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案件3.天狗の遠吠え
18:雨の結末
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降り止まない雨。雨に濡れる木々、姿の見えない、夏の蝉。そして、宙に浮いている、『妹』。
雨の中、ピンクのレインコートだけがいやにはっきりと目に付いた。妹が、半ば以上透けているからだ。妹も、身に纏っているピンクのパーカーも、白いスカートも、グレーのタイツも、全部、全部。
「お兄ちゃん」
妹の声とは程遠い、甲高い機械のような声だった。白い瞳が、恨めしそうに行平を見ている。
「お兄ちゃんは、一緒に来てくれないの。あたしを信じてくれないの」
呪殺屋は、なにも言わなかった。けれど、行平のすぐそばにいるのはたしかで、それだけは疑いようがなかった。鈴は、もう鳴らない。
「いつか、絶対、このみの傍に行く。絶対に、このみを見つける。でも、それは今じゃないんだ」
行平は空に浮く『妹』を見上げた。
「ごめんな、このみ」
そして、それを言う相手も、きっと、この子ではないのだろうけれど。行平は『妹』から視線を外さなかった。
『妹』の顔が泣きそうに歪んだ。崩れる。消える。無くなってしまう。そして、終わる。
「お……、ゃん」
行平の手の内で、人形の土が剥がれて崩れかけていた。宙に浮く『妹』も、どんどんと透明な部分が増えていく。行平の視線の先で、『妹』が消えつつある。けれど行平は視線をそらなかった。
「お兄ちゃ……、やきゅ、試合……だ、った?」
消え失せる最後、崩れかけた顔で、それでも『妹』が笑ったと思った。
「この、み」
行平は瞠目して、思わず手を伸ばした。けれど、その先で、『妹』が崩れ落ちるように霧散した。ぱら、とレインコートだけがぬかるんだ地面に落ちる。
拾おうと手を伸ばし、足を一歩踏み出したところで、行平は愕然とした。切り立った斜面の淵だったからだ。あと一歩、妹の手を取るために進んでいたら、落ちていた。
「だから、言っただろう。あれはあんたの可愛い妹じゃない」
呪殺屋の手が落ちたレインコートをかすめ取っていく。風にあおられたピンクの裾が視界の端を揺らめいていた。
「なぁ、呪殺……」
「あの紛い物が家にいるあいだ、あんたはしなかっただろう。生産的なことは、なにも」
母親に引き合わせることもしなければ、神隠しの原因を探ることもしなかった。
「それが答えでいいんじゃないか。今は、それで」
呪殺屋の手の内から、レインコートが飛び立った。切り立った山腹の底に、ピンクがひらりひらりと舞い落ちていく。行平はそっと目を伏せた。
雨にあおられながら落ちていったそれは、岩に引っかかって止まったようだった。妹も、こうであれば、すぐに見つけてもらえたのだろうか。
――いや、生きている。きっと、どこかで。
悔恨を振り切るように行平は視線を上げた。行平の隣で、呪殺屋は涼しい顔でどこか遠いところを見ていた。
雨が呪殺屋の髪を止めどなく濡らしていた。やはり、藍色だと思った。
「試合は勝った」
「はぁ? いつの試合の話で、なんの試合なの」
突飛な行平の発言に、呪殺屋が眉を上げた。それが妙に幼く見えて、行平は笑った。そして笑える自分に少し驚いた。けれどそれも当たり前なのかもしれない。生きているのだから。
「もう辞めたけどな。野球」
妹が居なくなったと知った日以来、行平はグローブを置いた。この男は、行平の感傷だと嗤うかもしれないが。
白球を握れなくなった。あれは、行平からすべての日常を奪い去っていった。
「ふぅん。まぁ、やりたくなったらやったらいいんじゃない」
「そうだな。やりたくなったら、な」
いつか、そんな日が来るのだろうか。来てもきっと、身体は動かないだろうけれど。
どこか不思議そうに行平を見上げていた呪殺屋が、濡れそぼった前髪を後ろにかき上げた。
「麓で見沢が待ってる」
「あいつも来てたのか」
「この雨の中、山に入るのは馬鹿すぎてごめんだったらしいけどね」
スーツの詐欺師がぬかるんだ山道に入るのを嫌がる姿は、容易に想像がついた。
「おまえは?」
「なにが」
「嫌じゃなかったのか、ここまでやってくるのは」
行平の問いに、呪殺屋は微かに目を見開いた。そして、呆れたように嘆息する。
「あんたがいなくなったら、『犬』の世話は誰がするんだ」
「……あ」
すっかり忘れていた。見事に忘れていた。事務所に置き去りにした犬の状況が俄然気になってきてしまった。
「やばい、一応冷房は利かせといたけど! やばい! 帰るぞ、呪殺屋!」
「だから困るんだよ、あんたがいないと」
溜息染みた台詞で応じて、呪殺屋が踵を返した。そういえば、この男は、自分以上に山に入る装備を携えていない。着流しを引っかけただけの細身の足元は雪駄だった。
「滑るなよ?」
「誰が。あんたじゃあるまいし」
錫杖の先を杖替わりに山道をさくさくと歩き出した背中を、行平も急いで追いかけた。
家では犬が待っている。麓では詐欺師が待っている。
