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第二章:白狐と初恋

プロローグ①

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「先輩! せんぱーい! どこですか!」

 来庁者のいない本館の廊下をきょろきょろと走り回っていると、管理課から声がかかった。

「お、三崎ちゃん。お疲れ様。あいつなら、屋上じゃないの?」
「もう見ました!」
「じゃあ、男子トイレ」
「入れません!」

 完全におもしろがっているそれに叫び返して、足を速める。このやり取りを二ヶ月弱で何度しただろうか。うちの課の新たな名物になってしまった気がしてならない。

 ――というか、入ったら大問題でしょ、男子トイレ。

 いくらあたしたち四人以外にほぼ人がいない旧官舎とはいえ、上階は文書庫になっているのだ。職員の出入りがないわけではない。
 だから油断してはならない。最近のあたしは、そう言い聞かせている。
 誰もいないはずの旧館の男子トイレから聞こえた人の話し声に、腰を抜かしかけたからだ。
 話の落ちとしては、幽霊の正体見たり枯れ尾花というか、まぁ、先輩と謎のおじいちゃんが話し込んでいただけだったのだが。

 そもそも、そのおじいちゃんはどこから入ってきたのだ、とか。なんでそんなところで話し込んでいるのだ、とか。
 謎は多々あったのだけれど、ありすぎて突っ込みが追い付かなかった。
 しかたなく、自分の心臓と腰の安全のために、「話すなら、もっと違うところで話してくださいよ。おなかが痛いとかならべつですけど」とだけ訴えた。
 ちなみにそのときの先輩の返答は、「おまえ、やっぱり大物だな」という嫌味にしか聞こえないものだったわけだが、それはさておいて。

「もう、本当に、あの人、すぐふらふらいなくなる……」

 これが煙草休憩であれば多少は納得するけれど、そういうわけでもないらしい。あいかわらず謎すぎる。
 七海さんや課長が咎めていないところから察するに、ただのさぼりではないのだろうけれど。
 おまけに、せめて旧館だけに留まっていてくれたらいいのに、本館にいることも多いから性質が悪いのだ。

「まぁ、だから、あんなあだ名が定着しちゃったんだろうけど」

 なんせ、「旧館のもじゃおさん」である。誰が言い出したのかは知らないけれど、あの見た目は怪しいと言わざるを得ない。

 ――ふつうにしてたら、めちゃくちゃ美形なのに、もったいない。

 むろん、思うだけだ。そんなことを先輩に進言できるはずもない。人それぞれだしなという決まり文句で自分を納得させて、腕時計で時間を確認する。十三時四十二分。大変よろしくない。

 十四時までに真晴くんを連れ戻してくれるかな、申し訳ないけど。通話を終えた七海さんにそう頼まれたのが、今から十五分ほど前のことだ。
 近づきつつあるタイムリミットに焦りながら、本館の心当たりをすべて確認したあたしは、旧館に戻って来た。本館にいないとなると、怪しいのは屋上だ。

 先輩の行動は自由気ままな野良猫に似ている。
 基本的に外が好きだし、高いところが好きだし、ひだまりも好きだ。雨の日は、不機嫌そうな顔でトイレだとか書庫だとかに寝転がっている。

 今日は快晴。
 本館の屋上にいなかったのだから、残るはここしかいない。階段を三階分駆け上って、屋上へ続く鉄製の扉に手をかける。案の定、鍵は開いていた。

「いた! 先輩」

 屋上の隅で、ヤンキー座りで空を見上げていた先輩が振り向く。それと同時に、バサッと大きな羽音を立てて鷹が青い空に飛び上がっていった。
 いくら田舎とはいえ、こんなふうに鷹が近寄ってくることはない。鷹匠でもあるまいし。しばし呆然としたのち、あたしは問いかけた。

「な、なんですか、今の」
「鷹」
「いや、それは見たらわかりますけど」

 もしかしてこの人、鷹とも喋れたりするのかなと疑っただけだ。さすがにファンタジーが過ぎるかもしれないとも思ったけれど、河童が人間に化けるのだ。なにがあってもおかしくない。

「というか、なんで先輩は携帯を持ち歩いてくださらないんですか」

 携帯電話の意味がまったくない。なんであたしが毎度探し回らなければならないのか。汗だくのあたしを涼しい顔で一瞥して、先輩が言う。

「機械と相性悪ぃんだよ、俺」
「はい?」
「だから、持っててもすぐ壊れる。意味がない」

 一応人間ですよねという言葉をあたしはなんとか呑み込んだ。
 そういえば、むかし読んでいた少女漫画で、幽霊は機械と相性が悪いだのなんのと霊能力者が言っていたような、いないような。

 ……いや、先輩は人間だけど。

「だから、外回りに出るときはおまえを連れて行ってるだろ」
「あたしは先輩の携帯電話ですか!」

 あまりにもしれっと告げられて、つい叫んでしまった。

「似たようなもんだな」
「どっ……!」
「ど?」
「どおりで、先輩がよく公用車をエンストさせるはずだと思いましたよ! 今度からあたしが運転します!」
「公用車の運転資格がまだねぇって言ったのはおまえだろうが」

 事実なので、あたしは黙り込んだ。来年だ。来年度になればあたしが運転することができる。
 そうすれば、助手席からエンジンキーを回す必要はなくなるのだ。

 ……公用車のあたりが壊滅的に悪いんだと思ってたけど、先輩のせいだったんだな。

 なんというか難儀な人だ。そう思っているうちに、先輩が立ち上がった。

「それで? なにしに来たんだよ、おまえ」
「あ! そうだった。あと五分」
「はぁ? なんだよ、あと五分って」
「七海さんが二時までに先輩を連れ帰ってきてほしいって言うから探してたんです」
「用件は?」
「聞いてない、ですけど」

 ちょっと聞いてこなかったのは悪かったかなと思ったけれど、使えねぇな、こいつ、みたいな顔をされて謝る気が一気に失せた。
 この二ヶ月で体得したこと、その一。先輩に対して気を使いすぎるとろくなことにならない。

「戻ったらわかるんだからいいじゃないですか、戻りましょ」
「本当におまえはこの二ヶ月で図々しくなったな」
「おかげさまで」

 にっこりと笑うと、忌々しそうな舌打ちが降ってきた。本当にこの人、態度悪いな! 気にしたら身がもたないから、べつにいいけど。

「しかたねぇな、戻るぞ」

 ――でも、こうやって声をかけてくれるだけ、あたしを受け入れてくれているということなんだよな。

 そう思うことで留飲を下げて、先輩に続いて屋内に戻る。季節はもう夏に近い。けれど、この旧館はどこかひんやりとしていて、静かなままだ。
 まるで、外界から閉ざされたように。
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