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第八話
46.
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【8】
「先輩って、あんまり肌、焼けないですよね」
部誌を書くペンの音だけが響いていた部室に、不意に静かな声が響いた。折原だ。いつもの馬鹿明るい、と形容の付いてしまいそうなそれとはまた違う温度。
普段を無理して作っているわけではないとも思うが、案外、こっちの方が素なのかもしれないとも思う。
――まぁ、どっちでも良いけど。大変だよな、“天才”も。
「おまえみたいに黒くなって終わらないんだよ。すぐ赤くなるし、水ぶくれにもなるし」
「色が白いのも大変なんですねー。でも、先輩、肌きれいですもんね。良いじゃないですか」
「嬉しくねぇ。と言うか、べつに良くもねぇだろ、女でもあるまいし」
俺たち以外に誰もいない、練習後の部室だった。頭上では、むき出しの蛍光灯が光っていて、羽虫が時折ぶつかりにいっていた音を覚えている。
喧嘩ざたで生じた折原の謹慎も無事に解けて、しばらくのころ。夏が始まろうとしていた時期だった。中学生最後の夏。
「だって、ほら」
部誌を広げている俺の隣で何をするでもなくパイプ椅子に座っていた折原が、その手を伸ばしてきた。
健康的に焼けた肌が部誌に影を作る。そして間近で覗き込んできた瞳がにこりと笑った。
「全然、色が違う」
暇ならとっとと寮に戻れば良いのに、と思っても言わないのは、言い飽きたからだ。そして聞かないと知っているからに過ぎない。
富原が残ってるときは、そんなにしつこく居残ってないのに。と言うことは、俺の問題なのだろうか。部誌は基本的に部長である富原が書くことが多いが、あいつに別の仕事があるときだとか、いないときは俺が書くこともある。今日のように。そして、そうとなった場合、かなりの高確率で、折原が隣にいるような気がするのだ。
煩くしゃべるでもなく、本当に、いるだけなのだけれど。
ごく自然を装って触れそうになっていた腕を持ち上げて、どうでも良い話を口から紡ぎ出す。
「本当に何も良いことねぇよ、これ。いろいろ手間だし、そのくせ、入学したての頃は結構絡まれたし」
「絡まれた?」
「日焼け止めばっかり塗って、何を一丁前に格好つけてんだって言いがかり」
「はは、ありそう」
心配するでもなく折原が笑う。こいつだったら、上手くやったんだろうなぁとは思うが、俺はそんなに要領が良くない。おまけに態度も良くはない、らしい。一年生の頃は因縁染みたことを付けられることも多々あった。
――あぁ、でも、そう言えば、まだあったんだっけ。
あのころとは違い、今だったら、俺は何とでも出来るのに。それを勝手に、――あろうことか俺を庇う形で暴力沙汰を起こした、要領の良いはずの後輩。
そして、話を聞きに行った折の、自分の衝動的としか言いようがない行動までもが脳裏に浮かんで、俺は慌ててそれを打ち消した。
誤魔化すように、ペンを部誌に走らせる。今日の練習メニューに、部員の調子。富原はさすがキャプテンと言うだけあって、良く見ていると、あいつの書いたページを見返す度に感心する。
せめてその半分くらいの分量は書こうと思ってはいるのだけれど。
「それで? どうしたんですか?」
黙ったまま俺の手元を見つめていた折原が、不意にまた口を開いた。
「その先輩」
「あぁ」
そう言えば、話の途中だったなと、俺は記憶の淵を覗いた。あの瞬間に、折原はいなかったのだと思うと少し不思議で、けれど当たり前だと思い直す。やたら近くにいるから、ずっと同じ時間を過ごしていると錯覚してしまうだけで、こいつは後輩で、そして、あと半年もすれば、同じ場所でプレーをすることもなくなるのだった。
「富原が、体質の問題なんだから仕方ないでしょうって。監督とかコーチがいるまでぶちまけて。それで終わり」
良くも悪くも、富原は折原と同じように一目置かれている存在だった。才能、と言う一点に置いて。
「富原さんが?」
深山に入学するより前に、ユース代表で一緒だったことがあるらしく、折原は富原のことを「先輩」でも「キャプテン」でもなくそう呼称する。その呼び方が齟齬を生むのではないかと、こいつが入学したての頃は気を揉んだこともあったが、いつの間にかそれが普通になって、受け入れられている。つまり、俺が気に揉む必要なんてなかったのだろう。折原は、なんでも上手くやる。
「なんか意外。富原さんって、あからさまに先輩を庇わないじゃないですか。影からはいろいろしてたとしても」
「影からは、ってなんだ。影からはって」
「そのままの意味ですけど」
折原が曖昧に笑ったような気がして、俺は紙面から顔を上げた。その先で、後輩は、あまり見たことがない類の顔をしていた。困ったような、――嫉妬を孕んだような。
知らず、ペンを持つ指先に力が入る。けれど、何を言うべきが分からなかった。そんな俺の内心なんてお構いなしに、折原が続けた。どこか、甘い声で。
「ねぇ、先輩。先輩は、富原さんにもあぁ言うこと、して見せるの?」
力を入れずぎたペン先からインクが滲み出て、部誌に黒い染みが出来上がる。耳の奥で、虫の羽音がずっと鳴っていて、だから、それの所為だと思うことにした。思いたかった。
あの日。折原を引きずり降ろしてやりたいと、俺の中の醜さが片鱗を表し掛けたあの、瞬間。俺が開けたのは、パンドラの箱だったのだろうか。
