好きになれない

木原あざみ

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好きになれない3

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 自宅に戻るなり日和はキーケースに鍵を取り付けた。今のマンションの鍵と実家の鍵。そして、真木の家の鍵。締まりのない顏になっている自覚はあったが、誰に見られているわけでもないのだから構わない。

 ――これ、付き合ってるってことで、いいんだよな。

 自身に言い聞かせるように、日和は考える。受け入れてもらった、ってことでいいんだよな。ベッドの上に転がったまま、顔の前で揺らしていたそれを机上に置いて、代わりにスマートフォンを取る。検索画面を開いて、しばし逡巡。断ち切って、フリック入力。男同士。やり方。正しいのか、正しくないのか。日和には判別できないが、数多の情報が目前に提示される。
 つらつらと目を通し、またべつのところに飛び、を繰り返しているうちに、眉間に皺が寄り始めてしまった。むっとした感情の揺らぎを自覚して、画面を閉じる。

 ――口で、してやろうか?

 無理をしたふうでもなんでもない、気遣いから自然発生した提案のような、それ。
 好きだと思う人に触れて、キスをして。とまで来れば、それより先を求めるのは本能だと思う。とは言っても、日和はその瞬間まで、自分は淡泊だと信じ切っていた。
 欲望のまま貪りたいと思ったことなんて、なかった。足りないと思ったことも。今までの恋人たちとしてきたセックスは、日和にとって半ば以上義務に近かったはずだ。硬くなり始めた先端に、着衣越しに真木の手が触れる。その指先が躊躇なくベルトを緩めて。戸惑ったのは、日和の方だ。真木さん、と名を呼べば、不思議そうに顔が上がる。

「したことない?」

 いや、さすがにないことはないけど。

「したくない?」

 いや、したいから、たぶん、手を出したんだけど。あれ、これ。俺が手を出したって認識でよかったんだよね。というか、いまさらだけど、そんなすぐにヤッてもいいものなのかな。ぐるぐると、頭の中で疑問が駆け巡る。

「いい、の?」

 けれど、結局。理性と本能の問答の末、出てきたのは好意に甘える台詞でしかなくて。その答えに、真木が笑う。

「よくなかったら、とっくに叩き出してる」

 飾り気のない言葉に、それはそうだと納得することにした。だとすれば、これは、俺の独りよがりではないはずだ。

「そんなつもりはなかったから、最後まではさせてあげられないけど」

 ――最後?

 そんな疑念が顔に出ていたのか、また真木が微かに笑った。

「女の子と違って、男の身体は、いつでもどこでも繋がれるようにはできてないの」
「あ、……や、はい」

 追いついた理解に、頬が熱くなる。

「あの、真木さ……」
「ん? だから、口でしてやろうか、って」

 真木の指先が前をくつろげて、兆していた性器に触れる。

「っ――あの」

 気持ちよくない、わけがない。ただ、忍びなさが勝った。この人に、こんなことをさせる罪悪感。あるいは、はじめてのことに対する恐れもあったかもしれない。

「あの、え、と。嫌なわけじゃ、ないんですけど」

 言葉を見つけられないまま押し止める。嫌じゃない。嫌なわけがない。
 戸惑う日和を見つめていた真木の眉が僅かに下がる。困らせていることはわかったけれど、なし崩しに進んでいいのかわからなかった。

「でも、そのままじゃ、困るだろ? 手ならいい?」

 やったことない? と、真木が首を傾げた。高校生くらいのころとか、友達とかと。

 ねぇよ。と思ったが、なんとなく言えなかった。いかにも体育会系らしい真木と、引きこもり気味の帰宅部だった自分とでは、交友関係も通ってきた遊びも、なにもかもが異なっている気がしたからだ。

 ――いや、十歩譲って、手で抜くくらいならあるのかもしれないけど、口はないだろ。口は。

 べつに一人で抜くし、処理するし。そりゃ、ちょっとは虚しいかもしれないけど。でも。悶々と考える。

 ――というか、そもそもとして、俺ばっかりしてもらいたいわけでもなくて。

 この年になって処女信仰なわけでもないし。経験がないと思ってたわけでもないし。そもそも、俺、今までの彼女にはじめてを求めたことなんてなかったんだけどな。
 むしろ処女とか面倒臭そうで嫌だ。手慣れた人のほうがよほどいい。そんなことを思っていたはずだ。
 そう考えれば、ある意味で、真木は理想に近い。
 手慣れていて、年上で、日和を包み込んでくれるだけの甲斐性があって、寂しいだとかリードして欲しいだとか、そういった甘えたことは絶対に言わないだろう。
 でも、なぁ。
 我儘であることを自覚しながらも、思ってしまうのだ。それって、なんか寂しい。やっと、「好き」だという感情を受け止めてもらったはずなのに、あの人の掌の上でひとり踊り続けているみたいだ。
 指先から与えられる刺激は、自慰とはまるで違っていて。的確に日和の気持ちの良いところを責めてくるものではなかった。ただ、この人が、この人の意思で触れているのだと思うと、たまらない快感が走った。



