やさしいひと

木原あざみ

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「浅海くん?」

 急に耳元で響いたように思えた声で、ばちりと目が覚めた。

 ……って、俺、寝てた?

 もう少し帰りを待ってみようと思ったところで、見事に記憶が飛んでいる。机に伏せっていた顔を上げると、見下ろしていた八瀬と目が合った。

「一基さん」

 驚きすぎたせいで、ガタっと椅子が耳障りな音を立てた。その大仰な反応にだろう、八瀬は苦笑いを浮かべている。

「そんな反応されると、こっちが照れるな」
「……すみません」

 自意識過剰としか言えないようなそれに、思わず顔が赤くなる。なんだか、過剰な反応をしてばかりだ。
 けれど、八瀬がそれ以上からかってくるようなことはなかった。

「どうしたの。疲れてた?」
「そんなつもりはなかったんですけど」

 いつもの調子にほっとして、肩から力が抜ける。

「すみません。もう少しだけ一基さん待ってようかなと思ってたら、うとうときちゃったみたいで」

 時間を確認すると、まもなく日付が変わるころだった。

 ――こんな時間なんだな、帰ってくるの。

 よくよく考えると、夜の街で声をかけられたときも、このくらいの時間だった。やはり忙しいのだ。
 そんなふうに思っていると、ふっと八瀬がほほえんだ。

「風邪ひくよ、そんなところで寝てたら」

 先週も会っていないから、だとか。帰りづらい、だとか。
 いろいろと理屈をこねていたけれど、そうじゃないと思い知った気分だった。ただ、顔が見たかっただけだったのだと。
 その証拠に、最近ずっともやもやとしていた心も不思議なくらい穏やかで。
 けれど、迷惑をかけたいわけじゃない。

「すみません、もう帰りますから」

 そう断って、立ち上がる。すでに必要以上に長居してしまっているのだ。早く片づけて帰らないと。
 台所へ戻ろうとしたところで、ふと気づいて振り返る。

「ごはんどうします? 温めてから帰りましょうか」
「それはかまわないけど。というか、どうやって帰るの。送っていこうか?」
「大丈夫です。まだ終電ありますから、それで」

 そんな迷惑をかけられるわけがない。笑顔で断って、やり残しがないかを確認していく。でも、それにしても。

 ――ちょっと、びっくりしたな。

 自分が人の家で寝てしまったこともそうだし、寝起きだったとは言え、あんな反応を示してしまったこともそうだ。
 八瀬は変わらないのに、自分ばかりが気にしてしまっている。それもこれも、自分が子どもだからなのだろうか。
 まぁ、一基さんはいかにも慣れてそうだもんなぁ。そんなふうなことを考えながら帰り支度を整える。暇を告げようとリビングに足を踏み入れたところで、あれ、と浅海は首を傾げた。

「一基さん?」

 同じ場所に立ったままだった八瀬が、にこと小さく笑う。

「駅まで送っていってあげようかなと思って」
「え、でも……」

 迷惑じゃ。予想外の提案に戸惑っていると、彼はあっさりとこう続けた。

「ちょうどいい酔い覚ましかな。もちろん、浅海くんが嫌だったら後にするけど」

 その言い方はちょっとずるい、と思った。そんなふうに言われて、断れるわけがない。だから折れることしかできなかった。

「ありがとう、ございます」

 そうして、この人は大人なんだなと改めて実感した。遠慮せずに受け入れることができるよう、柔らかい言葉で誘導してくれる。

 ――この人の、どこが怖いんだろう。

 昂輝が自分を心配してくれているのだということはわかっている。自分よりもずっと彼のこと知っているのだろうともわかっている。
 けれど、どうしても、そんなふうには思えなかった。

「嫌じゃないです、ちっとも」

 うれしい、とはにかむようにして続ける。本心だった。
 酔い覚ましと言ってくれてはいたけれど、八瀬からアルコールのにおいはしなかった。遅い時間に帰ってきた彼に送ってもらうなんて、迷惑もいいところだ。
 どちらも理解していたのに、断ることができなかった。迷惑をかけたくないと思っていたはずなのに、彼の手で子どもにされているみたいだった。
 はじめてこの家に来たとき、大人に上手に甘えるのも子どもの仕事だと、なんでもない顔で八瀬は言っていた。
 そういう意味で、彼にとって自分は子どもでしかないのだろう。年齢を考えてもあたりまえのことだ。うれしくないわけでもない。
 それなのに。
 自分が大人でないことが少しだけ悔しいような気も、なぜかしてしまった。
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