夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第十話

59.

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「緊張してますか」

 やっぱり俺の服だと大きいですね、と告げた声と全く同じ調子で折原が言う。手招かれるままに戻ったソファー。スペースを開けて座った俺の動作はやはりぎこちなかったのだろうか。

「それとも、怖いですか」

 静かに問い重ねられるそれは、俺がそう思っているからなのか、逃げ場を断たれているように響く。怖くはないと言う代わりに、首を伸ばす。唇に触れるだけの軽いキス。
 高校生だったころ、何度か交わしたそれ。一度、二度、三度。ついばむだけだったそれが、次第に深くなる。その瞬間の、嬉しそうな、幸せそうな折原の瞳の色を見るのが好きだった。そこに映る自分を見るのが好きだった。
 懐かしい記憶だった。
 けれど、それ以上、深くなることはなく離れていく。間近で絡んだ瞳は、子どもだった頃よりもずっと深い色を宿しているように思うのに。囁く声もあの頃とは違う。ずっと経験を積んだ、男のものだ。

「ここが良いですか。ベッドに行きますか」

 あの頃も、その先に進んだことは一度もなかった。

「先輩が選んで良いんですよ」

 自分で推し進めることが、これだけ決心が要ることだと今まで知ろうともしていなかった。

「キスしたい」

 ごちゃごちゃと居座る羞恥心だとか、躊躇いだとかを、吹き飛ばして失くしたかった。

「それから、ベッドが良い」

 何を言っているのだろうと我に返る前に、折原が小さく笑ったのが分かった。その温度に肩から少し力が抜ける。

「可愛いって言っていいですか、今くらい」
「俺を見てそう言うのはおまえくらいだからな」
「良いじゃないですか、俺だけで」

 こんな口説き文句を誰にでも言って見せるのだろうか、と見も知らない相手に一瞬、嫉妬した。その、愛しいと訴えるような瞳で。
 俺が言うような義理はないと分かっていて、それでも、と脳裏を過ったのは、見ないようにしていたはずなのに知ってしまったゴシップの相手だった。
 違う、これは俺のだ。それこそ何の義理もないのに叫びそうになって呑み込んだ。醜い執着だと俺自身が一番思い知っていた。

「俺もシャワー浴びて来て良いですか」
「そのままで良い」

 離れていこうとする腕を引いていたのは、そんなことを思い出していたからかもしれない。その言動にだろう、折原が僅かに首を傾げた。

「先輩って、彼女さんとかとするときも、あんまりそう言うの気にしかったんですか」

 今ここで聞くような話じゃないと思いながらも、俺は答えていた。

「いない」
「え?」
「おまえと離れてから、ずっとつくる気がしなかった」

 なんとなく付き合うことになっても、少しも長続きしなかった。させようとも思っていなかったのかもしれない。
 それももう止めようと思ったのは、大学を卒業する間際。真智ちゃんに呆れ切った、疲れた声で告げられた時だった。
 本気になる気がないなら付き合わないでよ。一番に好きになる気がないなら受け入れないでよ。
 そうやって、ずっと過去と生きていくつもりなんでしょう? 今、近くにいる人間よりそっちが大事なんでしょう?
 否定できなかったのだから、それがすべてだった。
 そして、今、戻ってきている。

「先輩って」
「……なんだよ」
「不意打ちで可愛いこと言いますよね、本当、昔から」

 馬鹿にされていると思うことができれば、また違うのだろうが、そう思うことができない。
 だから、いつも不機嫌そうな声で否定する。それが精一杯だったとは知られてはいないと思うのだけれど。

「ないだろ、そんなこと」
「そうですか? 富原さんがなんだかんだ言って、あんたの面倒を看てたのも、そう言うところがあるからかなぁと勝手に思っていたんですが」
「……」
「今ここでこの話に戻るのもどうかと思うんですけど、先輩は俺がもう全部をなかったことにしていたら、ほっとしたんですか?」

 責めるわけでもなく、折原は言う。ただ、淡々と。 

「俺は先輩に会いたかったですよ、ずっと」

 俺は、その感情をずっとどこかにしまい込んで過ごしてきたような気がしている。

「そんなことも分かりませんか」

 どこか自嘲を含んだ声に、そうじゃないと口走っていた。

「折原が、じゃなくて。俺の問題で」
「先輩の?」
「俺が、……おまえに、ずっと酷いことをしたと思っていて」

 あの日、最後の区切りすら付けることができなかったことを。好きか嫌いかそれだけで良いと言われてなお、答えることができなかった。
 いい加減に呆れられるだろうと思ったし、愛想を尽かされるだろうと思っていた。

「だから、それで、嫌いになってくれれば良いとも思ってた」

 我ながらずるい言い様だった。次第に落ちていった視線が上がったのは、折原の声で、だった。

「それは、先輩が俺を嫌いになれないから、ですか」

 あの日のような激情を秘めた瞳ではない、静かなそれ。
 否定しようとはさすがに思えなかった。

「相変わらず受け身ですよね」
「……悪い」
「良いですよ、怒ってますから、今更です」

 さらりと笑って、折原が続ける。

「その代わり、今、ここで答えて下さい」

 好きか嫌いか、それだけじゃないですか。それすら言ってくれないんですか。
 そう言った折原の声が、忘れられなかった。

「そうじゃないと、やりにくいじゃないですか」

 嫌いだとすら言えなかったのが、俺のどうしようもない弱さで、狡さで。そのせいで何年も引きずらせたのではないかと思っていた。
 せめて引導を渡してやれと富原に言われたときだって、そうしなけらばならないと思っていた。ここに来る前も、確かに思っていた。

