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移ろいゆくもの(1)
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「今回も助かったよ。わざわざ足を運んでもらってすまなかったね」
確認を終えた書類を机に置いたビルモスが、労わる笑みを浮かべる。
朝早い時間のビルモスの執務室に自分たち以外の人気はなく、尋ねるにはちょうどいいタイミングだった。切り出し方に逡巡としていたエリアスに、ビルモスは再び笑いかけた。
「それにしても、勇者殿は元気だね。きみの家と王都の往復は骨が折れるだろうに。きみもそれに付き合ったから、こんなに早く着いたわけだろう」
「まぁ、そうだが」
「本当にこの時間に来るとは思わなかったから、少し驚いたよ。手紙で聞いていたものの、半信半疑だったんだ」
きみ、いつも余計な話をできない忙しい時間帯を狙って来るだろう。苦笑まじりの指摘を交わし、前半部分のみをエリアスは拾った。それを言われると尋ねづらいな、との勝手な言い分は胸に仕舞う。
「あいつの国では、そう不思議なことでもないらしい」
無駄な移動時間という認識に変わりはないが、ハルトいわくそういうことなのだそうだ。なんでも、「交通手段がめちゃくちゃ発達」しているのだとか。とは言え、それはハルトの国の事情である。
「一緒に行こうとしつこかったから朝から馬車に揺られたが、よくあんなもので毎日往復できると驚いた」
とつとつとしたエリアスの説明に、ビルモスは興味深い顔で頷いた。
「勇者殿の国には、もっと楽な移動手段があるのだろうね。話を聞く限り、彼の国はいかにも平和で発展しているという印象がある」
「おそらくは」
「少し見てみたい気もするよ。彼の話は荒唐無稽で楽しそうだ」
想像でしか知ることのできない、ハルトの国。楽しげに笑みをこぼすビルモスを見つめ、エリアスは呟いた。
「良い国なのだろう」
廊下に面した窓の向こうからは、宮廷職員のかすかな話し声が響いている。逼迫した気配の微塵もない、長閑な空気。
魔王が滅び、五年もの月日が流れているのだ。平和で当然であるのだろうが。あの当時は、魔獣による被害報告がひっきりなしに上がり続けていた。
「あれほど素直に子どもが育つ国だ。平和で豊かだったのだろう。戻りたいと言って、よく泣いていたからな」
「昔の話だろう。それとも、きみの中の勇者殿は子どものままなのか? たまに宮廷で見かけるが、彼はいつも楽しそうだ」
安心すればいいといったふうな言い方だった。そうなのかもしれない、と考えることもできる。だが、エリアスは、外で人一倍気を張った顔をして、家で泣いた子どもを知っている。
――だから、すべて忘れろと言ったつもりだったのだがな。
あのとき、たしかに。同意したからこそ、ハルトもニホンに戻ったのだと思っていた。
それが、なぜ、こちらに戻ろうと思い立ったのか。エリアスにはまったく理解ができなかった。ハルトの言う、「自分に逢いたかった」という理由も含めて。
「ビルモス」
息を吐き、静かに呼びかける。
「ひとつ聞きたい」
「構わないが。勇者殿のことかな?」
「そうだ」
善良そうな笑顔を前に、一度言葉を切った。本来であれば、もっと早くに確認すべきであったのに、できていなかったこと。エリアスは慎重に投げかけた。
「ハルトが戻ってきた原因は、あなたにあるだろう」
「それはまた随分と作為的な言い方だね」
困ったふうな言葉と裏腹にさらりと笑い、エリアス、と自分の名を呼ぶ。部下を通り越し、頑なない子どもに言い聞かせる調子だった。
「戻ることのできる道具を持っていても、使用しない限り戻ることは不可能だ。そうである以上、責任は戻る意思決定をした持ち主にあると思うが」
「道具がなければ戻れない。そういう意味で確実に一端はあなたにある」
「確実か」
言葉尻を繰り返したビルモスが、執務机の上でおもむろに腕を組んだ。
面白がり始めたな。そう悟ったところで、退けるはずもない。エリアスはただ続きを待った。
「きみがそこまで言い切るのであれば、責任の一端くらいは担ってもいいが」
恩着せがましく前置き、ビルモスは問いかける。
