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「第八話 ユリ武伝 ~海棲の刺客~」
5章
しおりを挟む幽玄のような灯りが、連なって淡い闇の世界に浮んでいる。
民宿やお土産屋の店名が書かれた蛍光の看板。ネオンと呼ぶには、そのどこまでも続く光の帯は淡白すぎた。ネオンという単語が極彩色のイメージを持つのに対し、目の前の世界は水墨画を思わせる。どこかアナログの香する街並みの情景が、西条ユリの心を古き良き郷愁へと誘う。
首都圏に隣接した伊豆の街並みは、現代社会に生きるものたちを癒すべく、瀟洒でいながらどこか懐かしさを感じさせた。海が近いせいか、昼間の熱気が嘘のように心地良い風が頬を撫でていく。賑やかさと、けだるさの絶妙なバランスが街を包んでいる。リゾート地の老舗の風格が、この土地には沁みついていた。
「いい・・・ところですね」
ユリは素直な言葉を吐いた。
この界隈の裏世界では「皇帝」と呼ばれている男、兵頭英悟との闘いが待ちうけているとは思えぬ、平然とした様子。平常心が闘いにおいて重要な要素を占めるのならば、ユリが武道の達人であることに、疑いを持つ者はいないだろう。
「・・・そこが、オレたち“アタック“のジムだ」
答えず、金髪の少年・兼子賢児は、20mほど前方に見える、3階建ての雑居ビルを顎指した。
灰色の壁に、『総合格闘技ジム アタック』と書かれた看板が取りつけられている。兼子の話によれば、ユリが倒さなければならない相手は、そのビルの最上階にひとりでいるはずであった。
貸し切りバスに乗り込んだ、西条剛史を始めとした想気流の道場生を見送ってから、約3時間近くが経っていた。
夏とはいえ、七時を越えれば周囲は闇に包まれ始める。いったん民宿に戻って、もう1日宿泊の延長を手配したユリは、シャワーと着替えを済ませて、再び兼子たちの前に現れていた。
もしこんな形で出会ってなければ・・・密かに兼子は思う。
私服姿のユリを、彼は無意識のうちにつま先から頭頂まで、舐めるように見詰めてしまっていた。ロリコンの気はなかったはずだ、などと口裏でごちつつも、恋愛ゲームにでも出てきそうな美少女らしい美少女に、魅入られかけていることを自覚する。
どうもこの少女は、極端な恥かしがりやのくせに、大胆な格好を好むらしい。
黄色のタンクトップのうえに薄手の白シャツを重ね、下はこれも白のマイクロミニ。
“ハクジョ”こと白鳳女子高校の制服からして白を基調としているが、ユリ自身白が好きなのだろう。透明な肌とあいまって、白い妖精は爽やかさと涼やかさを周囲に振り撒いている。
だが、決して大きくはないバストの谷間がかすかに望められたり、全体に細長いなかにあってやや太く見える白い太股が露出していたり、挑発的とすらいえる衣装は、人々の視線を集めずにはいられない。ましてや西条ユリは、愛くるしい人形のような容貌の持ち主である。頬を赤らめ、俯き加減で歩く少女は、隣りに3人の危険そうな男たちがいなければ、変質者の格好のターゲットになりそうだった。
どこからどう見ても、かよわく、気弱そうな美少女。
その可憐な一輪の華を、これから死地に手向けねばならぬことが、兼子の心を暗くさせる。
「もう一度、確認するけどよ」
雑居ビルの入り口まできたとき、先頭にたっていた兼子の足が立ち止まる。
「ホントにやるのか? やめるならいまのうちだぜ」
驚きとともに、ひどく焦った顔を、残るふたりの男たちは浮かべる。ドレッドヘアーが斎藤、サングラスが克也と呼ばれていることは、先程の自己紹介でユリは知った。
「急に、どうしたんですか?」
「兵頭さんは化け物だ。やめてもオレらは文句は言わない」
振りかえった金髪少年が、10cm以上低いユリを見下ろす。野獣のような視線に、真剣な光が灯っていることに武道少女はすぐに気付いた。
「でも・・・困ってるんですよね?」
「行ったら・・・お前、地獄行きだぞ」
斎藤と克也がなにか言い掛けるのを制し、低いトーンで兼子は言った。その額には冷たい汗が浮いている。
「大丈夫ですよ。・・・負けませんから」
内気な少女は、そのとき、ニコリと花のように明るく笑ってみせた。
スッと長身の少年の横を通りすぎた武術の達人は、躊躇することなく灰色の階段を昇っていく。
