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ゆっくりとキスが深くなっていく。開いた唇に侵入してきた舌先を戸惑いながら受け入れる。なにが正解だなんて、分からない。気が付けば、本能に近いところで、その動きを追っていた。距離がなくなる。
なにをやっても器用な男、というのは、こういうこともうまいのだろうか。経験値もなにもかもが違うに決まっている。分かっていて、けれど、なんだか正論では管理できないところでむっとする。
押し倒されるようにして見上げた床の上。唇が離れて、視線が合う。あの夜と、似ているようで違う。初めて見る瞳だと思った。
「本当に、いいの?」
そんなことを言うくせに、笹原の指先は悠生の肩を掴んでいる。いやだと言ったら、瞳の奥に潜む熱を飲み込んで、その手で頭でも撫ぜてくれるつもりなのだろうか。悠生は笑った。
「だから、いいって言ってるだろ」
手を伸ばして頬に触れる。自分からこうして触れたことも、初めてかもしれない。もっと触りたいと言った、笹原の気持ちが少しだけ分かったような気がした。触れたそばから、もっとすべてが欲しくなる。
自分だけのものにしたくなる。そのすべてを知ってしまいたいと願う。そんな、どうしようもならないような、独占欲。
「俺は、おまえが好きなんだ」
だから、と囁く。精一杯の愛を込めて。
「おまえの好きに、してほしい」
笹原の瞳がきょとんと瞬いて、それから、笑った。頬に触れていた指先がからめとられて、そのまま床に張り付けられる。手の甲から伝わる冷たさと相反して、触れた掌はじんわりとした熱を伝えてくる。
「もう、本当」
その声に、あぁ、と知った。この男は、なぜだかは分からないが、本当に俺なんかのことが好きなのだ、と。
「どこで、そんな殺し文句、覚えてくるの」
――そんなの、おまえに決まっている。
俺を変えるのは、いつもおまえで、俺が知らなかったなにかを教えてくれるのも、ぜんぶ、おまえだ。おまえだけなんだ。
返事は、キスに消えていった。自然と力が抜けて眼を閉じる。好きだ、と思った。そして、同時にどこか夢見心地のままだった。こんな感覚が宿る日が来るとは、想像もしていなかった。
「ベッド、いこうか」
あくまでも、提案という体を崩さない台詞に、うん、と悠生も頷いた。笹原の手が離れていくことが、距離が生まれることが、ほんの一瞬なのに寂しいような気さえしてしまって、驚く。顔に出したつもりなんてなかったのに、笑った唇が宥めるようにこめかみに触れる。こそばゆく感じるのを誤魔化すための皴が眉間に生まれる。たぶん、ある意味でいつもどおりの顔だ。
「緊張する?」
気遣っている、というよりかは、どこか楽しんでいるような声。ベッドの上でティーシャツを脱ぎながら、応える。
「してない、って言ったら、絶対、嘘だろ」
初めてのことに戸惑わないはずがない。おまけに、自分で言うのもなんだが、悠生は変化を好まない性質だ。変わらないでいられるなら、進歩がなくてもそのままがいい。部屋の中でひとり、ずっと星を見上げていられるのなら、それが良い。そう思っていた。そうすれば、他人に期待などしなければ、無意味に傷つくこともないから、と。
「でも、おまえとだから、大丈夫」
半分は、逃げたくはなくて、言葉にすることで、すぐに顔を出しそうになる弱さを封じたのかもしれない。けれど、本心だった。笹原とだったら、きっと。
「そう言われると嬉しいけど、プレッシャーだな」
そんなことを言いながらも気負わない顔で笑って、シーツの上に落ちていた悠生の手を取る。その手を自分のむき出しの心臓にあてて、「ほら」と囁く。生きている、音がした。
「俺も、ドキドキしてるでしょ?」
「……本当だ」
その音に、けれど、不思議と悠生の心は落ち着いた。
「好きな人とするんだから、緊張するよ、当たり前でしょ。それと、我慢もしてる」
「え?」
