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「あれ、嘘。……え? もしかして、真木くん?」
戸惑い気味に語尾が揺れたのは、同級生だとはかろうじて認識していたとしても悠生の名前を呼んだことがなかったからだろう。
アルバイトをすることになった塾の講師の控え室で、次の授業の準備をしていたさなかにかけられた声に、テキストから視線を上げる。その先にいたのは、一人の女性だった。見覚えがあるような気はするけれど、名前が出てこない。そんな悠生に気を悪くしたふうでもなく、彼女は矢継ぎ早に喋りだした。
「私、春からずっとこの塾でバイトしてるんだ。夏期講習とかがあるから、夏休みの期間中はバイトさんも増えるって聞いてて。それで、うちの大学の子も来るよって教えてもらってたから、真木くんの名前も聞いてたんだけど、イメージ変わってるからびっくりしちゃった! 真木くんが来るって聞いてなかったら気づかなかったかも。どうしちゃったの? あ、私の名前、分かる?」
よく動く口だなぁと半ば感心しながら見守っていたところに問いかけられて、まごつく。視線が彼女の首元から垂れ下がっているネームプレートに辿り着いて、悠生は見たままを呼んだ。
「玉井、さん」
「そう、そう。良かった。知っていてくれて。たまちゃんで良いよ。みんなそう呼ぶから」
にこ、と人当たり良く笑う顔に、どう応じるべきか分からないまま、悠生は曖昧に首を傾げた。人は見た目が九割だなんて言うけれど。今までと同じ仕草をしていても、以前だったら「暗い」「なにを考えているか分からない」と評されていたものが「クール」だの「かわいい」だのに変わるのだから、真実を突いている。
「私も真木くんのこと名前で呼んでいい? 葵くんがよく『悠生』って呼んでるから。仲良いんだなって思って見てたんだ」
「いや」
期待に揺れる瞳から視線を逸らしたくなりながら悠生は続けた。「名字で」
「なんか、慣れてないから」
嘘だ。本当は名字で呼ばれる方がずっと嫌いだった。けれど、なぜか下の名前で呼ばれたくなかった。
「分かった。じゃあ、真木くんね」
微笑む顔は人当たり良く、感じのいいものだった。それなのに身構えてしまうのは、自分の性分か。
――いや、今まで、コミュニケーションを避けてきたツケか。
変えていかなければ駄目だ。何度目になるのか分からないことを言い聞かせて、悠生は
構わないという意思表示で頷いて見せた。ほっと彼女――玉井が相好を崩す。やはり自分はとっつきにくいのだろう。
「それにしても、いきなりイメージ変わったねぇ。どうしたの? もしかして葵くんにやってもらったとか?」
「いや……」
「あ、そうだったね。葵くん、今、長期のバイトに行ってるんだっけ」
「――え?」
「あれ。違ったかな? 確か、そう言ってたけどなぁ。真木くんは来てなかったけど。テストの後に飲み会あったでしょ。そのときに言ってたよ。長期の……なんだっけ、ほら、泊まり込み的な? みたいなバイト入れちゃったから、夏休みは遊べないって」
そう言われると、この数日、隣の部屋から生活音が聞こえていなかった。
――なんだよ。
仲違いをしているから知らなくても無理はないのに、悠生はささくれ立つ気持ちを抑えられなかった。俺は、そんな話、聞いてない。
「そういや、言ってたかも」
「だよね、良かった。と言っても、私もはっきりした場所とか知らないんだけどさ。葵くんって、案外、秘密主義なところあるよね」
何気ない言葉だったのだろうが、なぜかそれは悠生の中に突き刺さった。確かに笹原にはそういうところがあった。聞き上手で、つい余計なことまで話してしまうのに、笹原自身のことは実はあまり知らない、と言うような。
「ごめん。もう授業始まっちゃうね」
準備の邪魔しちゃってごめんね。笑って、玉井も問題集を選んで、いくつかをコピーしていく。溜息を飲み込んで悠生もそっと視線を手元に落とした。そのまま本を閉じて、書棚に戻す。
「あ、真木くん」
立ち去ろうとした悠生の背に、声がかかる。
「次のコマで今日は終わり? だったら、そのあと一緒にご飯でも行かない?」
「いや、……」
「二人じゃなくて。他の先生も誘うから。良かったら」
愛想よく続けられて、悠生は躊躇のあと、首をぎこちなく縦に振った。断り続けていたら、こんな格好になった意味がたぶんないのだろう。交流して、友達をつくって、明るくふるまって。そうすれば、後期の授業が始まるころには、笹原にも普通の顔で笑うことができるだろうか。
――そもそも、普通ってなんだ?