3階。階段を昇りきったそこに、扉がある。外にかけられた看板と、同じレタリングがされた表札が掲げられた鉄の扉の前で、一旦ユリは立ち止まる。
軽く、深呼吸。
重々しい扉を、非力な少女はゆっくりと、押し開けていった。
白いマットが敷きつめられている。
思ったより広い。ざっと30畳もあろうか。
奥に3つの扉が並んでいるのは、更衣室とトイレ、それにトレーニングルームといったところだろう。手前の扉の入り口付近には、ダンベルがいくつか転がっている。格闘技界では新興勢力といえる総合格闘技のジムにしては、かなり整った施設だといえよう。それは即ち、ボスである兵頭英悟の力を示しているともいえる。
真正面の奥にサンドバックがぶらさがっている。
その手前に、背中を向けた男が、いた。
ドス! ドス! 鈍い音が断続的に響いてくる。男は誰かがジム内に侵入してきたことを知りつつ、サンドバックを拳で打つのに集中している。
闇に閉ざされ掛けた世界の中で、男の姿は沈みゆく太陽の残滓に照らされている。ユリのくるみの瞳がやや細まる。閉め切った室内は空調が効いて涼しかったが、上半身裸になった男の背中には、びっしりと滝のような汗が滴っているのがなんとか確認できる。
「兵頭・・・英悟さんですね」
敵であろうと敬語を使う武道少女が、数歩進み出る。
黙ったまま、男はサンドバックへの殴打を繰り返す。重い打撃音が、生々しさを伴ってユリの耳に届く。
黒のハーフパンツひとつで、上半身を披露している兵頭の肉体は、格闘家らしくよく引き締まっていた。
ムキムキのマッチョマンではないが、ナチュラルなパワーが逆三角形の肉内につまっているのがわかる。身長175cm、体重85kgといったところか。特に大きいサイズではないが、バランスが取れているため、ユリには理想的な格闘体型に映った。肩幅が広く、胸も厚く、腕も太い。父親や工藤吼介という規格外に見慣れたユリでなければ、相当に“ゴツイ”という印象を持つはずの体格。
特に異常なのは、その拳であった。人差し指と中指の拳頭が、ダイヤでも埋まっているように盛り上がっている。明らかに硬いものを叩き、研鑚に研鑚を重ねて造りあげた破壊の拳。兼子らがあれほど恐れた理由を、拳の形だけで敵は若き柔術家に伝えてくる。
「想気流柔術・西条ユリといいます・・・あなたを、倒しにきました」
律儀な宣告は武道家ならではの作法だったか。
だが、格闘技の世界に身を置くものにとって、ユリの言葉はあまりに挑発的なものだった。他流派がジムに殴り込んできた・・・明確な道場破りの宣言と行動に、血が沸騰しない格闘者はいまい。
打撃音が、止む。
四角い肉体が振りかえり、兵頭英悟はその全貌を武道少女に明らかにした。
五分刈りの頭に、目尻の下がった大きめの眼。
日本人らしからぬ大きな鼻のせいか、ヨーロッパ系の民族の血が混ざっているような顔は、垂れ眼のせいで、見ようによっては優しげに見えなくもない。しかし、その瞳の中に灯った鷲のように鋭い眼光が、男が猛禽類並に危険な存在であることを教えてくる。
だが、凶悪な素性を秘した男の容姿より、西条ユリの視線を釘付けにしたものがある。
薄闇と、兵頭の身体に隠れてよく見えなかった、部屋の奥。
兵頭が叩いていたのは、サンドバックではなかった。
吊り下げられた、全裸の女性。
荒縄でがんじがらめに縛られた女性が、崩れかけた肉体を天井からぶら下げている。紫に変色した顔は、腫れあがって岩石のように膨れ上がっていた。縄の締めつけと殴打によって、肩口から足首まで、黒・青・紫の痣が、斑点となって埋め尽くしている。
ウェーブのかかった茶色の髪が、女性が二十歳代でオシャレに気を使うタイプであったことを窺わせるが、被虐の末に今の彼女は無惨な肉塊に変わり果てていた。美しかったであろう美貌も、今は目鼻の場所すらわからぬほどに崩壊している。
キリ・・・
桜色の唇のなかで、西条ユリは歯噛みする音をたてた。
くっきりとした二重の下で、丸い瞳がたぎっている。
昇った血が瞳に集中したように、光を帯びて輝く。初めて見せる怒りの眼光に、斜め後ろに控えた兼子は己が気圧されるのを自覚した。
「お前が想気流柔術の西条ユリか・・・フン、思った以上にガキだな」
知っている。私のことを。
武道少女の脳裏に鳴る警戒アラーム。しかし、沸騰した怒りが、慎重よりも戦闘を優先させる。
