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案件3.天狗の遠吠え
12:探偵と大家2
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窓を叩く雨音によって、行平の意識は浅い夢から引き戻された。曇天ではあるが、夜は明けている。すぐ傍らでは、妹が安らかな顔で眠っていた。
その寝顔に、行平の顔に自然と笑みが浮かんだ。ぐっすりと寝入っている小さな頭を撫ぜて、跳ね飛ばしてしまっていたブランケットを妹にかける。
そのままそっと事務所に抜け出して、煙草に火を点けた。妹と同じ空間では、吸おういう気になれないのだ。けれど、網戸を引いて外に身を乗り出すには、雨脚が強そうだ。諦めて換気扇の下で煙をふかしていると、雨音に紛れたチャイムの音が微かに耳に届いた。
二回、三回と音が続いたそれに、居留守を諦める。まったく、何時だと思っているのか。事務所の時計を見上げると、ちょうど八時を回ったところだった。
探偵事務所の開業時間を決めているわけではないが、まだ早朝と評しても許される時間だろう。灰皿に乱雑に煙草を押し付けて、確認しないままドアを開ける。
不機嫌な顔をしていた自覚はあるが、対面した客はその上を行く不機嫌顔だった。
「おまえはそんな格好で客の前に出るのか」
「え? あ、いや……」
慌てて身なりを確認する。かろうじてTシャツは着ていた。よかった。下は学生のようなハーフパンツだったが。やらかした。反省はしたが、それを言葉にするより相手のほうが早かった。
「よう、滝川。俺からの連絡を無視した上に、挨拶もなしとはいい度胸だな」
「相沢、さん」
おはよう、ございます。ぎこちなく続けた先で、相沢が嫌味なほどの笑顔を見せた。
「珈琲でいいですか」
家主のように――と言っても、このビルの所有者は相沢であるので、ある意味そうかもしれない――、どっかりとソファに腰を下ろした相沢にお伺いを立てるが、無言で首を横に振られてしまった。
「そりゃ、弌の坊みたいな味にはなりませんけどね。眠気覚ましくらいにはなりますよ」
「覚ます必要があるのはおまえであって、俺じゃない」
遠慮会釈のない相沢に、行平は沈黙した。昔からそうだ。この人は、正論しか吐かない。それが相手にとってどう映るかは考えない。
だが、――正論なのだ。いつだって。
「出勤前に寄っただけだ。おまえが電話の電源を切ってたからな」
「すみません、その、ちょっと、充電切れで」
「家でか?」
「……すみません」
ぐうの音も出ないとは、まさにこのことである。
小さく嘆息した相沢に、行平は息を詰めた。それが説教の前触れであることは、身をもって知っている。
「言霊に力があるという話を知っているか?」
「何度か聞いたことは」
「呪殺屋か」
「いえ。それより以前にも、一度」
「あいつの家でよく言われているそれなんだがな」
あいつとは、呪殺屋だろう。呪殺屋。行平を見つめる怜悧な金色が脳裏に蘇る。行平は事務所の隅のカウンターの前から動けなかった。持ったままの珈琲缶を、そっと元に戻す。間抜けだと思った。
「今のおまえの状態は、正にそれだ。最初に言ったろう。本物なのか、紛い物なのか、どっちだって」
「だから、本物だと、本当の妹だと答えただけです、俺は」
沈黙のせめぎ合いのあとで、相沢が呆れた声音で繰り返す。
「言霊には力がある」
「だから、俺は……」
「おまえが本物だと言い張る限り、それはおまえから離れない。あるいは、署でおまえが紛い物だと断じていれば、こうはならなかっただろうな」
じゃあなんで、俺を呼んだんですか。俺の前に妹を連れてきたんですか。問いを行平は必死で呑み込んだ。訊けば終わる。なにがとは認知できないまま、けれど、わかっていた。
「俺はこんな面倒なことを言うつもりは更々なかったんだが」
応えない行平を促すでもなく、相沢は立ち上がった。本当に言いたいことを言いに来ただけなのだろう。そういう人なのだ。
「あいつを拾って、ここを与えたのは俺だ。いつか俺にとってプラスに働くと算段しただけで、あいつを哀れんだわけでもなんでもない。ただ、今回ばかりはあいつが哀れに思えたな」
