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案件5.硝子の右手
22:お化けの学校5
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「ほかに伝えたいことはありますか。もしあれば、俺でよければ聞きますよ」
たとえば、彼女を思っているだろう家族にだとか。もし彼女が望むのなら、行平は彼女の家族を探してもいいと思っていた。
そのくらいのことしかできないが、できることはしてあげたかったのだ。けれど、彼女は首を横に振った。
「家族に伝えたいことはないわ。私は自分があの子たちを遺していくとわかっていたから。伝えたいと思っていたことは伝えたつもり。もちろん、伝えきれなかったこともあるけれど、それを今になって伝えるのはずるいわ、きっと」
「そうですか」
「それに、今になって私がなにか伝えなくても、あの子たちは大丈夫。それが私の自慢で、絆よ」
にこりと崎野美沙子が笑う。特段、美形なわけでも、あか抜けているわけでもないのに、その笑顔は驚くほど透明感に満ちて美しかった。
――余計な同情だったんだろうな。
自分自身の感傷を彼女に投影していたことを行平は恥じた。彼女は、強い。幸せであたたかな記憶だけを抱いて、逝こうとしている。
彼女の瞳が柔らかく笑む。それが最後だった。
透き通り始めていた身体が、光が霧散するように消えていく。右手のひらには、まだほのかな温もりが残っていた。
その右手をぐっと握りしめる。たしかに彼女はここに戻ってきていたのだ。そうして、彼女自身の意志で帰っていった。
「あんたの右手は、触れるんだな」
その声に、錫杖の音が鳴り止んでいたことに気づく。強い感情もなにも含まない、いつもどおりの呪殺屋の平淡な声。
「さっきの女が言っていたことは正しい。少なくとも、俺はそう思う。でも、すべての霊が、あんなふうにできるとは限らない」
「そうだろうな」
しんみりと行平は頷いた。むしろ、あんなふうに強く綺麗に割り切ることのできる彼女が特別だったのではないだろうか。
現に、自分は、後悔も未練も数えきれないほど胸に抱えている。ああしていればよかった。こうしていればよかった。あのとき違う選択をしていれば。そんなたらればばかりだ。
「そうだ。たとえ、最初はそう思うことができていたとしても、現世に関わるうちに、どんどんと欲が出てくるんだ。当たり前だとは思うけどね。人間の性だよ。それで、いつしか未練ばかりになって、それ以外がなくなってしまう」
「そうか」
「哀れだろう」
そこでようやく呪殺屋と視線が絡んだ。事務所で垣間見た怒りはなく。ただ静かだった。
「愛していたはずの、遺してきた誰かに、その牙が向くことさえあるんだ」
「そうか」
同じ相槌を行平は繰り返した。「妹」として行平の前に現れた少女のことを思い出す。妹であれば。いや、妹でなくとも。この子どもが望むのなら、害を成されてもいいと思った瞬間はたしかにあったのだ。
「生きている人間でさえ、思い余って呪うことがある。害を成す。呪い、怨念、すべて人間が生み出す負の感情の連鎖だ」
「だから、それを止めてやればいいんだろう、今日みたいに」
自分自身に言い聞かせる調子で、行平は請け負った。
探偵事務所に「万」の看板をつけようと思い至った夜、少女たちは泣いていた。呪ったからといって、どうにかなるわけじゃない。そのことは、きっと彼女たちもわかっていたのだと思う。
けれど、わかっていても、一時の激情に流されてしまうことはあるのだ。人間は弱い。
――でも、だから、引き留める呪殺屋がいてもいいと思うんだよ。
迷う弱い人間の背を押す呪殺屋と、この男は違うのだから。その呪殺屋が、行平を見下ろして、わざとらしく嘆息した。
たとえば、彼女を思っているだろう家族にだとか。もし彼女が望むのなら、行平は彼女の家族を探してもいいと思っていた。
そのくらいのことしかできないが、できることはしてあげたかったのだ。けれど、彼女は首を横に振った。
「家族に伝えたいことはないわ。私は自分があの子たちを遺していくとわかっていたから。伝えたいと思っていたことは伝えたつもり。もちろん、伝えきれなかったこともあるけれど、それを今になって伝えるのはずるいわ、きっと」
「そうですか」
「それに、今になって私がなにか伝えなくても、あの子たちは大丈夫。それが私の自慢で、絆よ」
にこりと崎野美沙子が笑う。特段、美形なわけでも、あか抜けているわけでもないのに、その笑顔は驚くほど透明感に満ちて美しかった。
――余計な同情だったんだろうな。
自分自身の感傷を彼女に投影していたことを行平は恥じた。彼女は、強い。幸せであたたかな記憶だけを抱いて、逝こうとしている。
彼女の瞳が柔らかく笑む。それが最後だった。
透き通り始めていた身体が、光が霧散するように消えていく。右手のひらには、まだほのかな温もりが残っていた。
その右手をぐっと握りしめる。たしかに彼女はここに戻ってきていたのだ。そうして、彼女自身の意志で帰っていった。
「あんたの右手は、触れるんだな」
その声に、錫杖の音が鳴り止んでいたことに気づく。強い感情もなにも含まない、いつもどおりの呪殺屋の平淡な声。
「さっきの女が言っていたことは正しい。少なくとも、俺はそう思う。でも、すべての霊が、あんなふうにできるとは限らない」
「そうだろうな」
しんみりと行平は頷いた。むしろ、あんなふうに強く綺麗に割り切ることのできる彼女が特別だったのではないだろうか。
現に、自分は、後悔も未練も数えきれないほど胸に抱えている。ああしていればよかった。こうしていればよかった。あのとき違う選択をしていれば。そんなたらればばかりだ。
「そうだ。たとえ、最初はそう思うことができていたとしても、現世に関わるうちに、どんどんと欲が出てくるんだ。当たり前だとは思うけどね。人間の性だよ。それで、いつしか未練ばかりになって、それ以外がなくなってしまう」
「そうか」
「哀れだろう」
そこでようやく呪殺屋と視線が絡んだ。事務所で垣間見た怒りはなく。ただ静かだった。
「愛していたはずの、遺してきた誰かに、その牙が向くことさえあるんだ」
「そうか」
同じ相槌を行平は繰り返した。「妹」として行平の前に現れた少女のことを思い出す。妹であれば。いや、妹でなくとも。この子どもが望むのなら、害を成されてもいいと思った瞬間はたしかにあったのだ。
「生きている人間でさえ、思い余って呪うことがある。害を成す。呪い、怨念、すべて人間が生み出す負の感情の連鎖だ」
「だから、それを止めてやればいいんだろう、今日みたいに」
自分自身に言い聞かせる調子で、行平は請け負った。
探偵事務所に「万」の看板をつけようと思い至った夜、少女たちは泣いていた。呪ったからといって、どうにかなるわけじゃない。そのことは、きっと彼女たちもわかっていたのだと思う。
けれど、わかっていても、一時の激情に流されてしまうことはあるのだ。人間は弱い。
――でも、だから、引き留める呪殺屋がいてもいいと思うんだよ。
迷う弱い人間の背を押す呪殺屋と、この男は違うのだから。その呪殺屋が、行平を見下ろして、わざとらしく嘆息した。
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