「だが、なかなかカワイイじゃないか。そろそろこのサンドバックも限界だ。次はその、細い身体を使わせてもらうのもいいな」
低いトーンで話す兵頭。
その西洋人っぽい顔が、ニヤリと歪む。
ザワリ
その瞬間、兼子はユリのトレードマークともいうべき、ふたつに縛ったおさげ髪が、浮いたように錯覚した。
細い眉が、吊りあがっている。
黒目がちな瞳に、怒りの炎が揺れる。天才少女の沸騰は頂点に達していた。
「・・・どうやら・・・罠だったようですね」
ガチャリという、ノブを回す音。
更衣室とトレーニングルームに隠れていた男たちが一斉に飛び出す。
4人の総合格闘技の猛者たちが、あっという間に単身乗り込んできた柔術少女を取り囲む。全ては予定されていた動きであった。
「こんな卑劣なことまでして・・・柔術に勝ったといいたいのですか?」
「柔術? フン、関係ないな。オレはただ、いい女は全部下僕にしたいだけだ」
「・・・本当に・・・尊敬できないひとですね」
皇帝と呼ばれる男が、鼻で笑う。
構えを取る、武道少女。手を開いた、自然体に近い立ち姿からは、いつものような涼しげな風ではなく、熱に満ちた闘気が吹きつける。
「5人なら・・・勝てるとでも思っているのですか?」
「5人? フフ、8人の間違いだろう?」
隠れていた4人に兵頭、そして、ここまで引率したくれた3人が、敵の数に入ったことを、孤立した少女闘士は知る。
「だから・・・言っただろ! 行けば地獄だって・・・」
吐き捨てる兼子賢児の声に、隠せない悔しさがこもるのをユリは聞き分けた。
兵頭の命令に・・・逆らえなかったんですね。
あの砂浜で救いを求める兼子の視線に嘘はなかった。兵頭を倒して欲しいという彼の願いは、確かに本物だったのだろう。
だが、暴力による支配は、金髪少年を完全に包み込んでしまっていたのだ。全ては兵頭英悟の策略通り。なまじ兼子の願いが本物だっただけに、ユリは見事に罠に掛かってしまった。まんまと敵のアジトに誘い込まれた武道少女を、凶悪な拳が、今襲いかかろうとしている。
「兼子さん・・・私をここに連れて来たことを・・・悔やむ必要はないです」
幼さの残る内気な少女は、鈴のように鳴る声ではっきりと言った。
「私は・・・ここに来て、良かったと思っています」
ユリの言葉が終わるより早く、一斉に周囲を囲んだ男たちは、華奢な少女に飛びかかっていった。
ブオオオオオオ!!
風が逆巻く。
正面と背後、同時に襲いかかったはずの男たちは、一瞬で手首を掴まれ、空中で回転して背中からマットに叩きつけられていた。
ピクリと動く、皇帝の眉。
己のアジトともいうべき道場内で、多数で取り囲む圧倒的優位。だが、とても武道をやっているとは思えぬ細身の少女が垣間見せた力量が、暴虐の限りを尽くして君臨する暴君の心に暗い影を落とす。
多数vsひとり。それが圧倒的な優位を導くのは間違いない。
だが攻撃にはタイミングが必要だ。実際には、よほど訓練されていなければ、手際良く同時に攻撃するのは難しい。他人が攻撃している最中に飛びかかっていくのは、つい躊躇してしまうものなのだ。それは遠慮などという精神的な理由ではない。タイミングの取りづらさにある。
それでもほとんどの場合、ひとりが多数に囲まれた時、勝算が皆無であるのは戦況が膠着してしまうからだ。普通、人間の戦闘力に大差はない。ひとりを相手にせめぎあっている間に、無防備な背中などにふたりめ、三人目の攻撃を受けて、敗北への階段を転がり落ちていく。一旦隙を見せてしまえば、多数を相手に逆転することは不可能といっていいだろう。
西条ユリには、その法則があてはまらない。
なぜなら天才と呼ばれる美少女柔術家は、一瞬で相手を倒してしまうのだから。
膠着する瞬間のない、凡人を遥か超越した戦闘力。
多数で襲いかかっても、次々と薙ぎ倒されていくのみ。それだけの技量の持ち主であることを認めた兵頭から、貼りついていた余裕が剥がされる。
「兵頭さん・・・いえ、兵頭」
絵に描いたような美少女が、横目で鋭い視線を飛ばす。たおやかにして可憐な美少女は、燃え上がる怒りを内気な表面に立ち昇らせる。
「ここまで誰かを倒したいと思ったのは・・・生まれて初めてです」
「・・・ほざけ」
苦々しく吐き捨てる兵頭。
襲撃の第2波が、華奢な少女に押し寄せた。
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