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博愛と勇者 (2)
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「俺、勇者殿じゃないよ。ハルト。だから、ハルトって呼んで。それにお兄さんのほうが年上でしょ。その喋り方もやめてよ」
落ち着かない。そう言って眉を下げた子どもは、本当に困っているように見えた。十三という年より幼く感じる容貌を見下ろし、エリアスは思考を巡らせた。
おそらくだが、この子どもは、豊かな国に生まれ、愛されてきたのだろう。十三のときのエリアスは、会ったばかりの他人に素直な瞳など向けなかった。そんな幼い子どもが、縁もゆかりもない国を救う勇者になる。
伝説の召喚に成功し、安堵に湧く周囲をよそに、心のどこかで気の毒な話だと思っていたエリアスは、そっと了承を返した。
当時の自分が住んでいた、宮廷にほど近い官舎の一室のことである。さて、これからしばらく一緒に暮らすということで、改めて自分の名前を告げたときのことだった。
「承知しました。では、ハルト」
「ありがとう」
なぜか自分を世話係に選んだ子どもが、ほっと表情をゆるめる。そうしてからエリアスを見上げ、悩むように眉を寄せた。先ほどの予想を裏打ちする、平和な表情の豊かさ。
「お兄さんのことはなんて呼んだらいい?」
予想外の問いだった。ほんのわずか悩んだものの、求められたざっくばらんな口調で「好きに呼べばいい」と応じる。なんでもよかったからだ。
エリアスの返事に、また子どもが悩むそぶりを見せる。「そうだな」とひとりごちる調子で呟き、ひとつ頷いた。うつむいていた視線が上がる。
「じゃあ、師匠」
「師匠?」
「駄目だった?」
困惑のにじんだ反応に、子どもが首を傾げる。不安げな黒い瞳が居た堪れず、エリアスは否定を紡いだ。
「駄目というわけではない。ただ、あなたに勇者としての道理を教えるのは騎士団だ。俺が教えることはなにもない。……いや、この国の基本的なことは教えるよう言われているが」
だが、それも、言語が通じている時点で、そこまで重要ではないと思われた。現に、エリアスは彼の言動にあまり違和感を抱いていない。きっと、頭も良いのだろう。
「なんだ。じゃあ、嫌なわけじゃないんだよね」
「嫌なわけではない」
むず痒くはあるし、そんな呼称をされる器ではないと思っているが。濁した後半に、子どもは気づかなかったようだった。
「嫌じゃないなら、そう呼びたいな。エリアスさんっていうのも、なんか他人行儀だし」
他人行儀でもなにも問題はないのでないか。思ったものの、エリアスは言わなかった。よほどのことでない限りは勇者殿の希望を叶えよ、との命も受けている。
「それに、まだ十九才なんでしょ? 俺とたいして変わらないし。だったら、先生っていうのも違うし、でも、先輩とか、お兄さんって呼びたい気分でもないし」
「気分」
「あと、なんだろ。うまく言えないんだけど、俺が選んだ俺の世界の言葉だから」
できたら、そう呼びたいなって。子どもは笑顔で繰り返した。自分の世界と繋がっている気がするから、と。
うまく言えないという言葉のとおり、子どもが「師匠」という呼名を選んだ真意は、エリアスにはわからなかった。どこにでもある呼称で、この世界にもある呼称だったからだ。だが、「自分の世界と繋がっている気がする」という言葉の響きは重かった。
問答無用で召喚され、右も左もわからず混乱しているだろうに。向けられるにこりとした笑顔も、使う言葉も、あまりにも幼く、そうして、どうしようもなく健気だった。
だから、この家にいるあいだくらいは守ってやろうと思ったのだ。一歩外に出れば、この子どもには使命がある。ほかの誰にも果たすことのできない勇者の使命だ。そのサポートをすることは、この国に生きる者の義務と言ってもいいだろう。
そう。最初はたしかに憐みだった。勇者と聞いて想像していたよりもハルトが随分と幼かったことも要因のひとつだ。だが、それだけではない。自分の前では弱音を吐きつつも、勇者としての自分に向けられる期待に必死に応えようとする姿がひどく不憫に思えたのだ。ささやかな我儘を叶えてやることくらい、なんでもないことだと思ってしまう程度には。
引き受けた当初はどうなることかと危ぶんだハルトとの生活は、蓋を開けてみれば思っていた以上に穏やかなものだった。もちろん、ぶつかったこともあるし、癇癪をぶつけられたこともある。
だが、ビルモスに報告したとおりで、ハルトは人の機微に聡く、頭の良い子どもだった。おまけに、この世界のよすがを自分に定めたというように、自分に懐き、信頼を向けた。
そんな子どもをかわいくないと思わないほうがおかしい。好意を寄せられたから、自分も好意を抱く。なんて利己的な愛だったのだろう。けれど、愛だったことも事実だった。
愛だのなんだの、と。そんなご大層な感情を抱いたことはほとんどない。だから、これがその唯一と言っていい例外だった。
とは言え、ハルトに向ける愛は肉欲を伴うものではなかった。幼気な存在に対する庇護愛。あるいは、烏滸がましい表現ではあるものの、家族愛のような。とかく、そういうものだった。
ハルトとの日々を通じ、エリアスははじめて温かな感情を知った。それまでの自分は生きることに精いっぱいで、金にならないものに構う余裕などなかったのである。その自分が、と思えば戸惑いはあったが、手放したくないという欲求が勝った。
慣れないなりにハルトに優しさを注いだ理由は、恩返しのようなものだったのだろう。うまくできていたかどうかは定かではなかったけれど。
