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自分の近くにいることが楽だと言われたのは、初めての経験だった。嬉しいと思うのと同じくらいに、なぜか、その言葉は悠生の心をさざめかせた。
チャイムと同時にペンを置く。大学の試験は高校までのそれとは違い、一定時間を過ぎれば解き終わった者は退出することができる。けれど、必修のこの講義の試験を難しいと感じていたのは悠生だけではなかったようで、ほとんどの人間が席に着いたままだった。ようやくこれで前期試験は終わりだ。溜息とも歓喜ともつかぬ空気が講義室に満ちている。
――今日は夜にまた飲み会があるって言ってたな。
頑なにグループラインには登録していないので、その予定は笹原から聞いて知ったことだけれど。ついでに欠席すると告げてもいた。笹原は咎めるでもなく、「頑張ったあとだからゆっくり寝たいよね」と笑っただけだった。
子どもかと思わなくもなかったが、悠生が希望する時間の過ごし方は笹原の言と一字一句違わなかったので、黙り込むしかなかった。その悠生を一瞥して、俺もアパートで悠生とゆっくり飲んでる方が気楽なんだけどね、と。そう言っていたが、笹原は律儀に参加するのだろう。悠生と違って望まれているのだし、笹原自身もそうすることが当たり前だと思っている節がある。
飲み会までどこで時間をつぶそうかと話す楽しそうな声々を後目に、机の上を片付ける。
欠伸を噛み殺したのとほぼ同時に、空いていた前の席に誰かが座った。
分厚いレンズと前髪の隙間から、人当たりの良い笑顔が見える。笹原だ。眼が合うと、力が抜けた笑みに変わる。アパートで二人きりのときに目にすることが増えたそれ。
「疲れてんの?」
「おまえ、俺が昨日、何時に寝たと思ってるの」
「知らねぇよ」
「興味持ってくれても良いじゃん。一応、これでも俺、我慢したのよ? 眠気覚ましに悠生の部屋に行こうかなと何度思ったことか」
「止めろ」
軽口の応酬に、ふっと小さな笑みが落ちそうになって、唇を噛む。なんだかそわそわとして落ち着かないのは、ちらちらと送られる視線の所為なのだろうか。
「悠生、まっすぐアパートに戻る?」
「なんで?」
「えー、もしそうするんだったら、俺も飲み会まで一回帰ろうかなぁと思って」
「どこか行くんだろ」
「だって、……いや、悠生と一緒だったら、寝過ごさないだろうし」
面倒くさいと言いかけて言葉を呑んだらしい笹原に、悠生は今度こそ笑ってしまった。自分にだけこうして愚痴をこぼしたり、甘えるようなことを言ってくるのがおかしい。
「だって、悠生の方がちゃんと起きれるじゃん」
「目覚ましにあれだけ気が付かない方がおかしい」
自分のアラームではなく、壁越しの鳴り止まないアラームで起こされたことが何度となくあるので、自然と声のトーンが下がる。迷惑だと思うほどの頻度ではないのだが、悠生からすれば、なぜ一発で起きられないのか、甚だ疑問だ。
「昔から弱いんだよね、朝。悠生のおかげで助かってます」
「べつに……」
それこそ、それ以外のことで助けられているのは自分なのだ。視線をふいと逸らした悠生に、笹原が「かわいい」と笑う。相変わらず、この男の感覚はよく分からない。
――『弟』なんだろうな、きっと。
以前、笹原自身が言っていたことだ。こんな弟がいたらかわいがっていたのに、と。だから、悠生がどれだけ面倒なことを言っても広い心で受け入れられるし、――今のところ、捨てる気もないのだろう。
捨てる。浮かんだ単語に、勝手に心臓がきゅっと竦んだ。息苦しくなるような感覚を打ち消して鞄を手に取る。
「俺は帰るけど。笹原はこのままどっか行けば?」
「えー、なんで。冷たい」
「冷たくねぇよ。そもそも今日で終わりだろ、大学も。まぁ、俺は」
言いさして、はっと言葉を止める。けれど、後の祭りだった。やたらと嬉しそうな顔で笹原が「そっかぁ」と口にする。
「ま、俺と悠生は夏休みに入っても一緒にいれるもんね。それもそうか。今日はお付き合いしてきます」
「だから、勝手にしろって」
「遅くなるけど拗ねないでよ」
「誰が拗ねるか!」
同棲を始めたばかりの恋人同士のような会話に、かっと顔が熱くなる。そんな悠生を見て笹原はまた笑っている。調子を崩されるのはいつも自分だ。仏頂面を取り繕って、悠生は立ち上がった。
「帰る」
「了解。じゃあ、またね」
振り返らなくても、笹原がいつもの顔で笑っている姿が想像できた。そして、おそらくそれが間違いでないだろうことも。
「今更だけど、なんであの二人って仲良いんだろ」
