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「第八話 ユリ武伝 ~海棲の刺客~」
3章
しおりを挟む指名を受けた西条ユリは、くるみのような瞳をさらに丸くさせ、白い手で口を押さえる。ひどく脅えているようにも見えるが、頬が赤らんでいるため、恥かしがっているような印象を与えた。そのまま硬直した水仙のような美少女は、不安げな視線をせわしなく父親に送る。
「ふむ。構わんよ。じゃあユリとやってもらおうかぁ」
一瞬の逡巡もなく、我が娘を得体の知れぬ輩との闘いに狩り出す剛史。
その能天気を越えた無神経ぶりに、さすがに内気な武道少女の唇が一気にへの字に曲がる。
「先生、なにもユリさんがでることはありません。ここはボクが」
「なんだなんだ小笠原~。ユリのことを心配してるのか? ユリの実力では不安だと?」
「い、いえ、決してそういうわけでは・・・」
「ならいいじゃあないか。おーい、ユリィィ! 話は聞こえただろ? 早くカネコくんの相手をしてやりなさい」
娘のムッとした視線も一切介さず、四角い体をした武道家は大袈裟なまでの動作で手招きする。
「頼みついでにもうひとつ、お願いがあるんだけどよ」
予想外の呆気なさで、想気流元締めから試合の許可を得れたことが、サーファーらしき少年の心を大きくしたのか。兼子賢児は遠慮なく、更なる要求を申し立てた。
「オレが勝ったらあのコを・・・ユリっていうのか? ユリを1日、オレの思い通りにさせてもらうってのはどうだ?」
とんでもない要求に、海に浸かったままの武道少女のスレンダーな肢体が硬直する。
すかさず反応したのは、道場の良心とでもいうべき、小笠原だった。
「おい、あまり調子に乗るなよ。そんなふざけた話を、聞けるとでも思っているのか」
「まあまあ。そういきり立つな、小笠原」
「先生、こんな奴らの相手など、する必要はありません。どうしてもというなら、ボクがやります。こういう連中と試合など、ユリさんが可哀想ですよ」
「そう熱くなるなって。お前もまだ若いなあ。よかろう、カネコくん。君が勝ったら、ユリを1日好きなようにしたらいい」
「先生!」
金髪の下で、日焼けした唇が吊りあがる。
なぜ彼らがここに現れたのか、その真の目的を悟って焦る小笠原を軽く受け流し、西条剛史は突然の乱入者の非常識な申し入れを快諾した。その泰然とした態度は、とても娘を窮地に追いやる父親のものではない。
ザバアッッ・・・
水飛沫を激しく飛び散らせて、白いビキニの美少女が海からあがる。
若干肩をいからせて、ツカツカと剛史のもとに歩み寄るユリ。薄桃色の唇を尖らせ、大きな瞳を見開いたその表情は、明らかな不満を露わにしている。父のもとに辿り着いた細身の少女は、すがるように左腕にしがみつくと、耳元で囁いた。そのふっくらとした頬は、燃えあがるように赤い。
「お父さん、私、嫌だよ・・・勝手に決めないで・・・」
「バカモン、これもお前のためだ。とっとと用意しないか」
ドン、と強く背中を押されて、よろよろと金髪少年の手前3mまでに西条ユリは突き飛ばされる。実の父とは思えぬひどい仕打ちに、武道よりも琴でも弾いてる方が似合う淑やかな少女も、カチンとした視線を飛ばすが、すぐに対戦を避けられなくなった目前の相手に向き直る。
「よーし、それじゃあ・・・やろうか」
全てが思い通りに事が運んだサーファー風情の少年は、爽やかとさえ言っていい満面の笑顔を浮かべていた。
すっと腰を降ろす。両腕をあげて構える。
笑顔は霧散し、凄みさえ帯びた格闘者としての顔が現れた。
反応したユリが、条件反射的に構える。
力みの抜けた、自然体に近い、それでいて隙のない構え。
武道家の娘として生まれたにしては、ユリは本来、闘争を好まない性質であった。まして道場の合宿中に乱入してくる乱暴な人間とは、できる限り関わりたくない、というのが本音だ。危害を加えられない限り、黙ってこの場が収まるのを待つつもりだったのだ。
しかし、チャラチャラした外見からは、想像できない本格的な量の“闘気”が、兼子からは立ち昇っていた。
道場の子供たちが見ているなかで、私闘を見せたくなかったユリも、構えを取らずにはいれなかった。それぐらい真剣な戦闘の眼差しが、兼子の双眸に輝いている。
「もう一度確認するけど、オレが勝ったらユリを好きにしていいんだな?」
「いいとも。勝ったら、な」
183cmある長身を前屈みにし、両腕で顔面をガードする独特の構えを取る兼子。打撃にも、組みにもいける中腰姿勢が、綺麗な武道に慣れ親しんできた少年部の子供たちには奇異に映る。ガードの奥の眼光が、狼のように鋭い。
対する師範代・ユリの姿勢は、背筋をピンと伸ばした美しい佇まい。165cmのスレンダーなボディを、清廉さを表したような白のビキニが包んでいる。透き通るような肌に、あどけなさを残したふたつ縛りのおさげ髪。清楚をこれほどまでに具現化した美少女はなかろうという天才柔術家の顔は、桜色に上気している。心なしか、いつもよりぎこちない構えに、小笠原はある種の緊張感を感じ取った。
(も・・・もしや・・・この期に及んで、恥かしがっているのか?)
