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「上がる前に、片づけときますね」
忙しない雰囲気の厨房に一声かけてから、浅海はビールケースを抱えて裏口を開けた。途端に、むわりとした熱気が肌を苛んでいく。酒と騒音の混ざった、夜の街のにおい。
このにおいが浅海は嫌いじゃない。そう言うと、似合わないとでも思うのか、不思議そうな顔をする人もいるけれど。
どんな人間も弾き出さないように感じる場所だから落ち着くのかもしれない。
――なんだ、またか。
鼻にかかった甘い声に、路地裏にあるゴミ置き場に向かいかけていた足が止まる。
そういう店が多いからしかたないのだろうが、遭遇する頻度が高いから嫌なのだ。
うんざりとしながらも、浅海は息をひそめた。
今にもやり始めそうな雰囲気だったら物音でも立てて追い払うが、そうでないのなら立ち去るのを待ったほうが賢明だ。できることなら早々にいなくなってはほしいが。
悶々としているうちに、「八瀬さん」という声が聞こえた気がして、あれと首をかしげる。
――八瀬って、そう多い苗字じゃないよなぁ。
暗がりに目を凝らしてしまってから、浅海はおのれの好奇心を呪った。まちがいなく、八瀬だった。
慌ててうつむいたものの、意識は完全に八瀬たちのほうに向いてしまっていて、甘ったるい声が次々に飛び込んでくる。
隣にいたのは、遠目でもわかるくらいきれいな女の人だった。八瀬の恋人なのだろうか。そんなふうに思ってみたものの、すぐに浅海は思い直した。
たぶん、そうじゃない。
女の人の声は甘い媚を含んでいるけれど、対するもうひとつが、とてもそういうふうには聞こえなかったのだ。
――喋り方がきついとか怖いとか、そういうことじゃないけど。
聞き慣れた声とは、どうにも違う感じがする。
自分が子どもだから、わかりやすい「優しい」声を出してくれているだけなのかもしれないが。
そうこうしているうちにヒール音が遠ざかっていって、浅海はほっと力を抜いた。
瞬間、ずっと持っていたビールケースの中で瓶が小さな音を立て、咄嗟に物陰に身を潜める。
聞こえなかったとは思うが、念のためだ。向こうだってこんなところで知り合いと遭遇したくないだろう。
だから、そう。半分くらいは八瀬に気を使ったつもりだったのだ。それなのに。
「浅海くん?」
一発で呼び当てられて、思わず肩が揺れる。たぶん、それが決定打だった。
先ほどのヒール音と異なり、その足音はゆっくりと、だが確実に、こちらに近づいてきている。
観念して、浅海は足を一歩踏み出した。精いっぱいの愛想笑いを浮かべて。
「あ、どうも、……こんばんは」
「はい、こんばんは」
向けられた笑みが余計に気まずくて、必死で会話の突破口を探る。
「か、彼女さんですか」
「ううん、ちがうよ」
自分で聞いておいてなんだが、そうだと思った。だって、甘い空気なんていっさい感じ取れなかった。
とは言え、ですよねと頷くのも失礼な気がして、浅海は曖昧にほほえんだ。突破口を間違えた気しかしない。
「そうなんですね」
生まれた微妙な沈黙に居たたまれなさを覚えていると、八瀬がしかたないなというように笑った。
ちらりと浅海が出てきたビルのほうを見やって、口を開く。
「アルバイト?」
「あ、そうです」
「よく見てるの?」
「……べつに、その」
盗み見していたわけではない……つもりなのだが。
バツの悪さを誤魔化したら、ぶっきらぼうな声になってしまった。
「多いんですよ、ここでそういうことしてる人」
キスくらいならどうのこうのと言うつもりはないが、本番はやめてほしい。わりと本当に心の底からそう思っている。
勝手に人をだしに盛り上がられるのもたまらないし、そもそもとして盗み見して喜ぶ趣味はないのだ。
「好きで見てるわけじゃないですから。絡まれたくないし、絡みたくもないし。だから」
言い募っているうちに、溜息がこぼれてしまった。
「なんで、みんなこんなところでするんだろ」
「浅海くんは、付き合ってる子はいないの?」
「あー……、はい」
ぎこちなく頷いてから、苦笑いを顔に乗せる。なんでもないことだと示すように。
「俺、あんまり恋愛って、その興味なくて……」
「興味がない?」
「はい。その……、馬鹿みたいなこと言ってるってわかってるんですけど、そういう意味で人を好きになるっていうのがよくわからなくて」
「俺も、よくわかってるわけじゃないけどね」
あっさりと笑って、八瀬が問い重ねてくる。
「それとも女とって意味? 浅海くんゲイなの?」
「どうなんだろう。よくわかんないです」
聞かれるがままに、浅海は首をひねった。男だとか、女だとか、よくわからない。だって――。
「誰に対しても、そういうふうに思ったことないから」
ぽつりとこぼれた本音に、浅海は内心で驚いていた。自分がそんなことを言うとは思わなかったからだ。けれど、八瀬は変わらない調子で「へぇ」と相槌を打っただけで。その態度に、意味もなくほっとした。
八瀬はいつもそうだ。過度な関心を示さない。だから、口を滑らせてしまうのかもしれない。こんなふうに。