「無理はさせたくない」
返事を悩んでいるあいだにも、声が続く。
「やさしくしてあげたい」
馬鹿にされている、とも、女扱いをされているとも思わなかった。大事にしようとしてくれているのだ、ということだけが伝わってくる。
「気持ちよくだけなってほしい」
掌から伝わる心音を噛み締めながら、頷く。間近で合った瞳の中に自分がいることが、奇跡のように思えた。
どちらからともなく唇が重なる。やりかたなんて分からなくても、心の赴くままに動けばいいのだと分かる。それが少しだけ、不思議だった。
「悠生」
キスの合間に囁かれる名前が、星の名前のように胸に落ちてくる。指先は絡んだまま、唇が触れる範囲が増えていく。頬に、首筋に、鎖骨に。こそばゆさに身をよじると、笹原も笑った。
「気持ちいい?」
「分かんない」
「そりゃ、そうだ。いいよ、分からなくて」
笹原の声は楽しそうだった。けれど、自分の発言が、これからすることを思えば、あまりに情緒がなかったように思えて、言葉を探す。
「でも」
「でも?」
「幸せな感じはする」
言ってしまってから、その言葉を脳内で反芻して顔が赤くなる。けれど、笹原は、からかうこともなく笑った。嬉しそうに。
「俺だって、そうだよ」
口元にキスが落ちてくる。
「悠生に触れることができるのは、すごく嬉しい」
なんで、と何度目になるのか分からないことをまた思った。
勘違いすればいいのに、なんて笹原は笑っていたけれど。この優しさに溺れたら最後、勘違いなんてかわいいものでは終われない自信があった。とめどなく落ちていく。そして、きっと、もう這い上がれない。
こんな、居心地が良く幸せな場所を、他に知らなかった。
熱に濡れた呼吸が自分の部屋に響いている。扇風機が生む微風と、開いた窓から入り込んでくる虫の声。きっと、空の上では夏の星座が輝いているのだろう。汗ばんだ肌の上を指先がなぞっていく。触れられたそばから、輪郭が明瞭になっていくような気分だった。
今までなんの価値もないと頑なに信じていたものが、大切なものに生まれ変わっていくような、感覚。
なにをやっても器用な男、というのは、こういうこともうまいのだろうか。経験値もなにもかもが違うに決まっている。分かっていて、けれど、なんだか正論では管理できないところでむっとする。
押し倒されるようにして見上げた床の上。唇が離れて、視線が合う。あの夜と、似ているようで違う。初めて見る瞳だと思った。
「本当に、いいの?」
そんなことを言うくせに、笹原の指先は悠生の肩を掴んでいる。いやだと言ったら、瞳の奥に潜む熱を飲み込んで、その手で頭でも撫ぜてくれるつもりなのだろうか。悠生は笑った。
「だから、いいって言ってるだろ」
手を伸ばして頬に触れる。自分からこうして触れたことも、初めてかもしれない。もっと触りたいと言った、笹原の気持ちが少しだけ分かったような気がした。触れたそばから、もっとすべてが欲しくなる。
自分だけのものにしたくなる。そのすべてを知ってしまいたいと願う。そんな、どうしようもならないような、独占欲。
「俺は、おまえが好きなんだ」
だから、と囁く。精一杯の愛を込めて。
「おまえの好きに、してほしい」
笹原の瞳がきょとんと瞬いて、それから、笑った。頬に触れていた指先がからめとられて、そのまま床に張り付けられる。手の甲から伝わる冷たさと相反して、触れた掌はじんわりとした熱を伝えてくる。
「もう、本当」
その声に、あぁ、と知った。この男は、なぜだかは分からないが、本当に俺なんかのことが好きなのだ、と。
「どこで、そんな殺し文句、覚えてくるの」
――そんなの、おまえに決まっている。
俺を変えるのは、いつもおまえで、俺が知らなかったなにかを教えてくれるのも、ぜんぶ、おまえだ。おまえだけなんだ。
返事は、キスに消えていった。自然と力が抜けて眼を閉じる。好きだ、と思った。そして、同時にどこか夢見心地のままだった。こんな感覚が宿る日が来るとは、想像もしていなかった。