そして、帰るべき家がある。今は、まだ。明日は、雨が上がるだろうか。
明日は、妹の二十四回目の誕生日だ。
雨の中、ピンクのレインコートだけがいやにはっきりと目に付いた。妹が、半ば以上透けているからだ。妹も、身に纏っているピンクのパーカーも、白いスカートも、グレーのタイツも、全部、全部。
「お兄ちゃん」
妹の声とは程遠い、甲高い機械のような声だった。白い瞳が、恨めしそうに行平を見ている。
「お兄ちゃんは、一緒に来てくれないの。あたしを信じてくれないの」
呪殺屋は、なにも言わなかった。けれど、行平のすぐそばにいるのはたしかで、それだけは疑いようがなかった。鈴は、もう鳴らない。
「いつか、絶対、このみの傍に行く。絶対に、このみを見つける。でも、それは今じゃないんだ」
行平は空に浮く『妹』を見上げた。
「ごめんな、このみ」
そして、それを言う相手も、きっと、この子ではないのだろうけれど。行平は『妹』から視線を外さなかった。
『妹』の顔が泣きそうに歪んだ。崩れる。消える。無くなってしまう。そして、終わる。
「お……、ゃん」
行平の手の内で、人形の土が剥がれて崩れかけていた。宙に浮く『妹』も、どんどんと透明な部分が増えていく。行平の視線の先で、『妹』が消えつつある。けれど行平は視線をそらなかった。
「お兄ちゃ……、やきゅ、試合……だ、った?」
消え失せる最後、崩れかけた顔で、それでも『妹』が笑ったと思った。
「この、み」
行平は瞠目して、思わず手を伸ばした。けれど、その先で、『妹』が崩れ落ちるように霧散した。ぱら、とレインコートだけがぬかるんだ地面に落ちる。
拾おうと手を伸ばし、足を一歩踏み出したところで、行平は愕然とした。切り立った斜面の淵だったからだ。あと一歩、妹の手を取るために進んでいたら、落ちていた。
「だから、言っただろう。あれはあんたの可愛い妹じゃない」
呪殺屋の手が落ちたレインコートをかすめ取っていく。風にあおられたピンクの裾が視界の端を揺らめいていた。
「なぁ、呪殺……」
「あの紛い物が家にいるあいだ、あんたはしなかっただろう。生産的なことは、なにも」
母親に引き合わせることもしなければ、神隠しの原因を探ることもしなかった。
「それが答えでいいんじゃないか。今は、それで」
呪殺屋の手の内から、レインコートが飛び立った。切り立った山腹の底に、ピンクがひらりひらりと舞い落ちていく。行平はそっと目を伏せた。
雨にあおられながら落ちていったそれは、岩に引っかかって止まったようだった。妹も、こうであれば、すぐに見つけてもらえたのだろうか。
――いや、生きている。きっと、どこかで。
悔恨を振り切るように行平は視線を上げた。行平の隣で、呪殺屋は涼しい顔でどこか遠いところを見ていた。
雨が呪殺屋の髪を止めどなく濡らしていた。やはり、藍色だと思った。
「試合は勝った」
「はぁ? いつの試合の話で、なんの試合なの」
突飛な行平の発言に、呪殺屋が眉を上げた。それが妙に幼く見えて、行平は笑った。そして笑える自分に少し驚いた。けれどそれも当たり前なのかもしれない。生きているのだから。
「もう辞めたけどな。野球」
妹が居なくなったと知った日以来、行平はグローブを置いた。この男は、行平の感傷だと嗤うかもしれないが。
白球を握れなくなった。あれは、行平からすべての日常を奪い去っていった。
「ふぅん。まぁ、やりたくなったらやったらいいんじゃない」
「そうだな。やりたくなったら、な」
いつか、そんな日が来るのだろうか。来てもきっと、身体は動かないだろうけれど。
どこか不思議そうに行平を見上げていた呪殺屋が、濡れそぼった前髪を後ろにかき上げた。
「麓で見沢が待ってる」
「あいつも来てたのか」
「この雨の中、山に入るのは馬鹿すぎてごめんだったらしいけどね」
スーツの詐欺師がぬかるんだ山道に入るのを嫌がる姿は、容易に想像がついた。
「おまえは?」
「なにが」
「嫌じゃなかったのか、ここまでやってくるのは」
行平の問いに、呪殺屋は微かに目を見開いた。そして、呆れたように嘆息する。
「あんたがいなくなったら、『犬』の世話は誰がするんだ」
「……あ」
すっかり忘れていた。見事に忘れていた。事務所に置き去りにした犬の状況が俄然気になってきてしまった。
「やばい、一応冷房は利かせといたけど! やばい! 帰るぞ、呪殺屋!」
「だから困るんだよ、あんたがいないと」
溜息染みた台詞で応じて、呪殺屋が踵を返した。そういえば、この男は、自分以上に山に入る装備を携えていない。着流しを引っかけただけの細身の足元は雪駄だった。
「滑るなよ?」
「誰が。あんたじゃあるまいし」
錫杖の先を杖替わりに山道をさくさくと歩き出した背中を、行平も急いで追いかけた。
家では犬が待っている。麓では詐欺師が待っている。
そして、帰るべき家がある。今は、まだ。明日は、雨が上がるだろうか。
明日は、妹の二十四回目の誕生日だ。
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