忙しない雰囲気の厨房に一声かけてから、浅海はビールケースを抱えて裏口を開けた。途端に、むわりとした熱気が肌を苛んでいく。酒と騒音の混ざった、夜の街のにおい。
このにおいが浅海は嫌いじゃない。そう言うと、似合わないとでも思うのか、不思議そうな顔をする人もいるけれど。
どんな人間も弾き出さないように感じる場所だから落ち着くのかもしれない。
――なんだ、またか。
鼻にかかった甘い声に、路地裏にあるゴミ置き場に向かいかけていた足が止まる。
そういう店が多いからしかたないのだろうが、遭遇する頻度が高いから嫌なのだ。
うんざりとしながらも、浅海は息をひそめた。
今にもやり始めそうな雰囲気だったら物音でも立てて追い払うが、そうでないのなら立ち去るのを待ったほうが賢明だ。できることなら早々にいなくなってはほしいが。
悶々としているうちに、「八瀬さん」という声が聞こえた気がして、あれと首をかしげる。
――八瀬って、そう多い苗字じゃないよなぁ。
暗がりに目を凝らしてしまってから、浅海はおのれの好奇心を呪った。まちがいなく、八瀬だった。
慌ててうつむいたものの、意識は完全に八瀬たちのほうに向いてしまっていて、甘ったるい声が次々に飛び込んでくる。
隣にいたのは、遠目でもわかるくらいきれいな女の人だった。八瀬の恋人なのだろうか。そんなふうに思ってみたものの、すぐに浅海は思い直した。
たぶん、そうじゃない。
女の人の声は甘い媚を含んでいるけれど、対するもうひとつが、とてもそういうふうには聞こえなかったのだ。
――喋り方がきついとか怖いとか、そういうことじゃないけど。
聞き慣れた声とは、どうにも違う感じがする。
自分が子どもだから、わかりやすい「優しい」声を出してくれているだけなのかもしれないが。
そうこうしているうちにヒール音が遠ざかっていって、浅海はほっと力を抜いた。
瞬間、ずっと持っていたビールケースの中で瓶が小さな音を立て、咄嗟に物陰に身を潜める。
聞こえなかったとは思うが、念のためだ。向こうだってこんなところで知り合いと遭遇したくないだろう。
だから、そう。半分くらいは八瀬に気を使ったつもりだったのだ。それなのに。
「浅海くん?」
一発で呼び当てられて、思わず肩が揺れる。たぶん、それが決定打だった。
先ほどのヒール音と異なり、その足音はゆっくりと、だが確実に、こちらに近づいてきている。
観念して、浅海は足を一歩踏み出した。精いっぱいの愛想笑いを浮かべて。
「あ、どうも、……こんばんは」
「はい、こんばんは」
向けられた笑みが余計に気まずくて、必死で会話の突破口を探る。
「か、彼女さんですか」
「ううん、ちがうよ」
自分で聞いておいてなんだが、そうだと思った。だって、甘い空気なんていっさい感じ取れなかった。
とは言え、ですよねと頷くのも失礼な気がして、浅海は曖昧にほほえんだ。突破口を間違えた気しかしない。
「そうなんですね」
生まれた微妙な沈黙に居たたまれなさを覚えていると、八瀬がしかたないなというように笑った。
ちらりと浅海が出てきたビルのほうを見やって、口を開く。
「アルバイト?」
「あ、そうです」
「よく見てるの?」
「……べつに、その」
盗み見していたわけではない……つもりなのだが。
バツの悪さを誤魔化したら、ぶっきらぼうな声になってしまった。
「多いんですよ、ここでそういうことしてる人」
キスくらいならどうのこうのと言うつもりはないが、本番はやめてほしい。わりと本当に心の底からそう思っている。
勝手に人をだしに盛り上がられるのもたまらないし、そもそもとして盗み見して喜ぶ趣味はないのだ。
「好きで見てるわけじゃないですから。絡まれたくないし、絡みたくもないし。だから」
言い募っているうちに、溜息がこぼれてしまった。
「なんで、みんなこんなところでするんだろ」
「浅海くんは、付き合ってる子はいないの?」
「あー……、はい」
ぎこちなく頷いてから、苦笑いを顔に乗せる。なんでもないことだと示すように。
「俺、あんまり恋愛って、その興味なくて……」
「興味がない?」
「はい。その……、馬鹿みたいなこと言ってるってわかってるんですけど、そういう意味で人を好きになるっていうのがよくわからなくて」
「俺も、よくわかってるわけじゃないけどね」
あっさりと笑って、八瀬が問い重ねてくる。
「それとも女とって意味? 浅海くんゲイなの?」
「どうなんだろう。よくわかんないです」
聞かれるがままに、浅海は首をひねった。男だとか、女だとか、よくわからない。だって――。
「誰に対しても、そういうふうに思ったことないから」
ぽつりとこぼれた本音に、浅海は内心で驚いていた。自分がそんなことを言うとは思わなかったからだ。けれど、八瀬は変わらない調子で「へぇ」と相槌を打っただけで。その態度に、意味もなくほっとした。
八瀬はいつもそうだ。過度な関心を示さない。だから、口を滑らせてしまうのかもしれない。こんなふうに。
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