ビルモスの言うとおりだ、と。エリアスは、一年が過ぎるころには思い知るようになった。ハルトは、本当に博愛の勇者だったのだ。
落ち着かない。そう言って眉を下げた子どもは、本当に困っているように見えた。十三という年より幼く感じる容貌を見下ろし、エリアスは思考を巡らせた。
おそらくだが、この子どもは、豊かな国に生まれ、愛されてきたのだろう。十三のときのエリアスは、会ったばかりの他人に素直な瞳など向けなかった。そんな幼い子どもが、縁もゆかりもない国を救う勇者になる。
伝説の召喚に成功し、安堵に湧く周囲をよそに、心のどこかで気の毒な話だと思っていたエリアスは、そっと了承を返した。
当時の自分が住んでいた、宮廷にほど近い官舎の一室のことである。さて、これからしばらく一緒に暮らすということで、改めて自分の名前を告げたときのことだった。
「承知しました。では、ハルト」
「ありがとう」
なぜか自分を世話係に選んだ子どもが、ほっと表情をゆるめる。そうしてからエリアスを見上げ、悩むように眉を寄せた。先ほどの予想を裏打ちする、平和な表情の豊かさ。
「お兄さんのことはなんて呼んだらいい?」
予想外の問いだった。ほんのわずか悩んだものの、求められたざっくばらんな口調で「好きに呼べばいい」と応じる。なんでもよかったからだ。
エリアスの返事に、また子どもが悩むそぶりを見せる。「そうだな」とひとりごちる調子で呟き、ひとつ頷いた。うつむいていた視線が上がる。
「じゃあ、師匠」
「師匠?」
「駄目だった?」
困惑のにじんだ反応に、子どもが首を傾げる。不安げな黒い瞳が居た堪れず、エリアスは否定を紡いだ。
「駄目というわけではない。ただ、あなたに勇者としての道理を教えるのは騎士団だ。俺が教えることはなにもない。……いや、この国の基本的なことは教えるよう言われているが」
だが、それも、言語が通じている時点で、そこまで重要ではないと思われた。現に、エリアスは彼の言動にあまり違和感を抱いていない。きっと、頭も良いのだろう。
「なんだ。じゃあ、嫌なわけじゃないんだよね」
「嫌なわけではない」
むず痒くはあるし、そんな呼称をされる器ではないと思っているが。濁した後半に、子どもは気づかなかったようだった。
「嫌じゃないなら、そう呼びたいな。エリアスさんっていうのも、なんか他人行儀だし」
他人行儀でもなにも問題はないのでないか。思ったものの、エリアスは言わなかった。よほどのことでない限りは勇者殿の希望を叶えよ、との命も受けている。
「それに、まだ十九才なんでしょ? 俺とたいして変わらないし。だったら、先生っていうのも違うし、でも、先輩とか、お兄さんって呼びたい気分でもないし」
「気分」
「あと、なんだろ。うまく言えないんだけど、俺が選んだ俺の世界の言葉だから」
できたら、そう呼びたいなって。子どもは笑顔で繰り返した。自分の世界と繋がっている気がするから、と。
うまく言えないという言葉のとおり、子どもが「師匠」という呼名を選んだ真意は、エリアスにはわからなかった。どこにでもある呼称で、この世界にもある呼称だったからだ。だが、「自分の世界と繋がっている気がする」という言葉の響きは重かった。
問答無用で召喚され、右も左もわからず混乱しているだろうに。向けられるにこりとした笑顔も、使う言葉も、あまりにも幼く、そうして、どうしようもなく健気だった。
だから、この家にいるあいだくらいは守ってやろうと思ったのだ。一歩外に出れば、この子どもには使命がある。ほかの誰にも果たすことのできない勇者の使命だ。そのサポートをすることは、この国に生きる者の義務と言ってもいいだろう。
そう。最初はたしかに憐みだった。勇者と聞いて想像していたよりもハルトが随分と幼かったことも要因のひとつだ。だが、それだけではない。自分の前では弱音を吐きつつも、勇者としての自分に向けられる期待に必死に応えようとする姿がひどく不憫に思えたのだ。ささやかな我儘を叶えてやることくらい、なんでもないことだと思ってしまう程度には。
引き受けた当初はどうなることかと危ぶんだハルトとの生活は、蓋を開けてみれば思っていた以上に穏やかなものだった。もちろん、ぶつかったこともあるし、癇癪をぶつけられたこともある。
だが、ビルモスに報告したとおりで、ハルトは人の機微に聡く、頭の良い子どもだった。おまけに、この世界のよすがを自分に定めたというように、自分に懐き、信頼を向けた。
そんな子どもをかわいくないと思わないほうがおかしい。好意を寄せられたから、自分も好意を抱く。なんて利己的な愛だったのだろう。けれど、愛だったことも事実だった。
愛だのなんだの、と。そんなご大層な感情を抱いたことはほとんどない。だから、これがその唯一と言っていい例外だった。
とは言え、ハルトに向ける愛は肉欲を伴うものではなかった。幼気な存在に対する庇護愛。あるいは、烏滸がましい表現ではあるものの、家族愛のような。とかく、そういうものだった。
ハルトとの日々を通じ、エリアスははじめて温かな感情を知った。それまでの自分は生きることに精いっぱいで、金にならないものに構う余裕などなかったのである。その自分が、と思えば戸惑いはあったが、手放したくないという欲求が勝った。
慣れないなりにハルトに優しさを注いだ理由は、恩返しのようなものだったのだろう。うまくできていたかどうかは定かではなかったけれど。
ビルモスの言うとおりだ、と。エリアスは、一年が過ぎるころには思い知るようになった。ハルトは、本当に博愛の勇者だったのだ。
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