「それで? 仮に責任の一端が僕にあるとして、なにが聞きたいのかな。最近のきみを見ていたら、想像がつく気はするが」
「ハルトをもう一度向こうに戻すことはできるのか」
「もう一度、向こうに?」
ゆっくりと、ビルモスは問い返した。先ほどととは違う、試すような繰り返し方。
頷いたエリアスに、ビルモスはそっと腕を解いた。術式を描く要領で宙に指先を滑らせているが、思案中に見せかけているだけと知っている。
案の定、ビルモスの返答はあっさりとしていた。
「もちろん、理論上は可能だ。だが、戻すべきではないだろうね。そう何度も時空を歪めるべきではない。きみもわかっているだろう」
にじんだかすかな呆れに、ぐっと反論を呑み込む。ビルモスの言うとおりで、わかっていたことだったからだ。
不満そうなエリアスの態度に、ビルモスもあからさまに溜息を吐いた。
「あのときは、あまりにも我らの都合で振り回してしまったからね。気の毒と思ったから、どうにか戻る方法を探したんだ」
ただね、とビルモスが言う。
「何度もやってよいものではなし。正直に言うと、今回のことも、あまり起こってほしくないイレギュラーだったんだ。隣町に顔を出す感覚で行き来をされると、さすがに困る」
「それはそうだと思うが」
「そうだろう。まぁ、彼が戻ってきたことについては過ぎた話だ。僕にとやかく言うつもりはない。はじめに言ったとおりで、彼が本気で願ったからこそ叶った帰還と思っているからね」
再び黙ったエリアスに、ビルモスは穏やかに言葉を継いだ。
「それに、そもそもの話だけどね、エリ」
「なんだ」
「勇者殿に、元の世界に戻りたいという意志はあるのかい?」
「わからない」
半ば反射で言い切った直後、卑怯な言い方だったとエリアスは思い直した。ハルトはこちらの生活を楽しみ、馴染もうと努力している。向こうのなになにが恋しい、帰りたい、そう言っていたあのころとは違う。ハルトは自分の意志で歩み寄ろうとしている。向こうに戻すべきと考えているのは、自分だけかもしれない。でも。――でも。
「今はないかもしれない」
すべてを見透かすような瞳から視線を外し、呟く。
「だが、一年後はわからないだろう。姿かたちは大きくなったが、あいつはまだ子どもだ。子どもの一時の願望で一生を決定づけるのは酷だ」
「こんなことを言うと元も子もないかもしれないが、誰だって一年後に同じ意志を抱いている保証はない。だからこそ、決断に価値がある。そうは思わないか?」
きっと反論を封じる笑みを浮かべているのだろう。想像し、エリアスは唇を噛んだ。そう言われるだろうことはわかっていた。だから、聞くことができなかったのだ。
「他人の決断に口を出すのは野暮というものだろう。きみが彼の本当の保護者であるというのであればまだしも、そうではないわけだしね。それとも、そういった位置に着く心積もりでも?」
「あるわけがない」
「なぜ?」
切り捨てたことを咎めず、ビルモスは淡々と問い重ねた。
大昔。それこそ、日常的にエリと呼ばれていたころ。魔術の組み立てに頭を悩ます自分を正解に導くため、問うていたものと変わらない口調だった。
「なぜ」
理論的に組み立てることも、客観的に鑑みることもできず、エリアスはただ繰り返した。ビルモスはなにも言わない。沈思黙考を経て、ぽつりと応じる。
「ハルトだからだ」
「それは、かつて、きみが面倒を見た子どもだからか? それとも、この世界を救った勇者殿だからか?」
「……」
「ああ、なるほど。つまり、きみは、自分をいまだ加害側の人間と思っているわけだ。あの子を無理やりこちらに呼び寄せ、魔王退治を強要した、と」
「無理やり呼び寄せたことは事実だろう」
「そうだね。おかげでこの国は救われた」
あっさりとビルモスは認めた。たったひとりと国。どちらが重要かなど言われずともわかるだろうというように。
「だが、今回のことは彼の選択だ。我々の一件がなければ、その選択もなかったときみは言うのかもしれないが、さすがに堂々巡りがすぎる。おそらくだけれど、勇者殿も同じことを言うのではないかな」
詭弁だ。幾度目になるのかわからないことをエリアスは思った。