悠生に聞こえるようにだったのか、聞こえてもいいと思っていたのか。通りすぎた瞬間、女生徒たちの話し声が耳に届いた。
チャイムと同時にペンを置く。大学の試験は高校までのそれとは違い、一定時間を過ぎれば解き終わった者は退出することができる。けれど、必修のこの講義の試験を難しいと感じていたのは悠生だけではなかったようで、ほとんどの人間が席に着いたままだった。ようやくこれで前期試験は終わりだ。溜息とも歓喜ともつかぬ空気が講義室に満ちている。
――今日は夜にまた飲み会があるって言ってたな。
頑なにグループラインには登録していないので、その予定は笹原から聞いて知ったことだけれど。ついでに欠席すると告げてもいた。笹原は咎めるでもなく、「頑張ったあとだからゆっくり寝たいよね」と笑っただけだった。
子どもかと思わなくもなかったが、悠生が希望する時間の過ごし方は笹原の言と一字一句違わなかったので、黙り込むしかなかった。その悠生を一瞥して、俺もアパートで悠生とゆっくり飲んでる方が気楽なんだけどね、と。そう言っていたが、笹原は律儀に参加するのだろう。悠生と違って望まれているのだし、笹原自身もそうすることが当たり前だと思っている節がある。
飲み会までどこで時間をつぶそうかと話す楽しそうな声々を後目に、机の上を片付ける。
欠伸を噛み殺したのとほぼ同時に、空いていた前の席に誰かが座った。
分厚いレンズと前髪の隙間から、人当たりの良い笑顔が見える。笹原だ。眼が合うと、力が抜けた笑みに変わる。アパートで二人きりのときに目にすることが増えたそれ。
「疲れてんの?」
「おまえ、俺が昨日、何時に寝たと思ってるの」
「知らねぇよ」
「興味持ってくれても良いじゃん。一応、これでも俺、我慢したのよ? 眠気覚ましに悠生の部屋に行こうかなと何度思ったことか」
「止めろ」
軽口の応酬に、ふっと小さな笑みが落ちそうになって、唇を噛む。なんだかそわそわとして落ち着かないのは、ちらちらと送られる視線の所為なのだろうか。
「悠生、まっすぐアパートに戻る?」
「なんで?」
「えー、もしそうするんだったら、俺も飲み会まで一回帰ろうかなぁと思って」
「どこか行くんだろ」
「だって、……いや、悠生と一緒だったら、寝過ごさないだろうし」
面倒くさいと言いかけて言葉を呑んだらしい笹原に、悠生は今度こそ笑ってしまった。自分にだけこうして愚痴をこぼしたり、甘えるようなことを言ってくるのがおかしい。
「だって、悠生の方がちゃんと起きれるじゃん」
「目覚ましにあれだけ気が付かない方がおかしい」
自分のアラームではなく、壁越しの鳴り止まないアラームで起こされたことが何度となくあるので、自然と声のトーンが下がる。迷惑だと思うほどの頻度ではないのだが、悠生からすれば、なぜ一発で起きられないのか、甚だ疑問だ。
「昔から弱いんだよね、朝。悠生のおかげで助かってます」
「べつに……」
それこそ、それ以外のことで助けられているのは自分なのだ。視線をふいと逸らした悠生に、笹原が「かわいい」と笑う。相変わらず、この男の感覚はよく分からない。
――『弟』なんだろうな、きっと。
以前、笹原自身が言っていたことだ。こんな弟がいたらかわいがっていたのに、と。だから、悠生がどれだけ面倒なことを言っても広い心で受け入れられるし、――今のところ、捨てる気もないのだろう。
捨てる。浮かんだ単語に、勝手に心臓がきゅっと竦んだ。息苦しくなるような感覚を打ち消して鞄を手に取る。
「俺は帰るけど。笹原はこのままどっか行けば?」
「えー、なんで。冷たい」
「冷たくねぇよ。そもそも今日で終わりだろ、大学も。まぁ、俺は」
言いさして、はっと言葉を止める。けれど、後の祭りだった。やたらと嬉しそうな顔で笹原が「そっかぁ」と口にする。
「ま、俺と悠生は夏休みに入っても一緒にいれるもんね。それもそうか。今日はお付き合いしてきます」
「だから、勝手にしろって」
「遅くなるけど拗ねないでよ」
「誰が拗ねるか!」
同棲を始めたばかりの恋人同士のような会話に、かっと顔が熱くなる。そんな悠生を見て笹原はまた笑っている。調子を崩されるのはいつも自分だ。仏頂面を取り繕って、悠生は立ち上がった。
「帰る」
「了解。じゃあ、またね」
振り返らなくても、笹原がいつもの顔で笑っている姿が想像できた。そして、おそらくそれが間違いでないだろうことも。
「今更だけど、なんであの二人って仲良いんだろ」
悠生に聞こえるようにだったのか、聞こえてもいいと思っていたのか。通りすぎた瞬間、女生徒たちの話し声が耳に届いた。
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