「ベッド、いこうか」
あくまでも、提案という体を崩さない台詞に、うん、と悠生も頷いた。笹原の手が離れていくことが、距離が生まれることが、ほんの一瞬なのに寂しいような気さえしてしまって、驚く。顔に出したつもりなんてなかったのに、笑った唇が宥めるようにこめかみに触れる。こそばゆく感じるのを誤魔化すための皴が眉間に生まれる。たぶん、ある意味でいつもどおりの顔だ。
「緊張する?」
気遣っている、というよりかは、どこか楽しんでいるような声。ベッドの上でティーシャツを脱ぎながら、応える。
「してない、って言ったら、絶対、嘘だろ」
初めてのことに戸惑わないはずがない。おまけに、自分で言うのもなんだが、悠生は変化を好まない性質だ。変わらないでいられるなら、進歩がなくてもそのままがいい。部屋の中でひとり、ずっと星を見上げていられるのなら、それが良い。そう思っていた。そうすれば、他人に期待などしなければ、無意味に傷つくこともないから、と。
「でも、おまえとだから、大丈夫」
半分は、逃げたくはなくて、言葉にすることで、すぐに顔を出しそうになる弱さを封じたのかもしれない。けれど、本心だった。笹原とだったら、きっと。
「そう言われると嬉しいけど、プレッシャーだな」
そんなことを言いながらも気負わない顔で笑って、シーツの上に落ちていた悠生の手を取る。その手を自分のむき出しの心臓にあてて、「ほら」と囁く。生きている、音がした。
「俺も、ドキドキしてるでしょ?」
「……本当だ」
その音に、けれど、不思議と悠生の心は落ち着いた。
「好きな人とするんだから、緊張するよ、当たり前でしょ。それと、我慢もしてる」
「え?」
「無理はさせたくない」
返事を悩んでいるあいだにも、声が続く。
「やさしくしてあげたい」
馬鹿にされている、とも、女扱いをされているとも思わなかった。大事にしようとしてくれているのだ、ということだけが伝わってくる。
「気持ちよくだけなってほしい」
掌から伝わる心音を噛み締めながら、頷く。間近で合った瞳の中に自分がいることが、奇跡のように思えた。
どちらからともなく唇が重なる。やりかたなんて分からなくても、心の赴くままに動けばいいのだと分かる。それが少しだけ、不思議だった。
「悠生」
キスの合間に囁かれる名前が、星の名前のように胸に落ちてくる。指先は絡んだまま、唇が触れる範囲が増えていく。頬に、首筋に、鎖骨に。こそばゆさに身をよじると、笹原も笑った。
「気持ちいい?」
「分かんない」
「そりゃ、そうだ。いいよ、分からなくて」
笹原の声は楽しそうだった。けれど、自分の発言が、これからすることを思えば、あまりに情緒がなかったように思えて、言葉を探す。
「でも」
「でも?」
「幸せな感じはする」
言ってしまってから、その言葉を脳内で反芻して顔が赤くなる。けれど、笹原は、からかうこともなく笑った。嬉しそうに。
「俺だって、そうだよ」
口元にキスが落ちてくる。
「悠生に触れることができるのは、すごく嬉しい」
なんで、と何度目になるのか分からないことをまた思った。
勘違いすればいいのに、なんて笹原は笑っていたけれど。この優しさに溺れたら最後、勘違いなんてかわいいものでは終われない自信があった。とめどなく落ちていく。そして、きっと、もう這い上がれない。
こんな、居心地が良く幸せな場所を、他に知らなかった。
熱に濡れた呼吸が自分の部屋に響いている。扇風機が生む微風と、開いた窓から入り込んでくる虫の声。きっと、空の上では夏の星座が輝いているのだろう。汗ばんだ肌の上を指先がなぞっていく。触れられたそばから、輪郭が明瞭になっていくような気分だった。
今までなんの価値もないと頑なに信じていたものが、大切なものに生まれ変わっていくような、感覚。
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