中学生のようなことを思案してしまって、数学の問題を生徒が解くのを待ちながら、悠生は内心で苦く笑った。
普通もなにも、そもそも笹原の前で笑っていたかどうかも定かではない。不愛想な自覚はあるのだ。けれど。
――でも、それでも、あいつは俺の隣が楽だって言ってくれてたんだよな。
その優しさにずぶずぶと甘えていた結果が、今なのだとすれば、どうしようもないような気もするけれど。
戸惑い気味に語尾が揺れたのは、同級生だとはかろうじて認識していたとしても悠生の名前を呼んだことがなかったからだろう。
アルバイトをすることになった塾の講師の控え室で、次の授業の準備をしていたさなかにかけられた声に、テキストから視線を上げる。その先にいたのは、一人の女性だった。見覚えがあるような気はするけれど、名前が出てこない。そんな悠生に気を悪くしたふうでもなく、彼女は矢継ぎ早に喋りだした。
「私、春からずっとこの塾でバイトしてるんだ。夏期講習とかがあるから、夏休みの期間中はバイトさんも増えるって聞いてて。それで、うちの大学の子も来るよって教えてもらってたから、真木くんの名前も聞いてたんだけど、イメージ変わってるからびっくりしちゃった! 真木くんが来るって聞いてなかったら気づかなかったかも。どうしちゃったの? あ、私の名前、分かる?」
よく動く口だなぁと半ば感心しながら見守っていたところに問いかけられて、まごつく。視線が彼女の首元から垂れ下がっているネームプレートに辿り着いて、悠生は見たままを呼んだ。
「玉井、さん」
「そう、そう。良かった。知っていてくれて。たまちゃんで良いよ。みんなそう呼ぶから」
にこ、と人当たり良く笑う顔に、どう応じるべきか分からないまま、悠生は曖昧に首を傾げた。人は見た目が九割だなんて言うけれど。今までと同じ仕草をしていても、以前だったら「暗い」「なにを考えているか分からない」と評されていたものが「クール」だの「かわいい」だのに変わるのだから、真実を突いている。
「私も真木くんのこと名前で呼んでいい? 葵くんがよく『悠生』って呼んでるから。仲良いんだなって思って見てたんだ」
「いや」
期待に揺れる瞳から視線を逸らしたくなりながら悠生は続けた。「名字で」
「なんか、慣れてないから」
嘘だ。本当は名字で呼ばれる方がずっと嫌いだった。けれど、なぜか下の名前で呼ばれたくなかった。
「分かった。じゃあ、真木くんね」
微笑む顔は人当たり良く、感じのいいものだった。それなのに身構えてしまうのは、自分の性分か。
――いや、今まで、コミュニケーションを避けてきたツケか。
変えていかなければ駄目だ。何度目になるのか分からないことを言い聞かせて、悠生は
構わないという意思表示で頷いて見せた。ほっと彼女――玉井が相好を崩す。やはり自分はとっつきにくいのだろう。
「それにしても、いきなりイメージ変わったねぇ。どうしたの? もしかして葵くんにやってもらったとか?」
「いや……」
「あ、そうだったね。葵くん、今、長期のバイトに行ってるんだっけ」
「――え?」
「あれ。違ったかな? 確か、そう言ってたけどなぁ。真木くんは来てなかったけど。テストの後に飲み会あったでしょ。そのときに言ってたよ。長期の……なんだっけ、ほら、泊まり込み的な? みたいなバイト入れちゃったから、夏休みは遊べないって」
そう言われると、この数日、隣の部屋から生活音が聞こえていなかった。
――なんだよ。
仲違いをしているから知らなくても無理はないのに、悠生はささくれ立つ気持ちを抑えられなかった。俺は、そんな話、聞いてない。
「そういや、言ってたかも」
「だよね、良かった。と言っても、私もはっきりした場所とか知らないんだけどさ。葵くんって、案外、秘密主義なところあるよね」
何気ない言葉だったのだろうが、なぜかそれは悠生の中に突き刺さった。確かに笹原にはそういうところがあった。聞き上手で、つい余計なことまで話してしまうのに、笹原自身のことは実はあまり知らない、と言うような。
「ごめん。もう授業始まっちゃうね」
準備の邪魔しちゃってごめんね。笑って、玉井も問題集を選んで、いくつかをコピーしていく。溜息を飲み込んで悠生もそっと視線を手元に落とした。そのまま本を閉じて、書棚に戻す。
「あ、真木くん」
立ち去ろうとした悠生の背に、声がかかる。
「次のコマで今日は終わり? だったら、そのあと一緒にご飯でも行かない?」
「いや、……」
「二人じゃなくて。他の先生も誘うから。良かったら」
愛想よく続けられて、悠生は躊躇のあと、首をぎこちなく縦に振った。断り続けていたら、こんな格好になった意味がたぶんないのだろう。交流して、友達をつくって、明るくふるまって。そうすれば、後期の授業が始まるころには、笹原にも普通の顔で笑うことができるだろうか。
――そもそも、普通ってなんだ?
中学生のようなことを思案してしまって、数学の問題を生徒が解くのを待ちながら、悠生は内心で苦く笑った。
普通もなにも、そもそも笹原の前で笑っていたかどうかも定かではない。不愛想な自覚はあるのだ。けれど。
――でも、それでも、あいつは俺の隣が楽だって言ってくれてたんだよな。
その優しさにずぶずぶと甘えていた結果が、今なのだとすれば、どうしようもないような気もするけれど。
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