獣じみた兼子の眼光に対し、あろうことか、ユリは大胆な水着を凝視される羞恥に、動転しきっていたのだ。
ユリが試合を拒んだ最大の理由はこれだった。
年頃の男性に、己の水着姿を見られる・・・思春期の少女らしい感覚は、しかし武道家としては甘すぎる精神といっていい。
天才的な技の切れとは正反対に、大人しすぎるユリの性格は、常日頃から小笠原も心配していたのだが・・・あろうことか、総合格闘技からの刺客を迎えた、この大事な局面で顔を出してしまうとは!
(総合格闘技という因縁深い相手、得体の知れない敵の実力・・・それだけでも十分やりにくい闘いなのに、集中力を欠いた状態で挑まなくてはならないとは)
ユリの力を知る小笠原ではあるが、古流柔術を進化させたと言われる総合格闘家との闘いに、暗雲が心を覆うのを自覚する。この兼子という相手自体、サイズ・闘争心はユリを圧倒しており、技術で遅れを取った場合、武道少女に悲惨な暴虐が降りかかるのは確実だった。羞恥に絡め取られた内気な少女が、道場生に囲まれたプレッシャーのさなかで勝利するのはいかに困難か。不穏な予想を、小笠原はせざるを得ない。
「あ!」
生真面目な公務員の口から、思わず叫びが迸る。
構えを崩した武道少女が、己の胸と股間とを両手で隠したのだ。
雪のように白い素肌は茹であがったがごとく朱色に染まり、純真な瞳は浮んだ涙で濡れ光っている。極度の恥かしさに耐えられなくなったユリは、肢体を凝視される仕打ちに自ら敗れてしまったのだ。
砂が、舞う。
絶好のチャンスを逃すほど、金髪少年は間が抜けてはいなかった。
長身が一気に殺到する。両腕を自ら封じ込めてしまった可憐な少女に詰めより、パンチのラッシュを放つ。一撃で昏倒は免れない鋭い打撃が、柔らかな頬を、襟足で結んだふたつの黒髪をかすっていく。
当たらない。
完全に射程距離に捉えているはずの華奢な少女を前にして、兼子の凶暴な拳は、皮膚をかするのが精一杯であった。
両腕で身体を隠した不自由な態勢のユリは、風に揺れる柳のように、ことごとく闘志を剥き出しにした拳をかわしていく。
「こッッ・・・!!」
恐怖を覚えたのは、兼子。
当てるつもりで繰り出した打撃が、手応えなく空振る戦慄。全ての攻撃を無効化される脅威。
掌上で踊る己を自覚した日焼け顔に、大粒の冷や汗が浮んだその時、大振りの右フックを直撃寸前でよけた愛らしいマスクは、兼子の鼻先に突然出現した。
「うくッッ!!」
「もう・・・やめにしませんか?」
黒目がちな二重の瞳。花びらのごとき小さな唇。可憐と清楚と愛らしさを、存分に放つロリータフェイス。
男なら誰しも愛慕が沸きあがるのを禁じえない、キュートな美少女に間近で見詰められ、粗暴な少年の心がドキリと鳴る。
「くそッ!」
ひるんだかに見えた兼子の身体がいったん沈む。
か細いユリの胴体目掛けて、高速のタックル。
これこそが、総合格闘技のもっとも得意とする基本戦術であった。タックルで相手を倒し、寝た状態から敵をコントロールしていく。殴るもよし、関節を極めるもよし、締め上げるもよし。寝た姿勢=グラウンド状態から、敵を自在に操ってしまう技術の粋こそ、総合格闘技の生命線といっても過言ではないだろう。多くの動きを制限されるグラウンドでは、いかなる武道の達人でも、本来の戦闘力を発揮できない。空手やボクシングの一流選手が、総合格闘技に苦杯を舐めさせられたのは、ここに大きな要因があった。
「マズイ!」
叫んだのは、小笠原。彼は知る。タックルで倒されてしまうことが、いかにユリにとって、いや想気流柔術にとって、危ういことかを。立ち技でのウエイトが大勢を占める想気流にとって、グラウンドに持ち込まれるのは、敗北に等しい窮地であることを、長年道場に通い続けた彼は悟っているのだ。
事実、想気流の基本攻撃は、相手の力を利用して投げるというもの。寝た状態では、一切の効力を発揮しないのは、それこそ少年部の子供達にもわかることだ。
突っ込んだ兼子の腕が、ユリの腰と太股に回る。高すぎず、低すぎず、理想的なタックル。