「どちらにせよ、きみが彼の決断に口を挟むつもりなら、きちんと話し合うべきだ。一方的にきみの罪悪感を押し付ける現状は、公平ではない。彼にとってね」
確認を終えた書類を机に置いたビルモスが、労わる笑みを浮かべる。
朝早い時間のビルモスの執務室に自分たち以外の人気はなく、尋ねるにはちょうどいいタイミングだった。切り出し方に逡巡としていたエリアスに、ビルモスは再び笑いかけた。
「それにしても、勇者殿は元気だね。きみの家と王都の往復は骨が折れるだろうに。きみもそれに付き合ったから、こんなに早く着いたわけだろう」
「まぁ、そうだが」
「本当にこの時間に来るとは思わなかったから、少し驚いたよ。手紙で聞いていたものの、半信半疑だったんだ」
きみ、いつも余計な話をできない忙しい時間帯を狙って来るだろう。苦笑まじりの指摘を交わし、前半部分のみをエリアスは拾った。それを言われると尋ねづらいな、との勝手な言い分は胸に仕舞う。
「あいつの国では、そう不思議なことでもないらしい」
無駄な移動時間という認識に変わりはないが、ハルトいわくそういうことなのだそうだ。なんでも、「交通手段がめちゃくちゃ発達」しているのだとか。とは言え、それはハルトの国の事情である。
「一緒に行こうとしつこかったから朝から馬車に揺られたが、よくあんなもので毎日往復できると驚いた」
とつとつとしたエリアスの説明に、ビルモスは興味深い顔で頷いた。
「勇者殿の国には、もっと楽な移動手段があるのだろうね。話を聞く限り、彼の国はいかにも平和で発展しているという印象がある」
「おそらくは」
「少し見てみたい気もするよ。彼の話は荒唐無稽で楽しそうだ」
想像でしか知ることのできない、ハルトの国。楽しげに笑みをこぼすビルモスを見つめ、エリアスは呟いた。
「良い国なのだろう」
廊下に面した窓の向こうからは、宮廷職員のかすかな話し声が響いている。逼迫した気配の微塵もない、長閑な空気。
魔王が滅び、五年もの月日が流れているのだ。平和で当然であるのだろうが。あの当時は、魔獣による被害報告がひっきりなしに上がり続けていた。
「あれほど素直に子どもが育つ国だ。平和で豊かだったのだろう。戻りたいと言って、よく泣いていたからな」
「昔の話だろう。それとも、きみの中の勇者殿は子どものままなのか? たまに宮廷で見かけるが、彼はいつも楽しそうだ」
安心すればいいといったふうな言い方だった。そうなのかもしれない、と考えることもできる。だが、エリアスは、外で人一倍気を張った顔をして、家で泣いた子どもを知っている。
――だから、すべて忘れろと言ったつもりだったのだがな。
あのとき、たしかに。同意したからこそ、ハルトもニホンに戻ったのだと思っていた。
それが、なぜ、こちらに戻ろうと思い立ったのか。エリアスにはまったく理解ができなかった。ハルトの言う、「自分に逢いたかった」という理由も含めて。
「ビルモス」
息を吐き、静かに呼びかける。
「ひとつ聞きたい」
「構わないが。勇者殿のことかな?」
「そうだ」
善良そうな笑顔を前に、一度言葉を切った。本来であれば、もっと早くに確認すべきであったのに、できていなかったこと。エリアスは慎重に投げかけた。
「ハルトが戻ってきた原因は、あなたにあるだろう」
「それはまた随分と作為的な言い方だね」
困ったふうな言葉と裏腹にさらりと笑い、エリアス、と自分の名を呼ぶ。部下を通り越し、頑なない子どもに言い聞かせる調子だった。
「戻ることのできる道具を持っていても、使用しない限り戻ることは不可能だ。そうである以上、責任は戻る意思決定をした持ち主にあると思うが」
「道具がなければ戻れない。そういう意味で確実に一端はあなたにある」
「確実か」
言葉尻を繰り返したビルモスが、執務机の上でおもむろに腕を組んだ。
面白がり始めたな。そう悟ったところで、退けるはずもない。エリアスはただ続きを待った。
「きみがそこまで言い切るのであれば、責任の一端くらいは担ってもいいが」
恩着せがましく前置き、ビルモスは問いかける。
「それで? 仮に責任の一端が僕にあるとして、なにが聞きたいのかな。最近のきみを見ていたら、想像がつく気はするが」
「ハルトをもう一度向こうに戻すことはできるのか」
「もう一度、向こうに?」