 ――それなのに。

「好きじゃないって言いたかった」
「そうですか」
「忘れたかった。何もなかったことにしたかった」
「でも、できなかったんでしょう?」

 確信に満ちた声に押されるように、小さく頭を振る。できなかった。

「だったら、いい加減に認めて下さいよ。先輩にとって、その二文字はそんなに重いんですか」

 そんなに怖いですか、と言われていると思った。
 ゲイだとその関係がバレること。
 折原の将来に影響を当たること。
 いつか、離れていってしまうかもしれないこと。
 その怖さのいくつを折原がなかったことにしようとしただろうか、と思った。

「……忘れられなかった」
「違うでしょ、そうじゃなくて」
「離れたくない」
「もっと、はっきり、言って。先輩の声で」

 認めたら最後だと。そう、思っていた。

「先輩」

 昔から、ずっと。その声に呼ばれると、それだけでもう何でも良いような気がしていた。けれど、そんなことがあるわけがなくて。だから、ずっと引きずり込まれないように。落ちていかないように。必死で耐えていた。
 けれど、それに、一体、どれだけの意味があったのだろうか。

「好きだ」

 一度、声に出してしまうと、今まで堰き止めていたものすべてが溢れ出しそうな怖さが確かにあった。
 ……けれど。

「忘れたくて、忘れられなくて……、ずっと何が正しいのか分からなくて、でも」

 耐え切れずに、視線がどんどんと下に落ちていく。手の甲を見つめたまま吐き出す。それが最善だと思っていたことを。

「おまえが幸せだったら、それで良いって、それが良いって、そう思ってた」
「先輩」

 声と一緒に、指先が頬に触れる。大きな手だ。俺よりもずっと大きいようにさえ思える、大人の手。その手が俯いていた顔を上向かせて、世界が折原だけになった。
 キスをしている、と気付いたのは、それからしばらくしてからだった。身じろぎそうになっていた身体から力を抜く。
 抗う必要はない。無理をする必要はない。望んだことだ。言い聞かせるように、紡ぐ。望んだことだ。これ以上、後退しないように。
 俺が、選んだ。

「先輩」

 角度を変えて、何度も繰り返される狭間、声が聞こえた。柔らかい声。その声に呼ばれて、あのころキスを交わした。
 けれど、そのころのとは違う。

「っ……ん……」

 歯列を割って入り込んでくる舌先に口内を弄られて、小さく声が漏れる。羞恥心が膨れ上がってきたけれど、距離を取ろうとは思わなかった。
 置き所の分からない指先を、ただ握り込む。昔はどうしていただろう。縋るように記憶を辿るが、分からないままだった。触れるだけのそれだった。初めて覚えた子どもがするような、それ。
 あのころは、そこにあったのは、――俺と折原の二人だけの経験だけだった。

「おりは――っ、ちょ……ぅん」

 息継ぎの合間に絞り出そうとした声が言葉になり切る前に奪われていく。そんなことあるわけがないのに、食われてしまいそうだと思った。酸欠を訴える頭が、所在なく堕ちていた指先を持ち上げ胸板を押す。その手を折原が掴んだ。
 逃げないで、と。乞われたような感覚に、背筋にぞわりとした何かが走った。逃げない。逃げていたのは、俺自身からで、折原からだった。
 何を頼れば良かったのかすら分からなかった指をその手と絡める。ぎこちない動きだと思った。笑いたいのに笑えない。手を繋いだのは、初めてだった。
 十年。――十年だ。初めて手を伸ばしたあの夜。こんな未来を想像も望みもしていなかったはずだ。

「三年前にも言ったと思うんですけど」

 ゆっくりと離れていったキスの終わり、折原が言う。静かなトーンだった。

「先輩がいないと意味がないんです。俺に幸せになって欲しいってそう願ってくれるなら、俺の目線に立って下さい」

 俺が居なくても何の問題もないだろう。そう何度も俺は言った。俺自身にも言い聞かせるようにして。実生活に問題はなかった。ただ、何かが足らないと思う隙間があっただけで。

「そもそもとして、俺は、先輩とふわふわとした幸せな道ばかりを歩いていきたいと思っているわけじゃないんです、これはずっと」
「……そうか」
「俺は、先輩が居たら、それでもう十分で。きっと、どんな道でも生きていけるから。それでも、あんたがそれじゃ嫌なんだって知ってて。でも」

 三年前のあの日と同じような顔で、一度、折原が言葉を切った。切羽詰まったような、必死な顔を見たのはあのときが初めてかもしれないと思ったそれ。

「それでも、俺を選んだんだったら、その俺の隣にいて下さいよ。俺が何を言われても、あんたの所為で被る不利益があったとしても。あんたが隣に居て、戦ってくださいよ」

 それは、俺がずっと目を背けて考えないようにしていた選択肢で、折原が求めていたものだったのだろうと今更になって思い知る。

「それが良いんだって。一時の感情でも、俺に流されただけでもないって、言ってください。何度でも」
「……折原」
「あんただって、もう怖い怖いって塞いでいるだけの子どもじゃないでしょう。一人で生きていける、いい大人じゃないですか」

 子どもだった――深山にいたころ、この感情はいつか薄れゆくものだと思おうとしていた。けれど、何年経っても消えてなくならなかった。 

「好きだ」

 あのころよりずっと大人びた顔に向かって、はっきりと口にする。二度目だ。それでも、言葉になった後に、ざらりとした罪悪感が舌に残る。気が付かないふりで繰り返す。

「ちゃんと、好きだ。好きだった、もう、ずっと」

 だから、と。続きを振り絞る。

「今だけなんて言わないから、おまえも言うな」

 一方的に言って、今度は自分から口付ける。そうやって、何度も繰り返して、深みにはまってしまいたいとも思っていた。もう、逃げ出せないくらいに。
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