哀れ。行平は心の内で繰り返した。その台詞は、行平の中の『呪殺屋』とは整合しない。
その寝顔に、行平の顔に自然と笑みが浮かんだ。ぐっすりと寝入っている小さな頭を撫ぜて、跳ね飛ばしてしまっていたブランケットを妹にかける。
そのままそっと事務所に抜け出して、煙草に火を点けた。妹と同じ空間では、吸おういう気になれないのだ。けれど、網戸を引いて外に身を乗り出すには、雨脚が強そうだ。諦めて換気扇の下で煙をふかしていると、雨音に紛れたチャイムの音が微かに耳に届いた。
二回、三回と音が続いたそれに、居留守を諦める。まったく、何時だと思っているのか。事務所の時計を見上げると、ちょうど八時を回ったところだった。
探偵事務所の開業時間を決めているわけではないが、まだ早朝と評しても許される時間だろう。灰皿に乱雑に煙草を押し付けて、確認しないままドアを開ける。
不機嫌な顔をしていた自覚はあるが、対面した客はその上を行く不機嫌顔だった。
「おまえはそんな格好で客の前に出るのか」
「え? あ、いや……」
慌てて身なりを確認する。かろうじてTシャツは着ていた。よかった。下は学生のようなハーフパンツだったが。やらかした。反省はしたが、それを言葉にするより相手のほうが早かった。
「よう、滝川。俺からの連絡を無視した上に、挨拶もなしとはいい度胸だな」
「相沢、さん」
おはよう、ございます。ぎこちなく続けた先で、相沢が嫌味なほどの笑顔を見せた。
「珈琲でいいですか」
家主のように――と言っても、このビルの所有者は相沢であるので、ある意味そうかもしれない――、どっかりとソファに腰を下ろした相沢にお伺いを立てるが、無言で首を横に振られてしまった。
「そりゃ、弌の坊みたいな味にはなりませんけどね。眠気覚ましくらいにはなりますよ」
「覚ます必要があるのはおまえであって、俺じゃない」
遠慮会釈のない相沢に、行平は沈黙した。昔からそうだ。この人は、正論しか吐かない。それが相手にとってどう映るかは考えない。
だが、――正論なのだ。いつだって。
「出勤前に寄っただけだ。おまえが電話の電源を切ってたからな」
「すみません、その、ちょっと、充電切れで」
「家でか?」
「……すみません」
ぐうの音も出ないとは、まさにこのことである。
小さく嘆息した相沢に、行平は息を詰めた。それが説教の前触れであることは、身をもって知っている。
「言霊に力があるという話を知っているか?」
「何度か聞いたことは」
「呪殺屋か」
「いえ。それより以前にも、一度」
「あいつの家でよく言われているそれなんだがな」
あいつとは、呪殺屋だろう。呪殺屋。行平を見つめる怜悧な金色が脳裏に蘇る。行平は事務所の隅のカウンターの前から動けなかった。持ったままの珈琲缶を、そっと元に戻す。間抜けだと思った。
「今のおまえの状態は、正にそれだ。最初に言ったろう。本物なのか、紛い物なのか、どっちだって」
「だから、本物だと、本当の妹だと答えただけです、俺は」
沈黙のせめぎ合いのあとで、相沢が呆れた声音で繰り返す。
「言霊には力がある」
「だから、俺は……」
「おまえが本物だと言い張る限り、それはおまえから離れない。あるいは、署でおまえが紛い物だと断じていれば、こうはならなかっただろうな」
じゃあなんで、俺を呼んだんですか。俺の前に妹を連れてきたんですか。問いを行平は必死で呑み込んだ。訊けば終わる。なにがとは認知できないまま、けれど、わかっていた。
「俺はこんな面倒なことを言うつもりは更々なかったんだが」
応えない行平を促すでもなく、相沢は立ち上がった。本当に言いたいことを言いに来ただけなのだろう。そういう人なのだ。
「あいつを拾って、ここを与えたのは俺だ。いつか俺にとってプラスに働くと算段しただけで、あいつを哀れんだわけでもなんでもない。ただ、今回ばかりはあいつが哀れに思えたな」
哀れ。行平は心の内で繰り返した。その台詞は、行平の中の『呪殺屋』とは整合しない。
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