「先輩って、あんまり肌、焼けないですよね」
部誌を書くペンの音だけが響いていた部室に、不意に静かな声が響いた。折原だ。いつもの馬鹿明るい、と形容の付いてしまいそうなそれとはまた違う温度。
普段を無理して作っているわけではないとも思うが、案外、こっちの方が素なのかもしれないとも思う。
――まぁ、どっちでも良いけど。大変だよな、“天才”も。
「おまえみたいに黒くなって終わらないんだよ。すぐ赤くなるし、水ぶくれにもなるし」
「色が白いのも大変なんですねー。でも、先輩、肌きれいですもんね。良いじゃないですか」
「嬉しくねぇ。と言うか、べつに良くもねぇだろ、女でもあるまいし」
俺たち以外に誰もいない、練習後の部室だった。頭上では、むき出しの蛍光灯が光っていて、羽虫が時折ぶつかりにいっていた音を覚えている。
喧嘩ざたで生じた折原の謹慎も無事に解けて、しばらくのころ。夏が始まろうとしていた時期だった。中学生最後の夏。
「だって、ほら」
部誌を広げている俺の隣で何をするでもなくパイプ椅子に座っていた折原が、その手を伸ばしてきた。
健康的に焼けた肌が部誌に影を作る。そして間近で覗き込んできた瞳がにこりと笑った。
「全然、色が違う」
暇ならとっとと寮に戻れば良いのに、と思っても言わないのは、言い飽きたからだ。そして聞かないと知っているからに過ぎない。
富原が残ってるときは、そんなにしつこく居残ってないのに。と言うことは、俺の問題なのだろうか。部誌は基本的に部長である富原が書くことが多いが、あいつに別の仕事があるときだとか、いないときは俺が書くこともある。今日のように。そして、そうとなった場合、かなりの高確率で、折原が隣にいるような気がするのだ。
煩くしゃべるでもなく、本当に、いるだけなのだけれど。
ごく自然を装って触れそうになっていた腕を持ち上げて、どうでも良い話を口から紡ぎ出す。
「本当に何も良いことねぇよ、これ。いろいろ手間だし、そのくせ、入学したての頃は結構絡まれたし」
「絡まれた?」
「日焼け止めばっかり塗って、何を一丁前に格好つけてんだって言いがかり」
「はは、ありそう」
心配するでもなく折原が笑う。こいつだったら、上手くやったんだろうなぁとは思うが、俺はそんなに要領が良くない。おまけに態度も良くはない、らしい。一年生の頃は因縁染みたことを付けられることも多々あった。
――あぁ、でも、そう言えば、まだあったんだっけ。
あのころとは違い、今だったら、俺は何とでも出来るのに。それを勝手に、――あろうことか俺を庇う形で暴力沙汰を起こした、要領の良いはずの後輩。
そして、話を聞きに行った折の、自分の衝動的としか言いようがない行動までもが脳裏に浮かんで、俺は慌ててそれを打ち消した。
誤魔化すように、ペンを部誌に走らせる。今日の練習メニューに、部員の調子。富原はさすがキャプテンと言うだけあって、良く見ていると、あいつの書いたページを見返す度に感心する。
せめてその半分くらいの分量は書こうと思ってはいるのだけれど。
「それで? どうしたんですか?」
黙ったまま俺の手元を見つめていた折原が、不意にまた口を開いた。
「その先輩」
「あぁ」
そう言えば、話の途中だったなと、俺は記憶の淵を覗いた。あの瞬間に、折原はいなかったのだと思うと少し不思議で、けれど当たり前だと思い直す。やたら近くにいるから、ずっと同じ時間を過ごしていると錯覚してしまうだけで、こいつは後輩で、そして、あと半年もすれば、同じ場所でプレーをすることもなくなるのだった。
「富原が、体質の問題なんだから仕方ないでしょうって。監督とかコーチがいるまでぶちまけて。それで終わり」
良くも悪くも、富原は折原と同じように一目置かれている存在だった。才能、と言う一点に置いて。
「富原さんが?」
深山に入学するより前に、ユース代表で一緒だったことがあるらしく、折原は富原のことを「先輩」でも「キャプテン」でもなくそう呼称する。その呼び方が齟齬を生むのではないかと、こいつが入学したての頃は気を揉んだこともあったが、いつの間にかそれが普通になって、受け入れられている。つまり、俺が気に揉む必要なんてなかったのだろう。折原は、なんでも上手くやる。
「なんか意外。富原さんって、あからさまに先輩を庇わないじゃないですか。影からはいろいろしてたとしても」
「影からは、ってなんだ。影からはって」
「そのままの意味ですけど」
折原が曖昧に笑ったような気がして、俺は紙面から顔を上げた。その先で、後輩は、あまり見たことがない類の顔をしていた。困ったような、――嫉妬を孕んだような。
知らず、ペンを持つ指先に力が入る。けれど、何を言うべきが分からなかった。そんな俺の内心なんてお構いなしに、折原が続けた。どこか、甘い声で。
「ねぇ、先輩。先輩は、富原さんにもあぁ言うこと、して見せるの?」
力を入れずぎたペン先からインクが滲み出て、部誌に黒い染みが出来上がる。耳の奥で、虫の羽音がずっと鳴っていて、だから、それの所為だと思うことにした。思いたかった。
あの日。折原を引きずり降ろしてやりたいと、俺の中の醜さが片鱗を表し掛けたあの、瞬間。俺が開けたのは、パンドラの箱だったのだろうか。
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