで迫る拳を、ユリの右手が絡め取る乾いた音が、やけに大きくこだました。
 兵頭の視界が、天地逆になる。
 華麗なる柔術の技。手首を曲げられる激痛が、肘に、肩に、電流となって伝わっていき、兵頭英悟の四角い肉体は、弾けるように飛びあがった。空中で一回転した卑劣な支配者は、背中から激しくマットに落ちていく。
 
 「んんッッ・・・ぐはアッッ!・・・ぅぐ・・・・・あアアッ・・・うああッ・・・・・・」
 
 拳が抜けた鳩尾を両手で押さえながら、過酷な杭刺しを逃れたユリが苦悶に呻く。まるで腹部に穴があいたかのような痛撃。鉛が埋まったような重い痛みがいつまでも身体の中央に残り、下半身が麻痺したような錯覚を覚える。
 
 ”な・・・なんて打撃・・・・・・こ、こんなに効くなんて・・・”
 
 アニメにでも登場しそうな美少女の顔に、びっしょりと脂汗が浮ぶ。
 拳頭が盛り上がった形から兵頭の拳がいかに鍛えられているかは知れたし、肉体の筋量から力も推測できた。その打撃が並外れた威力であることは覚悟していた。が、実際に受けた一撃は、ユリの想像を遥かに凌駕する破壊力を持っていたのだ。
 物心ついたときより柔術の稽古に明け暮れたユリではあるが、基本が投げ技であるため、打撃の免疫は一般の少女よりやや強い程度だ。それはモデルのような、スラリと伸びたスレンダーな体型も大きな起因のひとつになっていた。もし、『エデン』の寄生による耐久力のアップがなければ、今の一撃も耐え得れたかどうか・・・。
 
 予想の範疇を越えた、いや、逆にある不穏な予想を喚起されずにはおれぬ兵頭の強さに、焦燥を募らせる白い妖精を更なる衝撃が襲う。
 
 「このオレを、まさか投げ飛ばすとはな」
 
 「皇帝」兵頭英悟は立っていた。
 右肩を押さえているところを見れば、ノーダメージというわけではない。ユリが相変わらず、全力で叩きつけれなかったのも事実だ。だが、それでも1mの高さから落とされて、間髪いれずに立ちあがってくるのは尋常ではない。
 
 「うッ・・・・・・ううぅ・・・」
 
 腹部を押さえたまま、ユリは知らず、2歩後退する。
 突然の衝撃に、細身の肢体はガクンとぶれた。
 背後からのタックル。武道少女を取り囲む輪は、わずかな隙も逃しはしない。
 白い水仙が一瞬浮く。だが甘かった。タックルに加わった力のバランスの悪さを、瞬時に見抜いた美少女の肉体は、巧みな捌きですり抜けていく。
 すかさず次なる刺客の低いタックルが飛ぶ。
 風に舞う花びらのように、少女の身体が開く。柔術家のお手本となるタックル防御。最小の動きで軸をずらして、突っ込んでくる攻撃を無効化する。
 
 天才と呼ばれる少女の華麗な技も、そこまでだった。
 激しい疲労と腹部へのダメージ。そして複数による続けざまの攻撃。
 かろうじて2撃まではかわした正義の妖精に、狙いすました「皇帝」のタックル。
 段違いのパワーとスピードに、足元から刈り取られた白百合は宙を飛んだ。
 
 ふたつの肉体が、絡み合ってマットに落ちる音が響く。
 強靭な肉体の下に組み敷かれる華奢な少女。囲んでいた男たちが、池に落ちた獲物に群がるピラニアのごとく、一斉に飛びかかる。
 両手両足をひとりづつが全体重をかけて押さえていく。四肢を伸ばされ、畳に大の字に張り付けられる武道少女。襟足で縛ったふたつのおさげ髪まで、ご丁寧にひとりづつに踏まれる。
 首を動かす自由まで奪われ、西条ユリは屈強な男たちによって完全に取り押さえられてしまった。
 
 「ううッッ・・・・・・くッ・・・ああぁッ・・・!」
 
 動かない。手も足も、ピクリとも動かない。
 元々非力なユリは、「エデン」の助けがあっても、腕力自体は普通の女のコとなんら変わることがない少女であった。圧倒的技量を誇る柔術少女も、力で押さえ込まれてしまっては、翼をもがれた小鳥も同じ。
 悔しさと怒りと恐怖の混ざった丸い瞳が宙を泳ぐ。
 もはや、逆転の可能性が皆無であることを知るのは、ほかならぬユリ自身であった。
 
 「フン、てこずらせやがって」
 
 胴に跨った兵頭の冷たい視線が、股下の美少女を見下ろす。勝者と敗者を残酷に凝縮した図がそこにはあった。
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