焼けた砂が、高く高く、舞いあがる。
スレンダーな少女の中央に組みついたはずの金髪少年は、雲をすり抜けたような感覚を残して、前のめりに砂浜に倒れ伏していた。
それは、有り得ない光景だった。
腰に飛び込んできた弾丸タックルを、ユリは絶妙な体重移動でバランスを崩した挙句に投げ飛ばしたのだ。
普通に掴みかかってきた相手を投げるのならば、小笠原にもできる。しかしタックルという、己の脇の下に潜り込んでくる敵のバランスを崩してしまうとは、どういう神業であるのか。
明らかな態勢の不利にもかかわらず、敵を意のままに操ってしまうとは・・・力の流れを読めると言われる西条ユリの、恐るべき武術家としての能力に、小笠原は戦慄に近い感情を覚える。
「ちッ・・・ちくしょオッッ!」
血走った野獣の眼光を、兼子は砂浜に倒れたまま振り返り、楚々とした武道少女に投げつける。いまだ頬を赤らめたままの幼い少女は、モデル体型の肢体を捩らせ、少しでも見られないよう、両手で隠している。
彼女にとっては必死の作業なのだろうが、「闘っている」兼子にすれば、それは屈辱的な態度といえた。
全身をバネと化した金髪少年が、一息に立ちあがり、白い少女に突進する。
流れるような動きで構えを取るユリ。さすがに突っ込んでくる敵を前に、いつまでも周囲の視線を気にしているほど青くはない。
右手を長身が大きく振りかぶる。わかりやすいパンチ。
兼子が右ストレートを放つ。だが、それは当てるために打ったのではなかった。
砂。
右手に掴んだ細かい砂塵を、愛らしい瞳に投げつける。
「あ!!」
反射的に眼をつむったユリだが、少し遅かった。突然閉ざされた視界と、眼球を突く小さいながらも大量の痛みに、両手で顔を覆って仰け反る。
無防備に晒された白い腹部に、褐色の弾丸が飛び込む。
鮮やかなタックルが、細身の少女に豪快に決まる。褐色の巨斧に切り倒される白樺。低い呻きを残したユリの肢体は、次の瞬間には総合格闘家の下敷きになっていた。
「ユリさん!」
小笠原の口から叫びが漏れる。見守っていた子供達の間から悲鳴が沸く。
仰向けに倒れたユリに、馬乗りになる兼子賢児。いわゆるマウントポジションの態勢。
総合格闘技にとって、100%の勝率をもたらす勝利の方程式に、若き達人は嵌ってしまったのだ。
誰もがわかる絶対的不利の態勢。下敷きの状態からでは打撃の威力は半減し、満足な攻撃は叶わない。身体のコントロールを奪われ、逃げることすら不可能な状態では、嫌というほど殴られるか、隙を見せて関節技を極められるか、選択肢はない。
涙を滲ませ開いた黒い瞳に、口髭を生やした野獣の顔が映る。覇気に満ちた表情は、一切の手加減を知らないことをユリに教えた。振りかぶった拳が、愛くるしいまでのマスクに振り降ろされる。
「ひっぎいいいィィィッッ?!!」
引き攣った悲鳴を漏らしたのは、金髪少年の口だった。
西条ユリの顔面を砕くはずの拳は、細く長い指に絡めとられていた。
天からの才能に恵まれた少女武術家は、近代格闘技が生んだ最高傑作を持ってしても、仕留めることは叶わなかったのだ。
敗北を意味する馬乗りになられた状態、絶対的窮地にありながら、ユリは敵の打撃を掴んでしまっていた。
手首を捻る。
激痛により、兼子の上腕が硬直する。その固まった腕で、肘関節を極める。
金髪の口から叫びが漏れる前に、今度は腕全体を利用して肩関節をねじる。
捕らえた手首ひとつ、指一本で次々と関節を極めていってしまう・・・それが想気流柔術の本質であり、脅威。
ピキッ・・・ミキミキ・・・メシメシミチ・・・ピキピキ・・・
「ま・・・参り・・・ました・・・・・・」
弱々しい降参の合図が、奔放な若者の口をつく。
古流柔術と総合格闘技。因縁ともいえる突然の乱入試合は、波打つ潮の音に消え入りそうなほど、静かに決着を迎えた。
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