「いやー、それは我儘だろ、我儘」
「……そうだとは思う、けど」
「というか。あれだけ塩見さんのことは嫌がってたくせに、結局、年上の経験豊富そうな人、捕まえてるわけだ。どう違ったわけ? 優しいの、その人は」
「いや、まぁ……、うん。そうかな」

 なんでこんな話になったかなと思いつつ、日和は果実酒の水割りに口を付けた。
 ゼミの新年会には参加したけれど、二次会に行く必要はないだろうと断った。そのまま家に帰るつもりだったのに、なぜか水原に捕まってしまったのだ。
 日和に対して余所余所しかった塩見の態度が気にかかったのだと心配顔で口にされると、相談に乗ってもらった記憶が蘇った。さすがに断りづらい。結果、二人で仕切り直しとなったのだけれど。気が付けば、塩見にはきちんと断ったという顛末から始まり、年上の人と付き合い出したことまで白状してしまっていた。

「優しくて、それで、面倒臭がりのおまえをリードしてくれんだろ、文句も言わずに。羨ましい話だよ、本当」
「いや、……うん、まぁ、そうかも」
「認めるのかよ。幸せいっぱいか」

 水原が笑って続ける。

「おまけに彼女がマグロだって言うなら、それはそれで同情するけどさ。その逆だろ? いいじゃん、いいじゃん。というか、エロゲやAVじゃあるまいし、えっちな処女なんて存在しないの。だったら、マグロな処女より、経験豊富なえっちなお姉さまのほうがいいだろ」
「うん」

 いや、でも、そういうのでもまたなくて、と。零れそうになった反論を呑み込んで、日和は頷いた。そんなこと、言えるわけがない。

「そういや、話、変わるけど」
「ん?」
「水原さ、俺にあれだけ真木さんに言うなって釘を刺したくせに、自分は羽山さんに言っただろ」

 二人になったついでに問い詰めると、水原は眼を泳がせた。

「いや、だって……。つい、気になっちゃって。ごめんって」
「べつにいいけど。変に俺のこと言ってないよね?」

 気になってしまうのは、新年会の夜の会話が、妙なしこりとなって片隅に残っているからだ。ただのお友達にしては仲が良いよな、だとか。同い年のはずなのに、あの保護者然とした態度はなんなのか、だとか。

「言ってはないけど。あ、でも、どこで知ったのっていう話の流れで、日和の名前は出したかも」
「かも、じゃねぇだろ。先週、ボランティア先でも新年会があって、そのときに聞いた」
「なんだ。ならよかった。基生さんは? なんか言ってた?」
「いや」

 面倒になるから、言わない。羽山はたしかにそう言っていた。

「特にはなにも」
「そっか。ちゃんとあの人、基生さんに伝えてくれたのかなー。久しぶりに会いたいなってみんな言ってるんだよね。揉めたってのも、よく考えれば十年近く……は言い過ぎか。それでも五年以上は前の話なんだし。いまさらじゃん、って」
「いまさらとか、そういうのは」

 口を出すつもりなんてなかったのに、口走ってしまっていた。

「本人が決めることだろ」
「おまえ、最近、切れやすくない?」
「……酔った」

 戸惑いを滲ませた問いに、日和は視線を落とした。さすがにこの程度では酔わないけれど。そういうことにしておきたかった。
 居場所がない。いとも簡単に口にしていたあの人は、地元にも待っている誰かがいると知れば、どんな顔をするのだろうか。

 ――いや、でも、それも全部、俺が無神経に頭を突っ込むようなことじゃない。

 もし、万が一。この先で、話してくれることがあるのならば、それがどんな話でも聞きたいとは思うけれど。
 女が好きな男の言う「好き」なんて、信じられるか、と。あの人は言った。それで痛い目を見るのはいつもこっちだ、とも言った。
 そうやって、傷を付けられたことがあるのだろうか。
 誰かと、身体を繋いだことはあるのだろうか。
 気にすべきではないとわかっていることが、こうして胸を渦巻く。どこにも吐き出しようのない毒を、日和はアルコールと一緒に呑み込んだ。
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