やさしいひと

木原あざみ

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 二週間が経過し、無事に右腕を固定する必要はなくなったものの、完全に治ったわけではない。
 放課後の教室で、スマートフォンでアルバイトの求人を眺めつつ、浅海は溜息をこぼした。

「この腕でもできるバイトってどんなのがあると思う?」
「腕の怪我が治ってない時点で雇わないだろ、ふつう」
「だよなぁ」

 探せばないことはないだろうが、時給の良い案件はあまりない気がする。侑平の返事にもうひとつ息を吐いて、浅海は立ち上がった。今日はひとつ用事があるのだ。

「風見さんの店寄るんだっけ? 俺も途中まで一緒に帰るわ」
「そう。退院したらしいよ。って言っても、バイトさせてくれるっていう話じゃないみたいだけど」

 それだったらよかったんだけど、と八割本音で苦笑する。ちなみに、さすがに片腕が使い物にならなくなった時点で、アルバイトは休むと伝えている。

 ――なんか、もう、達昭さんは店にはいないからって言ってたけど、どういう意味だったんだろうな、あれ。

 断り切れず接客をしていたことも、風見には話していないのだが。もし知られていて、謝られても嫌だな、と思う。
 とは言え、だ。約束をしたものはしかたがない。「風見さんによろしく」と手を振った侑平と別れ、浅海はひさしぶりに店に向かった。
 


「悪かったな。俺が店にいないあいだ、無理させたみたいで」

 開店準備中の店内のカウンターのスツールで、「早く退院できてよかったですね」、「その代わり、おまえが怪我してるけどな」なんて、やりとりを交わしたあと。
 風見に神妙に謝られてしまい、浅海は曖昧な笑みを浮かべた。呼び出された時点で言及される可能性は高いと踏んでいたものの、それはそれ。謝罪は苦手だ。
 
「べつに、無理なんてしてないですよ」

 接客の件に関して言えば、自分が最初に毅然と断っていたら済んだ話なのだ。風見が頭を下げるいわれはない。それに――。

 ――一基さんが解決してくれたんだよな、結局。

 思い出しそうになった記憶に慌てて蓋をし、なんでもない調子で首を振る。

「本当にぜんぜん。大丈夫で……」
「あのな、浅海」

 呆れたように、風見は話を遮った。

「おまえがしっかりしてんのは知ってるし、ある程度ひとりでなんでもできんのも知ってる。でもな」

 伸びてきた手のひらが、わしわしと浅海の髪を掻き回す。予想外の事態に固まった浅海の瞳を見据え、風見は言い切った。

「おまえは子どもなの。それで、俺はそのおまえを雇ってるわけで――つまり、俺に責任があるんだよ。悪かったなって謝るのもそうだし、なんならおまえはもっと俺に文句言っていいわけ。わかる?」
「え……っと、……はい」
「本当にわかってんのか? 微妙な顔してっけど」
「その、……心配してもらってるってことは」

 ちゃんとわかっているつもりだ、と。ぎこちなく首肯する。
 昂輝も、侑平も、自分のアルバイトを心配してくれていたと知っている。今の風見の話もそういうことなのだろうとわかるし、自分が子どもだということも思い知ったばかりだ。

「なら、まぁ、いいけど」

 そう言いつつも、半分以上信じていない調子だった。苦笑いを返した浅海を再びじっと見つめ、風見はふぅと息を吐いた。
 眉間に刻まれたなんとも言えないしわに、「あの」と声をかけようとした瞬間。風見が口を開いた。

「なぁ」
「え? あぁ、はい」
「おまえ、俺がなんでその話知ってると思う?」
「その話って、俺が接客やってたっていう話ですか? 達昭さんじゃ」
「あいつが自分に都合の悪い話、俺にするわけないだろ。あと、『やってた』じゃなくて、『やらされてた』な」
「いや、まぁ、……はい」

 そうですね、と笑って言葉を濁す。なんだか、ものすごく叱られている気分だ。
 荒れていた時分に面倒を見てくれた風見に、浅海はいまだに頭が上がらない。侑平や昂輝の存在も大きかったけれど、頼れる兄貴分でいてくれる大人の存在も、あの当時の自分には必要なものだったからだ。
 まぁ、そうでなくとも、実の兄に弟に対する文句は伝えにくいものがあるけれど。

「ちなみに、昂輝でも侑平でもないからな」
「え……、じゃあ……」

 と言ったはいいものの、浮かぶ名前はひとつも残っていなかった。あるいは、風見の店の誰かが気の毒に思って進言してくれたのだろうか。
 長考を開始した浅海に、風見は種を明かした。どこか嫌そうに。

「八瀬さん」
「……え?」
「あの人に言われたの。かわいがってる子だから、って」

 かわいがってる子だから、という言葉を、浅海は頭の中で繰り返した。そうして、苦笑気味に眉を下げる。

「そっか」

 店に来てくれたときの八瀬の顔が、また浮かんでしまった。そのあとに、同じベッドで眠ったことも。幸せだと思ったことも。

「すみません、なんか迷惑かけて。風見さんにも……一基さんにも」
「だから迷惑じゃねぇって言ってんだろ」

 しつこいと殴るぞ、とすごまれてしまい、浅海はもう一度苦笑いを浮かべた。それ以外にできなかったのだ。
 その苦笑いを呆れた顔で一瞥した風見が、もうひとつ溜息を吐く。

「あのな」
「はい?」
「おまえ、ぜんぜん笑えてねぇぞ、さっきから」
「え……?」
「笑えてない」

 至極嫌そうに断言され、ぎこちなく口元を手で覆う。
 ちゃんとできているつもりだったから、信じられなくて。けれど、風見の言うことが嘘だとも思えなかった。視線を膝に落としたまま、呟く。

「そう、ですか」
「おまえお得意の愛想笑いが保てなくなるようなこと、あったのか。あの人と」
「そういうわけじゃ……」
「まぁ、いいけどな」

 それも、やはり、信じてはいない調子だった。沈黙を選んだ浅海に、呆れたように風見は言い足す。

「とにかく、そういうことだから。八瀬さんに言われたら、俺はそれ以上なにもできないわ」

 黙ったままでいると、「そういう人なの」と念を押されてしまった。

「だから、バイトはそれが治るまで休み。治ったらちゃんと面倒見てやるから、そのあいだに変なバイトに飛びつくなよ? いくら喧嘩慣れしてても、正攻法でくる人間ばっかじゃないんだからな……って、浅海?」
「あ……」

 不審げに名前を呼ばれ、浅海はひとつ瞬いた。

「すみません、大丈夫です」

 頭に過った映像を振り切るように、なんでもないと笑う。きちんとできていたらいいと願うような気持ちだった。
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