ゆっくりと、ビルモスは問い返した。先ほどととは違う、試すような繰り返し方。
頷いたエリアスに、ビルモスはそっと腕を解いた。術式を描く要領で宙に指先を滑らせているが、思案中に見せかけているだけと知っている。
案の定、ビルモスの返答はあっさりとしていた。
「もちろん、理論上は可能だ。だが、戻すべきではないだろうね。そう何度も時空を歪めるべきではない。きみもわかっているだろう」
にじんだかすかな呆れに、ぐっと反論を呑み込む。ビルモスの言うとおりで、わかっていたことだったからだ。
不満そうなエリアスの態度に、ビルモスもあからさまに溜息を吐いた。
「あのときは、あまりにも我らの都合で振り回してしまったからね。気の毒と思ったから、どうにか戻る方法を探したんだ」
ただね、とビルモスが言う。
「何度もやってよいものではなし。正直に言うと、今回のことも、あまり起こってほしくないイレギュラーだったんだ。隣町に顔を出す感覚で行き来をされると、さすがに困る」
「それはそうだと思うが」
「そうだろう。まぁ、彼が戻ってきたことについては過ぎた話だ。僕にとやかく言うつもりはない。はじめに言ったとおりで、彼が本気で願ったからこそ叶った帰還と思っているからね」
再び黙ったエリアスに、ビルモスは穏やかに言葉を継いだ。
「それに、そもそもの話だけどね、エリ」
「なんだ」
「勇者殿に、元の世界に戻りたいという意志はあるのかい?」
「わからない」
半ば反射で言い切った直後、卑怯な言い方だったとエリアスは思い直した。ハルトはこちらの生活を楽しみ、馴染もうと努力している。向こうのなになにが恋しい、帰りたい、そう言っていたあのころとは違う。ハルトは自分の意志で歩み寄ろうとしている。向こうに戻すべきと考えているのは、自分だけかもしれない。でも。――でも。
「今はないかもしれない」
すべてを見透かすような瞳から視線を外し、呟く。
「だが、一年後はわからないだろう。姿かたちは大きくなったが、あいつはまだ子どもだ。子どもの一時の願望で一生を決定づけるのは酷だ」
「こんなことを言うと元も子もないかもしれないが、誰だって一年後に同じ意志を抱いている保証はない。だからこそ、決断に価値がある。そうは思わないか?」
きっと反論を封じる笑みを浮かべているのだろう。想像し、エリアスは唇を噛んだ。そう言われるだろうことはわかっていた。だから、聞くことができなかったのだ。
「他人の決断に口を出すのは野暮というものだろう。きみが彼の本当の保護者であるというのであればまだしも、そうではないわけだしね。それとも、そういった位置に着く心積もりでも?」
「あるわけがない」
「なぜ?」
切り捨てたことを咎めず、ビルモスは淡々と問い重ねた。
大昔。それこそ、日常的にエリと呼ばれていたころ。魔術の組み立てに頭を悩ます自分を正解に導くため、問うていたものと変わらない口調だった。
「なぜ」
理論的に組み立てることも、客観的に鑑みることもできず、エリアスはただ繰り返した。ビルモスはなにも言わない。沈思黙考を経て、ぽつりと応じる。
「ハルトだからだ」
「それは、かつて、きみが面倒を見た子どもだからか? それとも、この世界を救った勇者殿だからか?」
「……」
「ああ、なるほど。つまり、きみは、自分をいまだ加害側の人間と思っているわけだ。あの子を無理やりこちらに呼び寄せ、魔王退治を強要した、と」
「無理やり呼び寄せたことは事実だろう」
「そうだね。おかげでこの国は救われた」
あっさりとビルモスは認めた。たったひとりと国。どちらが重要かなど言われずともわかるだろうというように。
「だが、今回のことは彼の選択だ。我々の一件がなければ、その選択もなかったときみは言うのかもしれないが、さすがに堂々巡りがすぎる。おそらくだけれど、勇者殿も同じことを言うのではないかな」
詭弁だ。幾度目になるのかわからないことをエリアスは思った。
「どちらにせよ、きみが彼の決断に口を挟むつもりなら、きちんと話し合うべきだ。一方的にきみの罪悪感を押し付ける現状は、公平ではない。彼にとってね」
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