やさしいひと

木原あざみ

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 彼の寝室に入るのは、はじめて泊まったあの夜以来だった。

「怖くない?」

 低い優しい声が、骨に響く。そのまま溶けてしまいたい、と思った。そうして、なにもなかったころに還りたい、とさえ。

「怖くない、です。怖くなんて、ない」
 
 笑ってみせたつもりだったものの、きちんと笑顔になっている確証はなかった。これはただの意地だと浅海は理解している。必要なのは自分だけで、彼はそうではない。
 この人は優しいから、罪悪感ゆえに付き合ってくれているだけ。あるいは、もっと義務的にカウンセラーのような心地でいるのかもしれない。
 でも、それでもよかった。彼の優しさに付け込んででも、抱いてほしかった。一瞬でも、この人のものになりたかった。

「一基さん」

 呼びかけるだけで、泣きそうになる。こんな感情も、自分は知らなかった。全部、全部、はじめてのことだ。この人が与えてくれたものだった。
 優しい色の瞳が続きを促すように、じっと見下ろしている。その榛に自分はどう映っているのだろう。なぜか、急にそんなことが気にかかった。
 ずっと、ずっと、自分の顔が嫌いだった。きれいだと褒められても、まったくうれしくなかった。
 それなのに、今、少しでも見栄え良く映っていればいいな、と願っている。もしそうであれば、この顔で良かったと。生まれてはじめて思うことができるかもしれない。
 浅海にとっての八瀬は、そういう相手だった。

「キスしてもいいですか」

 ほんのわずか、驚いたように彼の瞳が揺れる。

「はじめてなんです」

 あの人は、そんなことはしなかったから。否定されることが怖くて、早急に繰り返す。

「はじめてで、だから」

 けれど、それ以上を言い募ることはできなかった。そっと柔らかな唇が落ちてくる。唇に、頬に、瞼に。
 ついばむようなそれは、彼が普段するようなものではないのかもしれない、と思った。甘やかされているだけのような、優しさしかないようなそれ。
 眼の奥が熱くなりそうになるのを堪えて、名前を呼んだ。

「一基、さん」

 好きだと叫ぶ代わりのように、首を伸ばして口づける。頬に触れた彼の指先がゆっくりと滑り、髪を撫でた。
 薄く開いた唇に舌が差し込まれ、深くなった口づけにびくりと身体が揺れる。大丈夫だと主張するように、浅海はぎこちなく舌を絡めた。
 
 随分と前、彼の家のアルバイトからの帰り。彼に駅まで送ってもらった何度かあった夜のひとつ。八瀬と一緒に歩く時間がうれしくて、月がきれいだと言ったことがあった。
 変な意味はなく、見上げたままのとおりだったのだけれど、「なに、それ。もしかして俺のこと口説いてる?」と楽しそうに八瀬は笑って。
 二葉亭四迷のものとされる訳を呟いた。「あなたに愛されるのなら、死んでもいい」。情熱的なそれは、夏目漱石のものとされる訳よりも彼に似合っているような気はしたけれど、浅海にはよくわからなくて。でも。今は少しわかる気がした。

 比べるような経験があるわけではないし、あったとしても比べるものではないとわかっている。
 その上で、この人のセックスは、義務的なまでに丁寧だったな、と浅海は思った。
 感情を抑えた、純粋な気遣いに満ちた行為。それを優しいと評すべきなのかもしれない、とも思う。けれど、浅海には「どうされたい?」と彼が言ったとおりの行為だったと思ったほうがしっくりときたのだ。
 自分が望んだから、望んだとおりに優しく抱いてくれた。それだけ。彼の感情はない、それだけのこと。
 みじめだとは思わなかった。ただ、申し訳ないとは心底思った。これ以上、自分のためにこの人を巻き込んではいけない、とも。

 
 家に連絡をするのなら泊まってもいいのに、という提案を固辞して、帰り支度を整える。
 好意に甘えれば甘える分だけ、せっかく固めたはずの決意が鈍ることはわかっていた。

「よかったの、送っていかなくて」
「大丈夫です、まだ電車もあるので」

 大人として気遣ってくれているだけだとわかっていたので、笑って頭を振る。こうして玄関まで見送ってくれるだけで、本当に十分だ。

「一基さん」

 靴を履き終えたところで、意を決して浅海は呼びかけた。鍵を握りしめたまま、まっすぐに彼を見つめる。

「今までありがとうございました」

 優しくしてくれて、夢を見させてくれた。この人の本心がどうかだなんて、関係がない。それだけで、俺はうれしかった。

「わかった」

 想像していたとおりの、あっさりとした答えだった。

「こちらこそ、今までありがとうね」
「はい」

 だから、浅海も用意していたとおりの笑顔を浮かべることができた。

「本当にありがとうございました。中途半端ですみません」

 結局、今日は買うだけ買ってなにもしていない。そう苦笑すると、いいよ、といつもと同じ柔らかさで八瀬は首を振った。

「気にしないで」
「……はい」

 それがこの人の答えだとわかっていたのに、声が湿り気を帯びそうになる。どうにか堪えて、浅海はもう一度ほほえんだ。

「ありがとうございました」

 その手に鍵を返し、扉を開ける。エレベーターに乗って、エントランスを出ても、浅海は振り返ることはしなかった。

 あの人と会うことは、きっともうないに違いない。
 改めてそう思うと、自分でも制御のできないところで、ずきんずきんと胸が痛んだ。でも、同時に、これでいいのだとも強く思った。
 これが、ちょうどいい引き際だったのだ。自分から言うことができてよかった。あの人に捨てられる前に、見限られる前に。あの人が望むタイミングでさようならを告げたことは、最良の選択だったはずだ。
 言い聞かせて、浅海は前を向いた。

 ――いいんだ、これで。

 ぽつりと心のうちでひとりごちる。ここで退けば、きっとこれ以上嫌われることはない。
 たとえもう会うことはなかったとしても、あの人の中で面倒な子どもになりたくなかった。
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